FeverStory

雨のち喫茶、晴れのち君

第9話 夜明けの引き出し

## 第九話

雨上がりのアーケードを、航平は早足で歩いていた。シャッター街に人影はまばらで、軒先から落ちる水滴だけが規則正しい音を立てている。車は商店街の外れの駐車場に停めたままだった。このまま鍵を返して、美咲に後を託して——。

「久我」

声が背後から飛んできた。振り返ると、富樫ヨシオが松葉杖を突きながら、濡れたタイルの上を器用に歩いてくる。頭の包帯はまだ取れていなかった。

「富樫さん。こんな時間に」

「お前を待ってたんだよ。駐車場に行く前に、ちょっと付き合え」

ヨシオは有無を言わさぬ口調で、商店街の裏手を顎で指した。星見の井戸の方角だ。

「どこへ」

「井戸だ。星見の井戸。知ってるだろ」

航平の足が止まった。知っているか——そんな場所、忘れたことなどない。十年前のあの夕暮れ、栞が待っていたのもあの井戸のほとりだった。ヨシオは航平の表情の変化を見逃さず、松葉杖を突きながら歩き出した。

「来いよ。昔話だ。悪いようにはしねえ」

「……今は、そういう時間じゃ」

「時間ならあるさ。お前、今から東京に戻るんだろ。始発までまだ間がある」

図星だった。航平は小さく息を吐き、黙ってヨシオのあとを追った。

井戸は昔と変わらず、ひっそりとそこにあった。石組みの縁には苔がむし、梅雨の湿気を吸って黒ずんでいる。雨は小降りになり、雲の切れ間からわずかな夕日が漏れて、濡れた石畳を橙色に染めていた。

ヨシオは井戸の縁に手を置き、古い石を撫でるようにしてから口を開く。

「この井戸、俺がガキの頃はまだ水が出たんだ。今はもう枯れちまったけどな。ばあちゃんが言ってた——ここには言い伝えがあって、星見の井戸で約束したことは、たとえ年月が経っても消えねえんだと」

航平は黙っていた。そんな迷信、信じる質ではない。でも、この場所に来ると胸の奥がざわつくのは確かだった。

「お前、十年前にここで何を話した」

「……富樫さんには関係ない」

「あるんだよ」

ヨシオは松葉杖を持ち替え、真っ直ぐに航平を見た。その目は、普段の飄々とした様子とは別人のように鋭かった。

「栞のばあちゃんが生前、俺に話してくれたことがある。栞はな、高校の頃、井戸のほとりで誰かと大事な約束をしたんだと。相手の名前は言わなかったが、ばあちゃんは心配してた——『あの子は一度決めたことを曲げないから』ってな」

雨の雫が、軒から落ちて、石畳を叩く。航平は唇を噛んだ。十年前の約束。彼は守れなかった。いや、守らなかった。

「俺はただ、栞には別の人生があると思った」

「それで勝手に終わらせたのか」

「勝手に、じゃない」

声が強くなる。航平は井戸の縁をぎゅっと握った。冷たい石の感触が手のひらに食い込む。

「俺の家はめちゃくちゃだった。親父の借金で、夜逃げ同然にこの街を出た。そんなやつが、栞に何を言える。『待っててくれ』か? 『好きだ』か? そんな資格、どこにもなかった」

「で、今回も同じことをするのか」

ヨシオの声は静かだった。責める調子ではない。ただ、そこにある事実を確かめるような口調。

「お前はさ、十年経っても同じことを繰り返そうとしてる。勝手に決めて、勝手に理由をつけて、勝手に身を引く。それが誰のためになるんだ」

「……これ以上、迷惑はかけられない」

「栞は迷惑だって言ったのか」

言っていない。ただ「あなたはいつもそうだ」と、あの敬語で言っただけだ。でもその言葉には、十年分の傷が滲んでいた。彼女をあそこまで追い詰めたのは、俺の選択だ。

「俺が関わると、あいつはいつも傷つく」

「それはお前のせいか」

ヨシオは深く息を吸い込み、井戸の水面を覗き込んだ。もう水はほとんどなく、底の方に黒い泥が溜まっているだけだ。

「ばあちゃんが言ってたよ。この店と土地は、栞のために守ってきたんだと。あの子がいつか帰ってきたとき、安心して暮らせる場所を残したかった。それだけだったってな」

航平は顔を上げた。祖母が? そんなことを。

「再開発が来ようが、客が減ろうが、ばあちゃんは絶対に店を手放さなかった。それどころか、『栞が誰かとこの店で笑ってるのを見たい』って言いながら、店の改装もせずに置いてたんだ。あの古い机も、あのカウンターも、全部そのまま」

