FeverStory

雨のち喫茶、晴れのち君

第12話 動き出した秒針

ガラス戸を押すと、湿気を含まない乾いた風が店内に流れ込んだ。昨日までの空気とは違う。梅雨明けだ、と栞は思った。カウンターの木目に朝日が差して、細かな埃が金色に浮かんでいる。

開店までまだ一時間はある。

栞は椅子を一脚ずつ下ろしていた。テーブルの脚が床に触れる小さな音だけが、しんとした店内に響く。四つ目の椅子を下ろしたところで、ガラス戸の向こうに人影が立った。見慣れた背格好だった。

鍵はまだ開けていない。

栞は手を止めて戸口に向かう。鍵を外してドアを引くと、航平が立っていた。白いワイシャツの袖を肘までまくっている。ネクタイは締めていなかった。その手には、厚手の封筒が一つ。

「おはようございます」

航平の声には、昨日までの硬さがなかった。緊張はまだある。でもそれは、相手を恐れる緊張ではなく、大事なものを差し出す前の静けさに近い。

「どうぞ」

栞が脇に寄ると、航平は小さく会釈して店内に入った。コーヒーの残り香がまだかすかに漂っている。彼はいつものカウンター席に歩み寄り、でも座らずに振り返った。

「これ、昨夜まとめました」

差し出された封筒を受け取る。重みがあった。十枚以上は入っている。

「計画書です。会社を辞めたので、個人として作れるものには限りがありますが」

「会社を……辞めたんですか」

「昨日、正式に受理されました」

航平は淡々と言った。でもその目はまっすぐ栞を見ている。逃げも隠しもしない視線だった。十年ぶりにこの店に来たときには、カウンター越しに何かを探るような目をしていた男が、今は違う。

栞は封筒を胸に抱えたまま、少しだけ指先に力を込める。紙の角が、エプロンの布越しに手のひらに食い込んだ。

「聞いてもいいですか。どうして辞めようと思ったのか」

「この街に来たときの自分が、間違っていたからです」

航平は少しだけ口元をほころばせた。自嘲に近い、でも吹っ切れた笑みだった。

「正義感で来たつもりだった。再開発で街を良くするんだって。でも、あの計画は誰かを置き去りにする前提でできていた。それに気づいたのに、途中で引き返せなかったのは、自分の弱さです」

言葉を区切って、彼は窓の外を見た。アーケードの向こうに、真夏のような青空が広がっている。

「辞めるのは遅すぎたかもしれません。でも、この街に残ってできることを探したかった」

栞は封筒をカウンターに置き、手でなぞるように表面を撫でた。航平の字で「星見商店街活性化計画案」と書かれている。几帳面で、少し右上がりの癖のある文字。昔、ノートの端に書いていた落書きと同じ筆跡だ。

「読んでみても?」

「そのために持ってきました」

栞は封を開け、中の書類を取り出した。一枚目は商店街の見取り図だった。手書きのマップに、各店舗の名前と、その横に小さな注釈がついている。

『ひだまり』を中心に、小さな矢印が放射状に伸びている。カフェを起点にした朝市の開催。空き店舗を活用した週末の手作り市。アーケードのライトアップ計画。どれも、大規模な再開発とは正反対の、小さな積み重ねで街を変えていく提案だった。

三枚めくったところで、栞の手が止まった。

そこには、「高校生による商店街マップ制作プロジェクト」という項目があった。自分たちが高校の課題で作った、あの手作りの地図。空き店舗の前に花を植える提案や、お年寄り向けの休憩所を作る構想を、無邪気に書き込んだものだ。

「覚えてたんですか」

声が少し震えた。航平は答えず、ただ深く頷いた。

「あれから十年経って、街も人も変わった。でも、あのとき考えたことを実現するのに、補助金も補償も必要なかったんだって、やっとわかったんです」

栞はページを繰りながら、何度もまばたきを繰り返した。涙が出そうになるのを、コーヒーを淹れるときの集中力で押しとどめる。最後のページには、数字の羅列があった。各計画に必要な概算費用と、その調達方法。助成金や寄付だけでなく、彼自身が貯めた貯金の一部を投じる可能性まで書かれている。

