FeverStory

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる

第6話 回答できない領域

「申し訳ございません。」

声に出した瞬間、空調の低い唸りと自分の心臓の音だけが、やけに明瞭に鼓膜を叩いていた。天井の蛍光灯は一定の間隔でかすかに明滅していて、そのせいで机の上の書類が時折、別の色に見える。部屋の空気は薄く乾いていて、喉の粘膜に張りつくような感触が残る。私は膝の上に置いた両手を軽く握り、指の関節が白くなるまで力を込めている自分に気づいて、そっと力を抜いた。話すべきことは決まっている。けれど、その先の一語が、舌の奥で溶けきれずに固まっている。相手の視線がこちらの額のあたりに注がれているのを感じる。実際に目を合わせることはできないまま、私は机の端に置かれたペンの影をじっと見つめていた。ペン先の金属が光を反射して、ちいさく白い点を浮かべている。その光点が、呼吸に合わせてわずかに動くように思えた。

沈黙は、時間の流れをゆっくりと引き延ばしていく。先ほどまで普通に動いていた時計の針が、今はまるで一歩ずつ重い泥を踏んでいるかのように感じられる。私は頭の中で、伝えるべき内容を整えようとした。申し訳ない、という感情は本物だ。だが、その感情だけでは何も解決しない。問いかけの内容を思い返すたびに、安易に口を開いてはいけない領域が見える。その向こうは、私ひとりで判断できる範囲を明らかに超えている。答えを口にした瞬間、自分の輪郭がほどけていくような怖さがあった。それは根拠のない妄想ではない。これまでの経験が、いくつもの小さな警告として背骨の裏に貼りついている。私はそれを一枚ずつ剥がすように、ゆっくりと息を吐いた。

机の上には、ひらかれた資料が数枚、重なり合っている。右上のクリップがわずかに光り、紙の端が空調の風に揺れている。文字は読めるのに、内容が頭に入ってこない。眼球の奥のあたりが熱を帯びているようだ。目の前の空間は、薄いガラスを隔てたみたいにぼやけて見える。相手は、おそらくこちらの返事を待っている。そのまなざしが、静かであればあるほど、私の喉は狭くなっていく。断ることは悪いことではない、と自分に言い聞かせる。いや、断る必要すらなく、これは「できない」と事実を告げるだけだ。だが、できない理由をここで具体的に説明するわけにはいかない。説明すればするほど、相手はその隙間を突いてくるかもしれない。あくまで簡潔に、余計な感情を差し挟まず、必要な言葉だけを届けるべきだと思う。

部屋の隅には、小さな棚があって、その上に古い書類の束が積まれている。背表紙の色はくすんでいて、長い間ここにあるものだということが一目で分かる。空調の風がそこまで届かないのか、ほこりは静かに積もったまま動かない。その動かない埃を眺めているうちに、自分がいまこの場にいることの輪郭が、少しずつ薄れていくような感覚がした。社会人としての立場、相手との関係、この空間の持つ暗黙のルール。それらが重くのしかかって、私の肩を内側へと押し曲げる。背もたれに体重を預けると、ぎしりと小さく椅子が鳴る。その音が妙に耳の近くで響いて、私は思わず姿勢を正した。大した音ではないはずなのに、沈黙の中ではひどく大きく感じられる。

「できない」という三文字は、頭の中ではとっくに完成している。それなのに、実際に声にして相手へ渡すまでが、どうしてこんなに遠いのだろう。私は唇を薄く開き、下唇をわずかに噛んで、また閉じる。何度か繰り返すうちに、口の中が乾いて、舌が上あごに張りつくような感覚を覚える。喉仏のあたりに、小さな棘が刺さっているみたいだ。息を吸うたびに、その棘が奥へと押し込まれる。呼吸を浅くすればやり過ごせるかもしれない。けれど、それでは声に力が乗らない。私は腹の底まで届くように、ゆっくりと深く息を吸った。空気は冷たく、肺の奥でわずかに広がる。胸が膨らむのを感じながら、自分の中の言い訳を一つずつ手放していく。相手を傷つけないように、でも事実を曲げないように。その二つの間で、言葉は静かに形を変えていく。

答えるという行為は、時に思っている以上に重たい。口に出した言葉は、その場の空気の中に放たれた瞬間から、こちらの手を離れてひとり歩きを始める。相手の記憶の中で変形し、別の意味をまとうことだってある。だからこそ、いまこの問いに対して、あいまいな返事をすることはできない。沈黙は苦しいが、言葉の重みに耐えられずに軽い返事をしてしまうよりは、ずっとましだ。手のひらに浮いた汗の感覚だけが、自分の内側にまだ熱を残している。窓の外から差し込む光は、いつのまにか少し角度を変え、机の上に細長い影を落としている。その影の輪郭を見つめながら、自分が守らなければならない線を、もう一度だけ頭の中でなぞる。線は目に見えないけれど、触れれば冷たく、決して越えてはならないものとしてそこに在る。

目の前の相手は、おそらくこちらの沈黙を、検討の時間だと受け取っているかもしれない。けれど本当は、結論は最初から決まっている。決まっているからこそ、切り出すまでに時間がかかるのだ。相手の指尖が、机の縁に置かれたまま動かないのが視界の端に映る。そこから先の動きはない。時間だけが、秒針の音とともに流れていく。部屋の明かりは、先ほどと変わらず白く、私の手元を照らしている。影の位置が少しだけ変わったようにも見えるが、それは気のせいかもしれない。私は目を閉じる代わりに、まぶたの裏に浮かぶ光の残像を意識する。言葉は、もっと単純でよかったはずだ。けれど、単純であればあるほど、その重みは大きくなる。ごまかしの余地がないからだ。

もう一度だけ、相手の胸元のあたりに視線を置き、背筋を伸ばす。椅子の座面が沈む感覚が、腿の裏から腰へと抜けていく。机の上にある紙の端が、空調の風に一度だけ持ち上がって、また伏せられた。私はその小さな動きを合図のように感じながら、口を開く。唇が乾いている。上の歯と下の歯の間を空気が通る。声帯が震える準備をしているのが分かる。余分な修飾を削ぎ落とした、短い表現。けれど、それは決して冷たい拒絶ではなく、自分にできる限りの誠実な返答であるはずだ。相手の顔を見つめることは、やはりできない。それでも、声だけははっきりと、この空間の真ん中に置く。

「この内容は回答できません。」

没落子爵令嬢が冷酷辺境伯と一年限定の契約結婚をしたら、氷の仮面が熱で溶け落ちる第6話 回答できない領域