前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す
第12話 指輪の重みと解かれた契約
地下牢へと続く階段は、朝の光をまだ知らなかった。壁に据えられた松明が揺れるたび、エリアナの足音だけが石段に吸い込まれていく。宰相エドマンドが半歩後ろを歩き、近衛兵二人がさらに後方に続いた。
鉄格子の向こうで、王妃セレナが顔を上げた。夜会服は皺だらけで、髪は乱れ、左手の指輪だけが不釣り合いに輝いている。
「エリアナ……お願いです」
声はかすれ、両手で鉄格子を握りしめた。
「レナードはまだ若い。あの子は王妃である私に従っただけ。どうか、どうか寛大な処置を——」
「私を二度殺せると思ったか」
エリアナの声は静かだった。感情を込めない、それでいて芯の通った響きが牢に落ちる。
王妃の指が鉄格子から滑り落ちた。
「な、なにを……」
「前世で私が毒に倒れた青薔薇の間。あの毒を調合したのは、あなた付きの調薬師だ」
エリアナは懐から折り畳んだ羊皮紙を取り出した。宰相に差し出す。エドマンドが広げ、松明の明かりで検分する。
「あなたの侍女頭がカミラに指示を出し、調薬師に依頼した記録だ。侍女頭は今朝、すべてを自白した」
エドマンドが羊皮紙を閉じた。
「王妃セレナ。これは十分な証拠です。王位簒奪の共犯、ならびに前世の——いや、毒殺未遂の首謀者として、正式に裁判を開きます」
王妃の顔から血の気が引いた。唇が震え、言葉にならない呻きがもれる。
「私は命までは奪わない。でも、あなたが二度と牢の外に出ることはない」
エリアナは背を向けた。王妃が何か叫ぶ声が追いかけてきたが、彼女は立ち止まらなかった。
隣の牢の前で足を止める。
カミラは壁際に座り込み、膝を抱えていた。豪華な刺繍のドレスは泥にまみれ、頬には涙の跡が残っている。彼女はゆっくりとエリアナを見上げた。
「あなたの妊娠は虚偽だった」
エリアナの言葉に、カミラの肩が跳ねた。
「侍女頭が証言した。王妃の指示で偽装したと。レナードとの婚姻を正当化するための芝居だった」
カミラはしばらく黙り、それから乾いた笑い声をあげた。
「そうよ。私は彼の子など身籠っていない」
立ち上がり、鉄格子に近づく。
「でも、私はレナードの妃になるはずだった。あなたを追い落として、ヴェルデ公爵家の地位もすべて手に入れるはずだったの」
「もうあなたには何も奪わせない」
エリアナの声は短く、それでいて相手を突き放すには十分な冷たさを帯びていた。
「なぜあなただけが——」
カミラの声が裏返る。
「なぜあなただけが、いつもそうなの。公爵令嬢に生まれ、アルヴィン様に守られ、前世ですら王太子から求婚されて——」
「前世で私は死んだ」
エリアナは一歩前に進んだ。
「あなたが手を貸した毒で。その死を越えて、私はここにいる」
カミラは言葉を失い、ゆっくりとその場に座り込んだ。肩が震え、抑えきれない嗚咽が地下牢に響く。エリアナはそれ以上何も言わず、階段へと歩き出した。
地上へ上がると、陽光がまぶしかった。
謁見の間の両開きの扉が開かれる。
ずらりと並んだ貴族たちの視線が、エリアナに集中した。煌びやかな正装、壁を彩る王国の旗、そして正面の玉座——その傍らに、アルヴィンが立っている。
左頬の傷はまだ癒えていないが、背筋は伸び、左手の甲に浮かぶ星型の痣が青白く輝いていた。彼はエリアナが入場するのを見ると、わずかにうなずいた。
宰相エドマンドが玉座の脇に進み、声を張る。
「王妃セレナの拘束、ならびにレナード王子の王位簒奪計画の全容が明らかになった。これにより、エリアナ・ヴェルデ公爵令嬢は——本日をもって、ヴェルデ公爵家の新当主として正式に任命される」
貴族たちの間からざわめきが広がった。エドマンドが手を上げると、静けさが戻る。
「あわせて、エリアナ・ヴェルデ新公爵とアルヴィン・グレイヴ辺境伯の婚姻契約に、陛下の名において承認を下す」
アルヴィンが一歩前に出た。左手を掲げ、全貴族の面前で宣言する。
「私は氷の騎士ではない。ただ一人——エリアナ、あなただけの騎士だ」
声は低く、しかし謁見の間の隅々まで届いた。
エリアナは彼に歩み寄り、左手の甲にそっと口づけた。魔石を失った場所にある痣が口づけに応え、淡い光を放つ。貴族たちの拍手が、凍りついたバルコニーの出来事を知る者たちから起こり、次第に全体へと広がった。
エドマンドが近づき、青いビロードの小箱を差し出す。中にはヴェルデ公爵家の紋章が刻まれた古い指輪が収められていた。
「先代よりお預かりしていたものです。ヴェルデ公爵家の証を、新当主にお返しいたします」
エリアナは祖母の指輪をはめた右手で、その公爵家の指輪を受け取った。左手の薬指にそれを通す。祖母の指輪と公爵家の指輪が、かちりと触れ合った。
「あなたが目覚めたら、すべてを話すと約束した」
エリアナはアルヴィンを見上げた。
