FeverStory

処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない

第5話 冠と鐘の新しき契約

オスヴァルトの手袋が翻るより早く、クリストフ・フォン・エルトベルンが証言台の脇へ踏み出していた。大法廷の封鎖された空気を裂くように、彼は革表紙の厚い冊子を掲げる。

「審問官。旧調査記録の原本を、ここに提出いたします」

イーゴルが一歩前に出る。彼の顔から血の気が引いているのは明らかだったが、声だけは審問官のものだった。

「提出を認める。開け」

冊子を受け取った書記官が、頁を繰る。そこには旧時計塔の看守名簿と、教会派の帳簿に押された受領印が重なる記録がある。傍聴席から、短い悲鳴と長いため息が同時に洩れた。

「被告側証人、エルナ・バルバラ。証言台へ」

呼ばれたエルナは震える足で進み出る。彼女の手には、一枚の書付と学院の便箋が握られていた。

「私が書いたのは、これです。灰青の墨だけを使います。油煙の黒は、私の筆箱にありません」

彼女は二枚を並べた。偽の逃亡計画書に使われた墨は黒く、紙の肌理も学院の便箋とは明らかに違う。聖印の押し方まで、微妙に傾いでいた。

「この計画書は、私の筆跡を真似て紙を替えたものです。お嬢様がこれを計画なさった事実は、一度もございません」

エルナの声は掠れたが、最後まで途切れなかった。傍聴席からクリストフが、娘ではなく証言を終えた彼女に頷く。リーゼロッテの胸元で、痣が静かに明滅した。

オスヴァルトが口を開く。

「鑑定はまだだ。女中の言葉など証拠には」

「あなたの令状執行こそ、未確定の審理に基づく越権です」

クリストフが遮る。彼の声は父のものではなかった。十年の記録を背負った男の、地を這う静けさがあった。

「この原本が示すのは、旧時計塔の管理が教会派の資金と一本で繋がっていたこと。そして判事補の入塔記録が、教会提出分から欠損している事実です。審問官、再鑑定と記録保全を正式に請求します」

イーゴルは深く息を吸い、それから背筋を伸ばした。

「逃亡計画書を証拠不採用とする。枢機卿による令状執行の停止を、王立審問院の名において命じる」

大法廷に、かすかな地鳴りのような空気が走る。オスヴァルトの白い祭服が、はじめて膨らんだ。

「この審問は無効だと、先に告げたはずだ」

「無効とする権限は本廷にはありません。あなたの宣告は手続き上、存在しません」

イーゴルが言い切る。警備隊の槍が、扉の外で揺れた。

その時、マリアンヌ・ベルンシュタインが一歩、参考人席から踏み出した。彼女の両手が胸の前で光る。鏡の加護が、彼女の意思に応えるように大きくなる。

「開けてください。冠と、あの塔の鐘を」

彼女の声は震えを帯びていたが、光はまっすぐだった。傍聴席の端で、契約の冠を手にしたレオンハルトが目を細める。

「……王族の加護を、呼んでいるのか」

彼の血統感知が、マリアンヌの光の中に古い契約の気配を読み取る。それは間違いなく、王家に連なるものだった。聖女候補に与えられる教会の加護では、ありえない質の光。

「私の加護は、魂の傷や誓いの真偽を映す鏡です。偽聖女工作に使われていたと、私は知っていました。知っていて、逆らえなかった」

マリアンヌはリーゼロッテを見た。彼女の紫紺の瞳が、真っ直ぐに受け止める。

「偽の招待状を光に透かすと、二重の印章が見えます。同じ光を、冠と鐘に当てさせてください。この女学院の三年生として、聖堂の庭で誓った者の一人として」

「聖堂の庭」の語に、法廷が息を呑む。リーゼロッテは、あの隠し部屋で見た古い誓約書を思い出す。エルトベルンと枢機卿の署名。あの庭で交わされた古い誓いが、今ここに繋がっている。

レオンハルトが冠を掲げる。銀の輪が、マリアンヌの光に反応して淡く鳴った。

「王族の血筋として認める。この光は契約の冠と共鳴している」

イーゴルが冠とマリアンヌを交互に見る。彼の顔に、裁く者の決意が戻ってくる。

「被疑事実の核心に関わる。証人マリアンヌ・ベルンシュタインの再尋問と、旧時計塔での現地確認を許可する。ただし……」

イーゴルはオスヴァルトへ向き直った。

「枢機卿、あなたは王城と教会の双方に嫌疑を残している。鐘楼への単独立ち入りを、本廷は許可しない」

オスヴァルトの指が、袖の下で動いた。

「ならば、私の管轄で開かれた以上、私が」

「あなたは教会警備隊に命じて、この法廷を封鎖した」

レオンハルトの声が、初めて彼を遮った。

「王族の婚約者を、王城の裁きから奪おうとした。それ以上を勝手に進めるなら、枢機卿といえど王権への反逆だ」

彼は銀の冠を握り直す。オスヴァルトの目が、細く開いた。

「いいだろう。鐘楼へ来い。そこで全て、示そう」

扉を塞いでいた警備隊が、枢機卿の手の動きに道を開ける。オスヴァルトは背を向け、白い祭服を翻して歩き出す。イーゴルが、リーゼロッテとレオンハルトを振り返る。

「被告の同行を、王族の権限で求める。枢機卿の始動符が何を呼ぶか、まず確認せねばならない」

レオンハルトはリーゼロッテの手を取る。彼女の指が冷えている。だが、退ける様子はなかった。

「行くぞ」

「ええ」

短い応答だった。死刑台の朝を焼き付けた記憶が、声を丁寧にさせようとする。だが、それ以上でも以下でもなく、彼女は歩き出した。

旧時計塔・鐘楼閘門の間は、ねじれた石段が螺旋に続いていた。空気は冷えて重く、埃の匂いに古い油と線香の残り香が混ざる。最上層へ出る寸前、レオンハルトがリーゼロッテを石段の踊り場に立たせる。