ヨシオは松葉杖を立て直し、航平に向き直った。

「その『誰か』をお前だとは言わなかった。でもな、栞が高校の頃からずっと変わらずに持ち歩いてるものがあるんだ。古い腕時計——それはばあちゃんの形見だが、その風防に入った小さな傷。それを初めてつけたのは、十年前のある日だったんだと」

航平の胸が締め付けられた。腕時計の傷——昨夜、自分が机を叩いた衝撃で、新たな傷がついたあの時計。十年前の最初の傷も、きっと自分のせいだ。彼女と初めて本音をぶつけ合ったあの日。

「俺は」

言葉が詰まる。謝れば済む話じゃない。取り返せば済む話でもない。でも——。

「俺は、どうすれば」

「自分で考えろ。今度は逃げるな」

ヨシオはそれだけ言うと、くるりと背を向けて、松葉杖のリズムを響かせながら商店街の方へ戻っていった。残された航平は、井戸の縁に手を置いたまま、遠くでカラスが鳴くのを聞いていた。夕日はもうほとんど沈み、街灯がひとつ、ふたつと点り始めている。

閉店の看板をかけてから十分ほど経った頃、ガラス戸の向こうに女の姿が立った。美咲だった。傘は差していない。肩が少し濡れている。

栞はドアロックを外し、彼女を中に入れた。

「すみません、もう閉めてしまって」

「いいの。ちょっと話があって」

美咲はカウンターの一番端の席に腰を下ろした。いつもの明るさはなく、顔には疲れが滲んでいる。

「コーヒー、いりますか」

「ううん、大丈夫。すぐに出るから」

栞は美咲の正面に立った。まだエプロンは外していない。何か悪い知らせだということは、その表情でわかった。

「彼、東京に戻るって」

美咲はカウンターの木目を指でなぞりながら言った。わざと栞の目を見ないようにしている。

「再開発のプロジェクトから手を引いて、本社に辞表を出すかもしれません。業務引き継ぎのメールがさっき届いて、慌ててここに来たんです」

辞表。プロジェクトから手を引く。昨夜、航平が言った「計画を白紙に戻す」という言葉は、やはり本気だったのか。

「どうして、そんな」

「わかりません」

美咲はらしくなく強い口調で遮った。初めて栞の目を正面から見据える。

「大学の頃から十年以上、彼の仕事ぶりを見てきました。合理的で、感情的にならず、どんな案件でも損得を計算できる人です。なのに今回だけは、全部がめちゃくちゃだ。志願してこの計画に来たのも、急に手を引くと言い出すのも——どちらも彼らしくない」

栞の指が、無意識に腕時計に触れた。祖母の形見の古い時計。その風防には昨夜ついたばかりの新しい傷がある。

「志願、したんですか」

「ええ。彼、自分からこの再開発に手を挙げたんです。本社にはもっと大きなプロジェクトがあったのに、わざわざこの街の案件を選んだ。理由は聞いても教えてくれませんでしたけど」

コーヒーマシンのパイロットランプが、暗い店内でぼんやりと赤く光っている。栞は何か言わなければと思った。でも、声にならなかった。

美咲は立ち上がった。

「私は明日、彼を引き止めます。仕事のパートナーとして、これは看過できない。でも——」

彼女は振り返らずに、ドアの前で少しだけ立ち止まった。

「もし彼がこの街に来た理由が、仕事じゃないところにあるなら。私の手には余るから」

そう言い残して、美咲は夜のアーケードに消えた。雨がまた、ぽつぽつと降り始めている。軒先を叩く音が、静かな店内に響いた。

栞はその場に立ち尽くしていた。

志願して——この街に来た。

美咲の言葉が、耳の奥で繰り返し響く。自分から志願した。十年前、何も言わずにこの街を去った男が、十年経って、自らこの場所に戻ってきた。

それは、どういう意味なのか。

栞はゆっくりと、左手首の腕時計に触れた。指の腹でなぞる小さな傷。十年来のものと、昨夜ついたばかりのもの。どちらも彼がつけた傷だった。でも——。

「違う」

声に出していた。自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。

傷つけたのは、彼だけじゃない。

私はずっと、自分を「置き去りにされた側」だと思ってきた。傷つけられて、理由もわからず、ただ待つしかなかった哀れな被害者。そうやって十年間、自分の感情を棚上げにしてきた。

でも、違う。

彼はきっと、事情があった。家族が夜逃げ同然に街を出たことを、私はずっと後になってから人づてに聞いた。当時の航平は、どんな思いでこの街を去ったのか。どんな顔で私に「行く」と言えなかったのか。