「これ……」

「個人でできることは限られてます。でも、誰かの許可を待ってるだけじゃ、十年前と変わらない」

航平はスツールに手をかけ、それでもまだ座らずに言った。

「この計画が受け入れられるかどうかは、栞さんと、商店街のみなさん次第です。でも、まずはあなたにと思って」

栞は書類を閉じた。指先が紙の端でかすかに震えている。向かい合う航平の顔をまっすぐ見上げる。彼の左手首には、古い火傷の痕が、まくった袖の下からわずかに覗いていた。

「あのとき、聞けなかったことがあります」

栞はカウンターに両手をついた。麻のエプロンの上から、祖母の腕時計がかすかに手首を圧迫する。

「その火傷。どうしてできたのか、話してもらえますか」

航平は自分の左手を見下ろした。傷痕に朝日が当たって、引き攣れた皮膚の影が濃くなる。彼はしばらく黙っていたが、やがてスツールに腰を下ろした。いつもの席だ。

「十年前の、最後の夜です」

栞は息を詰めた。あの夜。航平が突然いなくなった日のことだ。

「父親の会社が倒産して、家も明日には差し押さえられるという日でした。俺は何もできなくて、家を飛び出した。商店街を走って、裏の神社の階段で転んで」

彼はそっと左手の傷をなぞる。

「そこにあった焼却炉に手をついた。熱いのもわからなくて。それだけです。たいした話じゃない」

「たいした話じゃないこと、ないです」

栞の声は、自分でも驚くほど強かった。航平が顔を上げる。

「それを、ずっと隠してたんですね」

「隠してたというか……話す機会がなかった」

「違う。話すと、私が傷つくと思ったからでしょう」

航平は答えなかった。それで十分だった。

栞はカウンター越しに、少しだけ身を乗り出した。手を伸ばす。航平の左手首に、そっと指先を触れた。傷痕は硬く、でも温かかった。

「これを見るたびに思い出します。何もできなかった自分を、今も責めてるんですか」

「……それは」

「もう十分です」

栞は手を引いた。指先に残った傷痕の感触を、エプロンの布でそっと拭う。

「あなたはもう、十分に償いました。違いますか」

窓の外で、アーケードの水滴が一つ、また一つと乾いていく。梅雨明けの陽射しが、商店街の古い看板を白く照らし、シャッターにこびりついた雨の跡を消し去ろうとしていた。

航平は左手を見つめたまま、何かを噛みしめるように唇を引き結んでいた。その目に一瞬だけ揺れたものの正体を、栞はあえて言葉にしなかった。言葉にしなくても、もうわかる。カウンター越しの距離は、手を伸ばせば届く。

栞は手にした計画書をもう一度見下ろした。それから顔を上げ、静かに息を吸う。ちゃんと言葉にしなければ、また同じことの繰り返しだ。あのとき出せなかった手紙と同じ間違いを、もう一度したくない。

「これ、私一人じゃできない」

計画書を両手で持ち、航平に差し出すようにして言った。返すのではない。これが私たちのものだと示すために。

「手伝ってほしいんです。あなたに」

言えた、と思った。十年間、誰にも助けを求められなかった自分が、初めて口にした弱さだった。

航平はゆっくりと立ち上がった。スツールが小さく軋む。彼は一歩カウンターに近づき、計画書の上から、栞の手をそっと包み込んだ。

「もちろん、そのために来た」

二度、小さく繰り返すような握手だった。言葉はいらなかった。

彼の手は温かく、その手のひらのどこかには、十年分の痛みの記憶が刻まれている。今日も、コーヒーを淹れよう。そして、明日も。その先もずっと。

アーケードに光が満ちていく。梅雨明けの空は、深く、どこまでも青かった。

開店直後のあわただしさを縫うように差し込んでいた朝日が、いつの間にかカウンターの端から消えている。閉店作業を終えた栞は、カウンターに両手をついてそっと息を吐いた。外は夕暮れで、アーケードの屋根をオレンジ色に染める西日が、磨きたてのガラス戸に柔らかく反射している。