「ここが証言位置だ。動くな」

「証言は、何を」

「お前の痣だ。鐘の共鳴を、あの光が示す」

鐘楼の天井近く、古い青銅の鐘が吊るされている。表面には聖堂の庭の紋が刻まれ、その下に、かすかに血のような黒ずみがあった。オスヴァルトが始動符を取り出す。黒い革の上で、符は熱を持っているのか、白い蒸気を上げている。

「この塔だけは、私の管轄だ。王妃の遺産は、教会のものだ」

「違う」

レオンハルトが歩を進める。彼の手の中で、契約の冠が震えていた。

「王妃の死後も、この冠は王族の加護を記憶している。継承者は彼女だ。お前ではない」

彼は冠を外し、左の掌を銀の輪に這わせる。皮膚が裂けて、細い血が冠に通った。その瞬間、冠が淡い青に輝き、鐘楼全体を洗うような波を放つ。

「リーゼロッテ、そこで俺の名を」

血の通った冠を掲げたまま、彼は振り返らない。鐘が、共鳴を始める。低い唸りが石段を這い上がり、足元が震えた。

オスヴァルトが始動符を鐘へ押し当てようと手を伸ばす。だが、冠の光が先に鐘を包んだ。青い光が、鐘の紋をなぞるように走り、古い黒ずみを弾き飛ばす。鐘は、割れるような高音ではなく、澄んだ音で一度だけ鳴った。

「私は……」

リーゼロッテの声が、震えた。

「リーゼロッテ・フォン・エルトベルン。この冠の、継承者としてここに立つ」

その名を聞いた冠が、レオンハルトの手から解ける。銀の輪は離れて、彼女の胸元で浮かぶ。左鎖骨の痣が、初めて痛みを伴わず青く瞬いた。

鐘の音が、もう一度鳴る。新しい契約の音は、塔の外へ、王都の空へ抜けていく。オスヴァルトの始動符が、乾いた音を立てて灰になる。

「何をした……」

オスヴァルトの声が、石壁に吸われた。

「鐘の強制共鳴を、冠が上書きした。お前の合図はもう、この塔には届かない」

レオンハルトは、血を拭いもせず彼を睨む。

「審問官、拘束を」

石段を、イーゴルと二人の衛士が駆け上がってくる。審問官はリーゼロッテの隣で足を止め、灰になった符の残骸を見下ろした。

「枢機卿オスヴァルト・フォン・リンケ。王城への不法介入、審問妨害、偽聖女工作の首謀として拘束する」

白い祭服の胸元へ、黒い革の拘束具が回された。オスヴァルトは最後にリーゼロッテを見た。その目から感情を読むより早く、衛士が彼を石段の下へ連れて行く。

大法廷へ戻ると、扉は内側から開かれていた。傍聴席に、深い息を吐く音が満ちる。夕陽が、高い窓から入り込み、黒御影石の床を薄い黄金に染めていた。

イーゴルが審問官席に立ち、最後の手続きを読み上げる。

「エルトベルン公爵令嬢に対する聖女候補虐め、毒殺教唆、逃亡計画の全件を、証拠不十分により無効とする。令状執行は永久に停止し、処刑計画の名で進められた教会派の手続きも、すべて撤回される」

クリストフが、傍聴席の最前列で拳を握った。彼の隣では、エルナが両手で口を押さえている。マリアンヌは、証人席の横で小さく息を吐き、それからリーゼロッテを見て、深く頭を下げた。

レオンハルトが、リーゼロッテの前へ来た。血の通った跡の残る冠を、両手で持っている。

「正式な婚約破棄は、もう可能だ。枢機卿の承認も、教会の拘束も消えた」

リーゼロッテは、その冠を静かに見つめた。

「ええ、もう、私からあなたを縛るものはありません」

「ああ。だが、俺は」

レオンハルトは、冠を彼女の掌へ乗せる。

「婚約破棄が可能になっても、俺はお前の側に在る。いや、初めから、側に在りたかっただけだ」

彼の顔には、少年の頃の遠い迷いがない。あるのは、選んだ道を最後まで見届ける男の目だった。リーゼロッテの胸が、ゆっくりと深く沈む。

「私も、同じことを考えていました。あなたと共に残る理由を、義務ではなく選んだのは、今が初めてです」

彼女の言葉に、レオンハルトが小さく口元を緩める。右手が、自然に伸びて、彼女の指先へ触れた。

「今世は、死刑台の朝ではなく、あなたと朝を迎える」

リーゼロッテの声は、誰にも奪えない静けさで大法廷に響いた。傍聴席のどこかで、すすり泣きが零れる。彼女は、レオンハルトの手を離さない。

冠の残光が、二人の指先から、息を吐くように静かに消えていった。

処刑の朝に十年前へ戻った悪役令嬢が、今度こそ婚約破棄を選んだのに、断罪した第二皇子が手放してくれない第5話 冠と鐘の新しき契約