私はそれを、考えたことがあっただろうか。

いや、なかった。ただ「去られた」という痛みにしがみついて、彼の事情を想像することすらしなかった。知ろうともしなかった。

「ごめん」

誰に言うでもなく、栞はつぶやいた。祖母の時計の風防が、店の蛍光灯を受けて静かに光っている。

彼は昨夜、机を叩いた。感情をあらわにして、声を荒げた。あんな航平を見たのは初めてだった。いつも冷静で、理路整然としていて、こちらの気持ちなど斟酌しない——。そう思っていた。でも違った。彼はただ、自分の感情を出すのが下手なだけなのだ。私と同じように。

栞はエプロンを外し、カウンターの引き出しにしまった。その隣の、一段深い引き出し——昨夜、手紙を入れた場所。今はまだ、開けられない。でも、遠くないうちに、開けなければならない。

彼が自らこの街に来た理由を、私はまだ知らない。でも、それを知ろうとせずに終わらせることは、もうできない。

奥座敷に上がり、畳の上に座った。祖母が使っていた古い箪笥が、部屋の隅に置いてある。六段ある引き出しの、上から三番目。高校の卒業と同時に、私はここにたくさんのものを仕舞い込んだ。いや、仕舞い込んだというより——封印した。

手を伸ばす。指先が、引き出しの取っ手に触れた。冷たい金属の感触。そのまま引けば、中身はすぐに出てくる。

指が震えている。

まだ、怖い。過去と向き合うことが、これほど怖いとは思わなかった。十年前の自分が書いたもの——それは、未熟で、純粋で、そしてひどく傷ついた少女の叫びだ。それを今の自分が読んでしまったら、私はどうなるのだろう。

栞は引き出しから手を離し、畳の上に手をついた。雨音が屋根を叩いている。強くなってきた。天気予報では明日も雨だった。でも、明後日からは晴れるかもしれないと言っていた。

「今度は」

声に出して言う。

「今度は、私が話さなきゃ」

それは自分への誓いだった。まだ震えている。でも、十年前と同じままではいられない。私はもう、置き去りにされただけの少女じゃない。この店を守ると決めた。この街で生きると決めた。ならば、過去からも逃げてはいけない。

畳の目を指でなぞりながら、栞は長い夜を耐えるように、じっと座り続けた。

翌朝、雨は小降りになっていたが、まだ止んではいなかった。空は薄曇りで、日が昇っても街はどことなく薄暗い。

航平は商店街の入り口、アーケードの始まるあたりで立ち止まっていた。東京行きの始発には、まだ間に合う。でも、もう行けない。

昨夜、ヨシオに言われた言葉が頭から離れない。『今度は逃げるな』。祖母が土地を守った理由。店をそのままにしていた理由。栞の腕時計の傷。目の前のシャッター通りが、昨日までとは違って見えるのは、自分が知らなかったことを知ったからだろうか。

ポケットのスマートフォンが震えた。美咲からだ。引き継ぎ資料の確認依頼。返信しようとして、指が止まる。

彼女はきっと怒っている。当然だ。合理的な判断を欠いたままプロジェクトを放り出すのは、仕事のパートナーへの裏切りに等しい。でも今は、彼女に説明できる言葉を持っていなかった。

そのとき、また着信が鳴った。今度は電話だ。画面には「富樫ヨシオ」。

「もしもし」

『おう、まだ駅に行ってねえな』

「……なぜそれを」

『勘だ。それより、ちょっと井戸に来てみな』

「昨日も行きました」

『今日はもっと大事な話だ。早く来い。雨が強くなる前に』

通話が切れた。航平はスマホをポケットにしまい、アーケードを引き返した。駅とは逆方向。星見の井戸への道。

途中、シャッターの隙間から、一軒だけ明かりのついている店があった。アーケードの奥、「珈琲庵 ひだまり」——雨に濡れた看板が、朝の薄明かりの中に浮かび上がっている。開店まではまだ一時間ほどある。二階の窓に、かすかな灯りがともっているのが見えた。

栞は起きている。あの灯りの下で、何を考えているのだろう。

航平は足を速めて、店の前を通り過ぎた。振り返らなかった。でも、胸の奥で何かが軋む音を、確かに聞いた。

井戸のほとりに着くと、ヨシオはすでに待っていた。松葉杖を井戸の縁に立てかけ、雨に濡れた石段に腰を下ろしている。航平が来るのを見ると、軽く手を挙げた。

「やあ。俺からもっと聞いたか」

「ええ、まあ」

航平はヨシオの隣、少し距離を取って立った。井戸の蓋には水滴が溜まり、そこに薄い雲間の光が反射して揺れている。

「昨日の話の続きだ。ばあちゃんはな、土地を守ってただけじゃねえんだ」

ヨシオはポケットから煙草を取り出してくわえたが、火はつけなかった。ただ指で弄んでいる。

「ばあちゃんは栞のことを誰よりも心配してた。栞がこの街に戻ってくるとき、あの子はひどくやつれてた。東京で何があったかは知らねえ。でもばあちゃんは、栞に必要なのは時間だと思ったんだろう。だから店をそのままにして、いつでも帰ってこられる場所を作ってた」

