追放された鑑定士が辺境の村で薬草の真価を見抜き、元仲間が自滅するまで
第5話 満月の轍
深夜。
王都ルーメリアの治療院に、担架が運び込まれた。
「右腕の腱が断裂している。このままでは剣は握れない」
治療師の声が、かすかにガルドの耳に届く。
天井がにじむ。痛みはすでになかった。ただ、右腕が動かないという事実だけが、氷のように胸の奥に沈んだ。
目を閉じる。
暗闇の中、遠い記憶が蘇る。五年前、薬草の誤鑑定で弟分を失った夜。毒を持つ草と、癒しの草を間違えた鑑定士。その名も顔も、とうに忘れた。
あの日、鑑定士という存在を呪った。
それなのに。
リュートを追放したのは、自分だった。戦えない鑑定士はいらないと、面と向かって言い放った。
唇がわずかに動く。声は出ない。
目尻から、一筋の滴が耳へ流れた。
夜が明けた。
バルデラ村の中央広場に、ヒューゴの馬車が停まる。幌には王都からの道中でついた泥が跳ね、木箱がいくつも積まれていた。
村人たちが集まってくる。鍬を下ろした者、籠を抱えた女、子供の手を引く母親。ロガンが杖をつきながら広場の中央に立ち、マルタがその隣でヒューゴに水筒を手渡した。
ヒューゴは一口飲み、それから一枚の羊皮紙を広げた。
「王都ギルドの公式報告だ」
広場が静まる。
「四日前、冒険者パーティー『銀の牙』、高難度クエスト『嘆きの廃坑』にて壊滅。リーダーのガルドは誤った等級の薬草を使用し、瘴気の中和に失敗。結果、パーティーメンバー全員が瘴気に侵され、現在治療院に収容。うち二名は死亡。ガルド自身も重傷を負い、右腕の腱を断裂。剣士としての再起は不能」
ざわめきが広がった。
リュートは広場の隅に立っていた。腕を組み、ヒューゴの声を聞いている。表情は動かない。
「鑑定士を追放した、あの」
誰かが呟く。
リュートは黙っていた。胸の内に湧くものは何もない。ただ、報告書の最後の一文が耳に残る。
――誤った等級の薬草。
自分の星眼があれば、あのパーティーは助かったのか。その問いが一瞬浮かび、すぐに消えた。
過去に意味はない。
ロガンが深く息を吐き、杖で地面を二度叩いた。広場のざわめきが収まる。
「事実は届いた。それで終いだ」
村人たちは互いに顔を見合わせ、やがて一人、また一人と持ち場へ戻り始めた。鍬を手に取り、籠を背負い、子供を連れて歩き出す。生きるために日々を重ねる村だ。他者の没落にかまけている暇は誰にもない。
広場の隅。
ヒューゴが馬車の陰にリュートを呼び止めた。
「聞いてほしい話がある」
リュートは頷く。
ヒューゴは幌の支柱に手を置き、うつむいた。
「あんたに打ち明けた通りだ。俺は十年前、薬草の等級を偽って売った」
声は低い。
「顧客は死にかけた。金のためだった。以来ずっと、自分の目が信じられなかった」
顔を上げる。行商の男の額に、深い皺が刻まれている。
「だが、あんたの目は本物だ。星眼だ。これ以上ない」
「だから何だ」
リュートの声は平坦だった。
ヒューゴは一歩近づく。
「俺と独占契約を結んでほしい。あんたの等級鑑定を受けた薬草だけを、俺が王都で売る」
「悪くない」
リュートは短く返した。
「ただし条件がある」
「言え」
「正直にやれ。偽るな」
ヒューゴはしばしリュートの目を見つめ、それからゆっくりと息を吐いた。
「ああ」
差し出された手を、リュートは握り返した。ヒューゴの手は固く、汗ばみ、わずかに震えていた。
正午前。
ロガンの家の戸を叩いたリュートを、老人は黙って招き入れた。
炉の火は落とされ、部屋は薄暗い。棚の上、古い木箱からロガンは一冊の帳簿を取り出す。
「二十年だ」
ロガンは言った。
「誰にも言えなかった」
帳簿は擦り切れ、角がほつれている。
「王都の下級役人ベリックが、村の年貢七割のうち二割を懐に入れてきた」
リュートは帳簿を受け取る。頁をめくる。数字の羅列。日付。計算の跡。そして最後の頁には、役人ベリックの署名。