「私は前世で死に、そして戻ってきた。あなたと出会うために」
アルヴィンは左手を彼女の頬にそっと触れさせた。
「知っている。悪夢で視た。だからこそ、今度こそ守り抜く——これからのすべての時間をかけて」
朝の光が謁見の間の高い窓から差し込み、二人の指輪を白く照らした。貴族たちの拍手はまだ鳴りやまず、外の広場からは鐘の音が響き始めている。
エリアナは指輪の重みを、静かに抱きしめた。
「今です」
彼女はまっすぐにアルヴィンを見つめ、それからゆっくりと庭園の奥へ歩き出した。冬薔薇のアーチをくぐると、そこは祖母が最も愛した泉の広間だった。雪解け水をたたえた泉が、夕映えを映して金色に揺らめいている。
「この場所を選んだのは、祖母の気配が一番強く残っているから」
エリアナは泉の縁に腰を下ろした。アルヴィンも隣に座る。二人の指輪が、泉の水面に反射して小さな光を投げかけていた。
「すべての始まりは、この庭でした」
夕暮れの光が、グレイヴ領の城門をくぐる馬車を迎えた。窓の外では、冬の終わりを告げる水音がそこかしこで滴っている。雪解けの庭園を覆う冬薔薇は、白と淡い青の花弁をいっせいに開き、凍土を割って蕾を伸ばしていた。御者が手綱を引き、馬車が止まる。先に降りたアルヴィンが振り返り、無言で手を差し伸べた。エリアナはその手を取り、三日ぶりに故郷の土を踏む。
王都で正式に成立した婚姻の重みが、左手の薬指にある。公爵位の証である祖母の指輪は、変わらぬ温度で彼女の肌に寄り添っていた。隣を歩くアルヴィンの左手の甲——魔石のない場所に浮かんだ星型の痣が、夕日に透けて薄く輝いている。医師は「後遺症はない」と太鼓判を押したが、エリアナはまだ時折、彼の呼吸を盗み見る癖が抜けない。
庭園の小径を歩きながら、アルヴィンが口を開いた。 「あの時、バルコニーで」 言葉を選ぶように、彼は一呼吸置く。 「君は前世の話をすると言ったな」 エリアナは足を止めた。冬薔薇の群生が、風に揺れてかすかな音を立てる。彼女は祖母の指輪にそっと触れ、銀の細工を親指でなぞった。 「ええ。話すと約束しました」 「今か」 「今です」 彼女はまっすぐにアルヴィンを見上げた。エメラルドの瞳に、夕日を受けた彼の姿が映っている。左こめかみの星型の痣が、じわりとぬくもりを帯びた。 「アルヴィン」 息を吸う。胸の奥で何かがほどける感覚があった。前世で決して口にしなかった言葉。今世でも、ずっと鍵をかけてきた想い。けれどもう、鍵は必要ない。 「私は、あなたを愛している」
アルヴィンの目が、わずかに見開かれた。彼は何か言おうとして、言葉を失う。代わりに左手が震え、甲の痣が青白く輝きを増した。その光はエリアナのこめかみの痣と共鳴し、ふたつの印が呼応して庭園の空気を震わせる。彼のまぶたに涙が溜まり、夕日を受けて金色に光ったあと、一つだけ頬を伝った。 「……もう二度と離さない」 声は掠れていた。けれどその一言は、どんな宣誓よりも重かった。
その時、庭園の奥で石碑が静かに輝き始める。エリアナが振り返ると、苔むした古い石碑の表面に、古代文字が浮かび上がっていた。彼女は歩み寄り、文字の連なりに目を走らせる。祖母の手記にあった文様と同じだった。 「『星は約束を留める器』」 彼女は声に出して読み上げた。 「『二つの魂が真実の愛に至る時、契約は果たされ、守護は解かれる』」 アルヴィンが隣に立ち、石碑を見下ろす。彼の左手の光が、文字のひとつひとつに触れるように揺れた。 「魔石が君の痣と共鳴していたのは」 「ええ。私が前世で結んだ守護の契約でした。古の神に許されたただ一度の時間逆行——その代償として、あなたが私を守る役目を負わされていたのです」 アルヴィンは長く息を吐いた。 「そうか」 彼は右手を持ち上げ、そっとエリアナの肩に触れる。その手は氷の騎士と呼ばれた男のものとは思えないほど、あたたかかった。 「俺は、役目だから君を守ったんじゃない」 そう言って、彼はエリアナを静かに抱きしめる。彼女のこめかみの痣はもう熱を持たず、ただ穏やかなぬくもりだけが残った。アルヴィンの悪夢は、永遠に消え去ったのだ。 「これからの人生は、私の意思で生きる」 エリアナは彼の胸に顔を埋めたまま、小さく宣言する。 「あなたと共に」 アルヴィンは答えの代わりに、彼女の背中に回した腕に力を込めた。石碑の古代文字が最後の輝きを放ち、やがて静かに光を閉じる。契約は完了したのだ。
二人は手を繋いで庭園を後にした。冬薔薇の花弁が、夕風に舞い上がり、城の尖塔へと流れていく。城の入り口では使用人たちが灯りをともし始めており、オレンジ色の光が石畳を照らしていた。エリアナは繋いだ手を見下ろし、それからアルヴィンの横顔を見上げる。彼もまた、同じように彼女を見ていた。言葉はなかった。けれど、この沈黙には何の不安もない。自分で選び、自分の足でここまで来たのだと、彼女は知っていた。