「……それを、俺に話す理由は」

「お前が、同じだからだよ」

ヨシオはくわえていなかった煙草を仕舞い、真っ直ぐに航平を見上げた。

「お前も、やつれてる。今、お前の顔は十年前の栞にそっくりだ。何かに怯えて、誰かに迷惑をかけることを極端に怖がって、自分から距離を取ろうとする。そういう顔だ」

航平は何も言えなかった。図星だった。街を出た十七の夏から、ずっとそうだ。自分は誰かに迷惑をかける存在だと、思い込んできた。

「栞のばあちゃんが言ってたんだ。『あの子は昔、一人の男の子に恋をした』って。相手が誰かまでは言わなかったが、俺はすぐにピンときたよ。この街から急にいなくなったお前のことだ」

ヨシオは立ち上がり、松葉杖を取った。痛むのか、少し顔をしかめる。

「ばあちゃんは笑いながら言ってた。『あの子がもう一度恋をしたら、今度こそ逃がさないでほしい』と。店を残したのは、そのためでもあったんだろうよ」

雨が、また少し強くなった。ヨシオは空を見上げて、小さく舌打ちをする。

「そろそろ戻る。お前も、濡れる前に決めろ」

「何を」

「ここに残るか、それとも逃げるか」

逃げるか——その言葉が、胸に刺さった。航平はポケットの中でスマホを握りしめる。東京に戻れば、仕事もある。生活もある。でも、この街を出たら、もう二度と戻れない気がした。

今回は、戻ってきた意味がある。それを自分で捨てるのか。

「富樫さん」

呼び止めると、ヨシオは振り返った。

「……もう少しだけ、この街にいます」

ヨシオはしばらく無言で航平の顔を見ていたが、やがて口元をほんの少しだけ緩めた。笑っているのかどうか、それすらわからない表情だった。

「そうか。ならさっさと、やることをやれ」

それだけ言うと、松葉杖の音を響かせて、今度こそ商店街の方へ消えていった。雨足が強まり、井戸の周りの石畳を白く叩く。航平は傘も差さずに、濡れながら立ち続けていた。

やるべきこと——それが何なのか、まだわかっているとは言えない。でも、少なくとも、逃げてはいけないことだけは、わかっていた。

ひだまりの奥座敷、雨音が強くなる中で。

栞は箪笥の前に座ったまま、朝を迎えていた。一睡もしていない。でも、不思議と疲れは感じなかった。

窓の外が明るくなり始める。雨はまだ止まないけれど、雲の向こうからかすかな光が漏れて、部屋の中の畳をほんの少しだけ明るく照らした。

夜明けだ。

栞は立ち上がった。膝が少し痛む。長い時間、同じ姿勢で座っていたせいだ。箪笥の三番目の引き出しの前に立つ。

昨夜は触れることすらできなかった。でも、今は——。

指を伸ばす。取っ手に触れる。冷たい金属。指先が震えているのは、恐怖のせいだけじゃない。期待だ。

引き出しを、そっと開けた。

中には古い箱がひとつ。祖母が若い頃に使っていたらしい、木製の小箱だ。蓋を開ければ、そこには一通の手紙が入っている。十年前の私が書いたもの。封をする前の、あの日のままの手紙。

まだ読まない。でも、これは確かにここにある。

栞は手紙を箱から取り出し、胸に抱えた。封筒の感触は、記憶よりもずっと軽い。こんなに軽いものを、十年も怖がっていたのか。

「今度は私が話さなきゃ」

声に出して言った。窓の外では、雨の向こうから朝の光が広がっていく。まだ薄暗い。でも、昨日よりは確かに明るかった。

この手紙を読むときは、きっと近い。そして、読んだあとは——。

栞は手紙を胸に抱えたまま、しばらく佇んでいた。雨の音が屋根を打ち、ときおり強く吹く風が窓枠を揺らす。それでも、昨日までのような不安はなかった。

ただ、進むだけだ。過去を抱えたまま、それでも前に。

星見の井戸のほとりで、雨に打たれながら立つ航平の姿があった。彼もまた、空を見上げていた。

同じ空を、同じ雨を、別々の場所で見ている。それでも、二人の心は、十年前よりも確かに近い場所にあるのだった。

雨のち喫茶、晴れのち君第9話 夜明けの引き出し