「証拠か」
「ああ。二十年分だ」
ロガンは椅子に腰を下ろした。肩が落ち、背中が丸まる。
「ワシはもう先が長くない。誰かに託さねば、と思っていた。だが村の誰にも言えなかった。もし露見すれば、村全体にどんな報復が来るか」
「それで俺か」
「外から来たお前にしか、頼めなかった」
リュートは帳簿を閉じた。手にした重みは、紙とインクだけのものではない。
「この証拠をどうする」
「王都へ持って行け。次の行商で。ギルドを通じて領主に直訴するんだ。ヒューゴに話せば、時期は合わせられる」
リュートは黙って帳簿を腰のポーチにしまった。
「わかった」
ロガンの皺深い顔が、わずかにほころぶ。
「礼を言う」
「まだ何も終わっていない」
「それでも、言わせてくれ」
ロガンは立ち上がり、窓辺に歩いた。光の加減で、その横顔が急に老けて見える。
「ワシの二十年は、今日終わった」
午後。
マルタの家。
リュートは扉を開けると、炉の前で種袋を手入れしていたマルタが振り返った。
「王都へ行く」
マルタの手が止まる。
「いつ」
「ヒューゴの次の行商に合わせる。二十日後だ」
「税の件か」
リュートは頷く。
マルタはうつむいた。手にした種袋を握りしめる。
「そうか」
声が小さい。
「寂しくなるな」
その時だった。
棚の上の種袋が、淡く光を放った。
マルタの祖母の形見。以前、リュートの星眼だけが反応した袋だ。
リュートは袋を手に取る。瞳の奥で星の粒が瞬き、袋全体が青白く染まる。
「紋章だ」
リュートの声に、マルタが顔を上げる。
袋の表面に浮かび上がったのは、五つの星を円に配した古い紋章。刺繍でも、染めでもない。光そのもので刻まれている。
「星眼の鑑定士の家系が使う紋だ」
「うちのおばあちゃんが……?」
マルタの声が震える。
「わからない。だが、星眼に関わる品であることは確かだ」
リュートは袋をマルタに返した。紋章はすでに消え、ただの古びた布袋に戻っている。
沈黙が落ちた。
炉の火がぱちりと音を立てる。
「私」
マルタは顔を上げた。目の縁が赤い。
「私も、あなたと一緒にいたい」
リュートは黙って彼女を見た。
「できることなら、すぐにでも。でも今は違う」
「ああ」
「王都へは一人で行く」
マルタは深く息を吸い、それから小さく頷いた。
「約束して。必ず戻るって」
「ああ、必ず」
リュートの声に迷いはなかった。
夕刻。
広場に村人たちが再び集まった。赤く染まる空の下、ロガンが宣言する。
「リュートは次の満月の後、王都へ発つ。持っていくのは税の証拠と、魔光草の初出荷分だ」
メルクが前に進み出る。白濁した目はほとんど光を失っているが、手にした木箱をリュートに差し出す仕草は確かだった。
「魔光草の乾燥束だ。わしの四十年の集大成。頼んだぞ」
「受け取った」
ヒューゴが馬車の手綱を取る。
「次の満月の翌朝、ここを発つ。王都までは十日。取引の段取りは俺がつける」
マルタがリュートの前に立った。
「絶対に戻ってきて。ここがあなたの帰る場所だから」
涙の跡がある。それでも笑っていた。
リュートは短く答える。
「ああ、必ず」
手を差し出す。マルタは一瞬息を呑み、それから両手で握り返した。固い握手。彼女の手は温かく、リュートの手は落ち着いていた。
「行くぞ」
ヒューゴが声をかける。
リュートは荷台に魔光草の木箱を積み、腰のポーチに帳簿を、もう一方にマルタの種袋をしまった。御者台に飛び乗る。
馬車がゆっくりと動き出す。
村人たちが手を振る。ロガンが杖を掲げ、メルクが静かに頭を下げ、マルタが一歩前に出て、それから立ち止まる。
夕焼けが村全体を包んでいた。畑にも、小屋にも、墓地にも、隠された草場にも、同じ色の光が落ちている。
リュートは前方を見据えた。
視線の先には、王都へ続く一本の街道。馬車の車輪が乾いた土を踏みしめ、規則正しい轍の音を刻んでいく。
東の空に、次の満月を待つ細い月が浮かんでいた。