開店の看板を表に出したばかりの午前十時、ガラス戸が勢いよく開いた。松葉杖の先端が床を叩く音で、それが誰かはすぐにわかる。

「おう、栞。聞いたぞ」

富樫ヨシオは入ってくるなり、カウンターにいた航平をじろりと見据えた。その顔には叱責の色はなく、むしろ何かを確かめるような、探るような目つきだった。

栞はカウンターの内側で、人数分のカップを用意しながら顔を上げる。航平はスツールから腰を浮かせかけたが、富樫は「座ってろ」と手で制した。

「商店街の活性化策を、自分で提案し直すんだそうだな」

航平は背筋を伸ばしたまま、小さく頷いた。

「はい。会社の計画は白紙に戻しました。これからは、皆さんと一緒に——」

「お前さん、会社を辞めるんだろう」

航平の肩がかすかに強張る。その情報はまだ誰にも話していないはずだった。けれども富樫は、こういうことには妙に勘が鋭い。長年この商店街で生きてきた男の直感なのかもしれない。

「……ええ」

「そうか」

富樫はカウンターに肘をつくと、深く息を吐いた。コーヒーミルの横に置かれた航平のメモ帳に視線を走らせ、それから窓の外のアーケードを見やる。シャッターの閉まった店、開いている店、その隙間から覗く青空を、まるで値踏みするかのように順に見つめた。

「婆ちゃんが守りたかったのは、こういうことだったんだろうな」

栞は手を止めた。フィルターをセットしようとした指先が、かすかに震える。

「商店街が自分で考えて、自分で動くことだ。誰かに頼るんじゃなくてな」

富樫は航平に向き直った。

「店主たちを集めて話をしよう。明日にでも、集会所を押さえる。それでいいか」

航平は返事の代わりに、深く頭を下げた。その背中が、いつもより少し大きく見えたのは気のせいだろうか。スーツの肩のあたりに、まだ雨の日に濡れたまま乾いていないような、わずかな皺があった。

「私は外部の人間です。会社の肩書きも、もうすぐなくなります。それでも——」

「肩書きなんざどうでもいいんだよ」

富樫は松葉杖を引き寄せながら立ち上がる。

「問題は、この街に本気かどうかだ。それだけだ」

カウンターに五百円玉が一枚、ことりと置かれる。栞が「お釣りを」と声をかける間もなく、富樫は出口に向かっていた。

「栞、コーヒーうまかったぞ」

振り返らずにそう言って、ガラス戸が閉まる。松葉杖の音がアーケードにゆっくりと遠ざかり、やがて聞こえなくなった。

店内に、挽きたての豆の香りが満ちていた。サイフォンの湯が、とぷん、と小さく跳ねる。

「本気かどうか、か」

航平がぽつりと呟いた。その声は自問のようでもあり、誰かに確かめてもらいたいようでもあった。

栞はカップを手に、静かに答える。

「大丈夫です。久我さんは、もう充分に本気ですから」

陽が傾き始めた夕方、最後の客を見送った栞は、カウンターの椅子を上げようとして手を止めた。

航平が開店から閉店まで、ずっと店の隅のテーブルにいたからだ。空いた時間にはメモを取り、常連が来れば話を聞き、時折窓の外をじっと見つめていた。アーケードの人の流れを、日光の差し込む角度を、何かを測るように観察していた。

「閉店作業、手伝います」

航平が立ち上がる。慣れない手つきで椅子を持ち上げ、テーブルの上に置こうとして、バランスを崩しかけた。栞は思わず小さく笑う。

「それはこちら側の仕事ですよ」

「そう言わずに」

航平は四脚すべてを持ち上げ終えると、今度はフロアの箒を手に取った。その姿があまりにも場違いで、けれど妙に馴染んでいて、栞はエプロンの紐を解きながら、しばらくそれを見ていた。

