破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第12話 暁の誓い
煙が晴れる。
砕けた扉の向こう、玉座の間の空気が凍りついていた。王太后は玉座の脇に立ち、右手に掲げた王冠が星霊の光を受けて不気味に煌めく。足元の国王はまだ息がある——胸がかすかに上下するのが見えた。
その正面。ユリウスが跪いている。
白い正装に身を包み、戴冠を待つ姿勢だった。だがその顔は青ざめ、視線は床に縫い付けられたままだ。母の横顔を見上げることすらできない。
「ユリウス」
リリアンの声が、静寂を裂いた。
ユリウスの肩が跳ねる。王太后の手が止まった。
「邪魔立てするな、エーデルシュタインの娘」
「いいえ」
一歩、踏み出す。クロードがわずかに身を開き、彼女の進む道を作った。
「これは全て——」
リリアンは右手を掲げた。薬指の傷跡が、星の光の下で白く浮かぶ。
「——そなたの罪である」
その言葉に、王太后の顔から笑みが消えた。
傍聴席に残っていた貴族たちから、どよめきが上がる。クーデターの混乱の中、玉座の間に逃げ込んでいた者たちだ。その最前列で、ソフィアが両手を口に当てて立ちすくんでいる。エリアスは傍聴席の柱の陰で、ただリリアンを見つめていた。
「何を根拠に」
王太后の声はまだ平静を装っていたが、王冠を握る指が白んでいる。リリアンは胸元から折り畳まれた書類を取り出した。大査問会で封じられた証拠の写しだ。
「毒の調合師の供述録。あなたの側近が使った封蝋の欠片。そして、星霊祭の準備会合における毒殺未遂——」
書類を、一枚、また一枚と床に広げる。
「すべて、あなたの指示によるものです」
「捏造だ」
「ではなぜ、真実の口はあの場で作動しなかったのですか」
リリアンの声は静かだった。だがその静けさが、かえって場の空気を張り詰めさせる。
「あなたは真実の口に細工をした。私の証言を封じるために。そしてその細工こそが、あなたの罪の証拠です。真実の口に手を加えられる者は、この王国にそう多くはおりません」
王太后は答えない。代わりに、ゆっくりと王冠を下ろした。
「……ユリウス」
低い声で呼ばれ、ユリウスが顔を上げる。母の目に浮かんだ光に、彼はわずかに後退った。
「お前は真の王だ。この国を継ぐべき血を引いている」
「母上、何を——」
「この子の父親は、先王ではない」
ざわり。
空気が震えたのは、クロードの魔力のせいではなかった。王太后の口元が、笑みの形に歪む。
「ユリウスの父は、先王の弟君だ。つまりこの子は——正当な王位継承者。現国王には血の資格がない」
「黙れ」
クロードの声が響いた。彼は一歩前に出ると、左手の黒革手袋に指をかける。
「その偽りの王は、あなたの罪の結晶に過ぎない」
手袋が外される。
露わになった手の甲には、古い火傷の痕が広がっていた。皮膚が引き攣れ、まだらに変色している。星霊の青白い光の下で、それは生々しく脈打っているように見えた。
「この傷は、俺が十歳の時にあなたが行った魔法実験の痕だ」
傍聴席から悲鳴にも似た息遣いが漏れた。
「あなたは王族に連なる血筋の子供たちを集め、魔力の増幅と制御の実験を繰り返した。その結果が、この火傷だ。そして——」
クロードは王太后をまっすぐに見据える。
「その実験の真の目的は、あなたが産んだ子に、本来あり得ないはずの王位継承権を魔法で刻み込むことだった」
ユリウスの顔から血の気が引いた。膝が床に落ちる。
「……私が、実験の産物……?」
「違う」
リリアンは静かに首を振った。ユリウスを見下ろすその目に、もはや憎しみはない。
「あなたは利用されただけだ。この人の、罪のための」
王太后が動いた。
その右手がスッとドレスの内側に滑り込む。一瞬の、ほとんど目に見えない動き。けれどクロードは見逃さなかった。
「伏せろ」
彼の左手が閃く。
王太后の手から何かが放たれた——小さな、針のような光。それがリリアンに向かって一直線に飛ぶ。
黒い雷光が、それを空中で呑み込んだ。
爆発的な光と衝撃。床石が砕け、壁の漆喰が剥がれ落ちる。悲鳴が上がり、貴族たちが一斉に床に伏せた。
だが、それだけだった。
クロードは右手を掲げたまま、一歩も動かない。魔法陣が彼の周囲で回転し、黒い光の粒子が腕を伝って収束していく。
かつて彼の魔法は、感情と共に暴走した。怒りと共に周囲を破壊し、憎しみと共にすべてを呑み込んだ。けれど今——
(制御している)
リリアンは息を呑んだ。
クロードの横顔を見る。こめかみに一筋、汗が流れ落ちる。歯を食いしばり、全身の筋肉が緊張している。魔法の代償が彼の身体を苛んでいるのは明らかだった。
だが、暴走はない。
彼は、自分の意思で、その力を制御している。
「——何故だ」
王太后が壁に背を預け、うめくように言った。右手は痺れたように垂れ下がり、魔法具は床に転がって砕けている。
「何故、その力があるのに、お前は……私に従わなかった。私が与えた力だ。私が鍛え上げた力だ。なのに何故——」
「俺は、あなたの道具ではない」
クロードの声には、もはや怒りすらない。
