再開発で揺れる商店街の片隅、古い喫茶店を守る彼女は、十年ぶりの再会とともに眠っていた手紙を見つける
第4話 雨音だけが知っている
朝、出社した美織は暁のデスクをまっすぐに見た。
彼はもう着席していた。ワイシャツの袖をまくり、モニターに向かっている。昨日の雨に濡れたスーツは、今朝は別のものに替わっていた。
美織は自分の荷物を置く間もなく、給湯室の方を目で示した。
「東雲さん、ちょっと」
暁が顔を上げる。何かを察したように、目が細まった。
給湯室の蛍光灯は一本が切れかけていて、わずかに瞬いている。美織は暁が入ってくるのを確認すると、ドアを閉めた。
「単刀直入に聞きます」
「……なんだ」
「あなたがこのプロジェクトを志願した本当の理由を教えてください」
暁は答えなかった。窓の外では、今日も雨が降っている。
「説明会のとき、小野寺さんが立ち上がった瞬間、あなたの顔色が変わった。あれは仕事の顔じゃなかった」
「気のせいだ」
「違う」
美織の声が強くなる。
「私、気づいてたんです。あなたがいつもスーツの内ポケットに手をやってること。書類を取り出す仕草とは明らかに違う。何か——」
暁が微かに身じろぎした。
「——大事なものを、ずっと入れているんだって」
沈黙。
給湯室のポットがかすかに沸騰する音を立てている。
「小野寺栞さんに、もう一度会いたかったからだ」
暁の声は低く、落ち着いていた。
「この街に戻ってきた理由は、それだけだ」
美織は息を呑んだ。自分が聞きたかった言葉を、こんなにはっきりと聞かされるとは思っていなかった。
「……本当に、それだけなんですか」
「仕事を疎かにした覚えはない。だが、志願の動機を問われれば、そうとしか言えない」
暁は初めて美織を正面から見た。
「佐伯さんには迷惑をかける。だが、訂正するつもりはない」
美織は唇を噛んだ。
胸の奥で何かが崩れる音がした。彼を追いかけてこの出向に応じた自分。隣で働けることが嬉しかった自分。でも、彼の目に映っていたのは、ずっと違う人だったのだ。
「……わかりました」
声は震えなかったと思う。
「でも、そのことは私からは言いません。誰にも」
暁がわずかに眉を上げる。
「いいのか」
「いいも悪いも。……聞いた私が、知りたかっただけですから」
美織はドアノブに手をかけた。
「コーヒー、淹れましょうか。今日も長くなりそうだし」
暁が何か言う前に、彼女は給湯室を出ていた。
午前十時。
栞は「栞舍」の看板を表に出し、ドアの鍵を開けたところだった。
エプロンのポケットには、昨夜からずっと手紙が入っている。作業の合間、無意識に指先で触れては、はっと手を離すことを繰り返していた。
雨は少し小降りになっている。
「小野寺さん」
振り返ると、岡部哲也が立っていた。青果店の前掛け姿ではなく、今日は私服だ。
「おはようございます、岡部さん。珍しい時間ですね」
「ああ、ちょっと……話があって」
岡部は落ち着かない様子で、店内の窓際の席に目をやった。
「東雲建設の人のことなんだけど」
栞の指が、また無意識にポケットに触れた。
「あの東雲って男。うちの常連の飲み屋に出入りしてる業者がいてさ。その伝手で聞いたんだが」
岡部は言葉を選ぶように間を置いた。
「彼、東京の本社でかなり評価されてたらしい。なのに、わざわざこの案件に志願したって」
「……志願」
「普通なら出世街道から外れる異動だって言われてる。でも本人が強く希望したんだと。個人的な理由があるんだろうって専らの噂で」
岡部の目が、まっすぐに栞を見た。
「その理由が、もしかしたら小野寺さんじゃないかって。俺はそう思った」
栞は答えられなかった。
ポケットの中で、封筒の角が指に当たる。
「余計なこと言ったなら悪い。でも、知っておいたほうがいいと思って」
岡部は肩をすくめた。その顔には、自分が伝えた情報に傷つく準備ができているような、苦い表情が浮かんでいる。
「……ありがとうございます。わざわざ」
栞がようやく口を開いた。
「いや。じゃあ、俺はこれで」
岡部が背を向ける。その足音が雨音に混じって遠ざかっていった。
栞はカウンターに手をついた。
個人的な理由。志願。
封筒がポケットの中で重い。
岡部が出て行ってすぐ、ドアベルが鳴った。
「栞ちゃん、おはよう」
田中梅子だった。買い物袋を提げて、いつものようにカウンター席に腰掛ける。
「あら、どうしたの。顔色が悪いわよ」
梅子は栞の表情を見て、買い物袋を床に置いた。
「岡部さん、さっきまでいらしてて」
「青果店の? なにかあったの」
栞はカップを手に取ったが、コーヒーを淹れる手が止まっている。
「……東雲さんのことです。この街に戻ってきたのが、個人的な理由かもしれないって」
梅子の目が、何かを思い出したように細められた。
「東雲くん……暁くんか。そういえば」
梅子はカウンターに両肘をついた。雨の音が強くなっている。
「あの子がこの街を出ていった夜のことを、あんたに言ったことなかったね」
栞の手が止まった。
「十年前。暁くんの家、夜逃げみたいなものだったでしょ。私、あの日たまたま遅くまで美容院にいて。商店街を戻るときに見たのよ」
「……何を」
「暁くん。駅とは反対方向にあるこの店の前に立ってた。ずっと。傘も差さずに」
栞は息が止まった。
「あの子、この店の窓を見つめて、何度もポケットに手を入れたり出したりしてた。何かを渡そうとしてるみたいだった。でも結局なにもしないで、すごく長い時間、ただ立ってて」
梅子の声が少し掠れた。
「それから、まるで諦めたみたいに背を向けて駅の方に歩いてった。あのときの顔、今でも覚えてる。泣いてなかったけど、それよりずっと辛そうだった」
栞はカウンターの縁を握りしめていた。指の関節が白くなっている。
「……知らなかった」
「言おうかどうか、ずっと迷ってて。でも昨日の話を聞いて、あの夜のことを思い出したの」
梅子は立ち上がると、栞の手にそっと自分の手を重ねた。
「あの子、きっとおんなじだったんだよ。言えなくて、渡せなくて」
栞の視界が滲む。
ポケットの中の手紙が、十年分の重さで胸にのしかかってきた。
梅子はそれ以上なにも言わず、買い物袋を持ち上げた。
「また来るね」
ドアベルが鳴り、静かに閉まる。
店内に雨音だけが残った。
閉店後。
栞は窓際のベンチ席に座っていた。外はもう真っ暗で、雨は変わらず降り続いている。
エプロンのポケットから、白い封筒を取り出す。
自分の筆跡。栞舍のロゴもない、ただの封筒。
暁も同じだった。
彼も、渡せなかった。だから内ポケットにしまって、十年間持ち歩いていた。そしてこの街に戻ってきた。
栞は封筒の端に指をかけた。
震えている。息が浅い。
封を切る。
紙を取り出す。折りたたまれた便箋が、十年の時を経てようやく開かれる。
インクは褪せていない。
冒頭の一行が目に飛び込んできた。
『暁くん』
雨音だけが、いつまでも店内を満たしていた。