窓の外が茜色に染まり始める。アーケードの屋根の隙間から、オレンジの光が細長く床に落ちていた。何度も見た光景のはずなのに、今日はその色がやけに優しく感じられる。

「航平さん」

箒を動かしていた手が止まる。栞はカウンターの内側から、自分の左手首に巻いた時計をそっと外した。祖母が遺した、風防に小さな傷のついた古い腕時計。長い間、この時計は止まったままだった。十年前のまま。祖母が亡くなってからも、ずっと。

「これ、見てください」

差し出すと、航平は箒を壁に立てかけ、近づいてきた。その目が時計の文字盤に向けられる。秒針が、規則正しく動いている。チッ、チッ、と、かすかな音を立てながら。

航平が息を呑んだのがわかった。

「今朝、気がついたんです。動き出してました」

どうして動き始めたのかはわからない。ゼンマイを巻いたわけでも、修理に出したわけでもない。ただ、昨夜から今朝にかけて、この時計は再び時を刻み始めた。まるで何かを待っていたかのように。 触れたくて、でも触れられない——航平の視線が自分の指先に向いていることに気づいて、栞は言葉を探した。

「この時計、十年前に止まったままだったんです」

航平は返事をしなかった。その視線は、時計から栞の手元へ、そして自分の左手首へと移っていく。ワイシャツのカフスに隠れた、古い火傷の痕。窓からの夕日が、布地の上からその部分だけをやけに明るく照らしていた。

「見せてもらっても、いいですか」

栞の声は自分でも驚くほど静かだった。震えていなかった。航平は長い間、動かなかった。目を伏せ、何かと戦っているように唇を引き結び、それから——ゆっくりと左手を差し出した。

カフスを外す指先が、ほんの少しだけ迷っていた。それでも、ほどかれたボタンの下から現れた手首には、たしかに引き攣れた皮膚があった。古い火傷の痕。十年前の夜に刻まれた、言葉なき証拠。

栞はただそれを見つめた。

「あなたが背負ってきたものは、これだけじゃないんですよね」

航平は答えない。けれど、隠さなかった。手を引っ込めなかった。それだけで、いま語れるすべてが語られている気がした。カウンター越しに差し出された手首と、同じようにカウンターの上に置かれた古い腕時計。止まっていた時間と、動き出した時間が、同じ木の板の上で並んでいた。

栞は自分の左手首に、もう一度時計を巻き直した。その重さが、今日は違って感じられる。祖母の体温でも残っているかのような、不思議なあたたかさだった。

「これからの時間は」

栞はカウンターに両手をついて、顔を上げた。

「一緒に刻んでいけるといいなと思います」

航平はゆっくりと瞬きをした。その目が夕日に濡れているように見えたのは、きっと気のせいではない。彼はカフスを戻し、ボタンを留めながら、口を開く。

「明日、最初に何をする?」

不意打ちの質問だった。思わず顔を見返すと、航平はもういつもの、少し真面目すぎる表情に戻っていた。メモ帳を開き、万年筆を構えている。

「商店街の現状調査をまとめないと。店舗ごとの営業時間と、空き店舗のリスト——」 「航平さん」 栞はそれを遮った。航平が顔を上げる。茜色の光が、彼の輪郭を縁取っていた。 「明日、最初に何をしますか」

同じ質問を、今度はゆっくりと返す。航平は少し考えて、万年筆を置いた。指先でメモ帳の端をなぞりながら、口元にほんの少しだけ笑みが浮かぶ。

「まずは、この店の常連になることからだ」

カウンターの向こうで、栞もまた小さく笑った。

「ブレンドは四百八十円です」 「わかってる」

そう言って航平は立ち上がり、壁に立てかけた箒をもう一度手に取った。掃き残しのないように、隅から隅まで丁寧に。栞はカウンターの拭き掃除を始める。動き出した時計の秒針が、ふたりの静かな作業の音と重なって、店内に新しいリズムを刻んでいた。

雨のち喫茶、晴れのち君第12話 動き出した秒針