「俺を守ってくれた者がいた。俺に、人間として生きる道を教えてくれた者が」
彼は振り返り、リリアンを見た。
「そして今、俺が守りたいと思える者がいる。それだけで十分だ」
近衛兵が王太后を取り囲む。金属の擦れる音。拘束の鎖が彼女の手首に巻かれた。王太后はもはや抵抗しなかった。ただ、うつろな目でユリウスを見つめている。
ユリウスは立ち上がった。
よろめきながら、一歩、また一歩と母に近づく。その顔は涙で濡れていたが、声は驚くほどしっかりしていた。
「私は、王ではない」
「ユリ——」
「私は、あなたの罪の結晶なのだろう。ならば……それでいい」
彼は自分の胸元から、王太子の紋章が刻まれた金鎖を引きちぎった。それを床に置く。
「王籍を、剥奪していただきたい」
法務卿が静かにうなずく。傍聴席にいた官僚の一人が、すぐさま書類を広げ始めた。
混乱の中で、リリアンはクロードの隣に立っていた。彼の左手が、まだわずかに煙を上げている。その手の甲の火傷の痕を、彼女は指先でそっと撫でた。
「痛むか」
「……大したことはない」
クロードの声は少し掠れていた。魔力の消耗が、その声にも滲んでいる。
「だが、これで終わりだ」
リリアンはうなずいた。そして自分の右手を持ち上げ、薬指の傷跡を見せる。
「私にも、ある」
クロードの視線が、その傷に注がれる。地下牢で一度目にした時とは違う——今度は、それが意味するものを理解した目だった。
「これは、私が二度目の生を選んだ代償だ」
リリアンの声は静かだった。けれどもう震えてはいない。
「前世で、私はこの指に魔力封じの指輪を嵌められた。断頭台の上で。その記憶が、この傷となって残っている」
隣で聞いていたソフィアが、息を飲む音がした。けれどリリアンは続ける。
「ずっと隠していた。この傷も、記憶も。でも——」
彼女は顔を上げ、クロードを見つめた。アイスブルーの瞳が、星霊の光を受けて銀色に輝く。
「過去は、もう終わった。私はもう、それに囚われない。自分の意志で、未来を選ぶ」
クロードは答えなかった。代わりに、自分の胸元から一枚の書類を取り出す。
契約結婚の誓約書だった。
彼はそれを、一度だけ開いて目を通す。それから、ゆっくりと二つに裂いた。さらに重ねて裂く。紙片が星霊の光の中に舞い散った。
「リリアン」
クロードの声は低く、けれど不思議なほど柔らかかった。
「これは、契約ではない」
彼は一歩近づく。破壊の魔法で砕けた床石の上に、ひざまずいた。
「私の、全てをかけて、君に誓う」
差し出された手は、手袋を外したままの左手だった。火傷の痕が、ありのままに晒されている。
「この手で君を守り、この手で君を支える。二度と、君を失わない。これは——」
そこで、クロードはわずかに口元を緩めた。それは、ほとんど笑みと呼べるものだった。
「私が、君を愛しているからだ」
玉座の間が静まり返った。傍聴席で、誰かが息を呑む。ソフィアが涙を拭う気配。エリアスは柱の陰で、目を閉じてうなずいた。
リリアンは、ゆっくりと息を吐いた。
「……初めて聞いた」
声が、かすかに震える。視界が滲んだのは、星霊の光のせいではない。
「初めて聞いた、あなたの、そんな台詞」
彼女はクロードの手を両手で包み込んだ。自分の右手の傷跡が、彼の左手の火傷の痕に重なる。
「私も、あなたの隣で生きることを選ぶ」
その瞬間、玉座の間の高い窓から、朝の光が差し込んだ。長い夜が終わり、東の空が白み始めている。
星霊祭の夜が明ける。
新たな婚約の証書は、法務卿の手で即座に作成された。それは簡素なものだった——契約条項の羅列ではなく、ただ二つの署名と、互いの名を記すだけの一枚の紙。
リリアンがペンを執り、自らの名を記す。次いでクロードが署名する。筆跡は力強く、少しも震えてはいなかった。
「今度こそ」
クロードが言う。証書を手に立ち上がり、リリアンを見下ろした。窓からの朝日が、彼の蒼い瞳を金色に染める。
「私の全てをかけて、君を守る」
リリアンは涙を浮かべながら、笑った。それは、誰の目も偽らない、ただの笑みだった。
「ええ。そして私は——」
彼女は証書を受け取り、胸に抱く。
「——あなたの隣で、未来を選び続ける」
ソフィアがついに声を上げて泣き出した。エリアスは傍聴席の柱から離れ、静かに扉の方へ歩き出す。その背中に、リリアンは気づかなかった。
けれどエリアスは、振り返り際に一瞬だけ目にしたのだ。クロードがリリアンの手を取った瞬間、彼の右眉が——ほんのわずかに、誰にも気づかれないほど微かに——動くのを。
(ああ、そういうことか)
エリアスは口元に小さな笑みを浮かべ、玉座の間を後にした。
王太后はすでに護送されており、ユリウスもまた自らの足で衛兵に付き添われて退場していった。国王は医師団によって担架に移され、回復の手当てが始まっている。官僚たちが事後処理の書類を広げ、法務卿が新たな王位継承の手続きについて静かに指示を出し始めた。
玉座の間には、静かな朝の光が満ちていた。
リリアンとクロードは、互いの手に新たな婚約の証書を握りしめ、見つめ合う。その手に刻まれた古い傷痕は、もはや苦しみの証ではない。
共に歩むための、約束の印だった。