別れた彼が新鋭作家として現れ、担当編集の私は恋を第二幕へ引き戻される
第6話 待つ側の返事
「ここからだな」
慧の声が落ちるのと同時に、栞は右手を紙の端から離した。古い原稿の上に、自分の体温が薄く残る。
「ここから。でも、続きはあなたが書いた最終章を読んでからにする」
「最終章は持ってきたよ」
慧が黒い鞄から封筒を取り出す。厚みのない、白い封筒だった。五年前の原稿と同じ紙の色に見えた。
「いつから持ってたの」
「今日に合わせて、昨日書き上げた」
栞は封筒を受け取らず、卓の上に置かせたまま彼の顔を見た。
「ここでは広げられない。ちゃんとした場所で読む」
「どこでもいい。お前が決めれば」
「うちの会社に旧資料室がある。空調が古いけど、人目はない」
慧は小さく頷き、窓の外へ目をやった。閉店の灯りが落ちる歩道を、最後の会社員が足早に過ぎる。
「明日、夕方なら行ける」
「夕方、旧資料室で」
約束はそれだけだった。会計を先に済ませたのは慧で、栞が財布を出す間もなく二人分をまとめて払った。店を出る時、扉の鈴が一度鳴り、夜の湿気が肌を包む。慧は駅と反対の方角へ歩き出しかけて、途中で振り返った。
「気をつけて帰れ」
「あなたも」
互いに背を向けたあとで、栞は一度だけ振り返った。慧も同じタイミングで振り返っていて、目が合う。笑うでもなく、慧は右手を軽く上げて、今度こそ夜の中へ消えた。
翌日の夕方。暁文社の旧資料室は三階の北側にあった。蛍光灯の一本が点滅を繰り返し、窓の外には雑居ビルの壁が見える。栞は退勤時間を過ぎた廊下を抜け、鍵の掛かっていない扉を押した。
慧はすでに隅の長机に座っていた。黒のシャツの袖をまくっている。左手首の革のブレスレットが、蛍光灯の下で細く光った。
「早いのね」
「時間に遅れるのは嫌なだけだ」
栞は彼の真正面ではなく、斜向かいに座った。長机の上に、五年前の原稿と、白い封筒が並んでいる。
「読む前に、ひとつ確認させて」
慧が顔を上げる。栞の声は部屋の静けさに吸われて、思ったよりも小さく響いた。
「最終章、私に読まれるのを前提で書いたの?」
「そうだ」
「なら、読む」
封筒を開ける。中には十枚ほどの原稿が入っていた。五年前の原稿と比べて、字は少し丸みを帯びていた。栞は一枚目からゆっくり目を通していく。慧は何も言わず、腕を組んで待っていた。
最終章は、五年前の続きではなく、五年後の今から始まっていた。主人公は街を歩き、かつて恋人がいた場所を探す。手がかりは古い一冊の本だけ。最後の段落で、その本を開いた相手に語りかける一文があった。
——君がそこにいるなら、返事をください。今度は僕が待つ。
栞は原稿を伏せた。指の先に紙の表面が乾いて当たる。
「これ、私への返信だ」
「ようやく書けた。五年かかった」
慧の声は、からかう色がなかった。ただ事実を置くような、低い声。
「私、返事を書かなかったもの。あの時、あなたの処女作を読んでも」
「読んだのか、あれを」
「五年前から、ずっと持ってた。返す機会を失くしたまま」
慧の視線が、机の上の五年前の原稿に落ちる。彼は何かを言いかけて、やめて、左手首のブレスレットを外した。革の内側を上にして、机の上に滑らせる。
「見て」
栞は身を乗り出した。内側には細い文字が焼き込まれている。
「『こぼれるまで、待つ』」
声に出して読んだ。それは大学四年の秋、慧が初めて小説の題名を口にした日の言葉だった。二人で歩いた帰り道、どちらからともなく決めた、小さな約束。栞の胸の裏を、古い風が抜けていく。
「ずっと付けてたの」
「外したことはない。書けなくなった夜も、これだけが残ってた」
「知らなかった。五年前、あなたがこれをしている意味も」
「今は知ったろ。俺が待ってたって、これでようやく言える」
栞はブレスレットを手に取って、革の内側をもう一度読む。それから慧に返す代わりに、自分の平の手の上に置いた。
「最終章の最後の一文、返事をくださいって書いてある」
「お前が返事をくれるなら、編集者としても、それ以外でも、どっちでも受け取る」
「私、まだ母の見合いを断ってない」
慧は一瞬だけ目を細め、それから静かにうなずいた。
「先に片付けてこい。その上で、この先をどうするか決めろ」
「そうする。今夜行く」
「今夜?」
「先延ばしにすると、ずるずるいくから」
慧は何か言いたげに口を開きかけ、結局、右手の指で机を二度叩いた。
「待ってる。返事がもらえるなら、いくらでも待つ」
「今度は、あなたが待つ番ね」
栞はそう言って、ブレスレットを慧の前に戻した。彼はそれを左手首に着け直す。革の留め金がかちりと鳴った。
世田谷の実家に着いた夜、香澄は玄関先で目を剥いた。
「こんな時間に、どうしたの」
「話を終わらせに来た。中に入る」
香澄は慌ててスリッパを揃える。居間へ通されると、座卓を挟んで長谷部篤が座っていた。白いシャツに、ノーネクタイ。手元には茶が注がれた湯呑みがある。
「あら、栞さん。お久しぶりです」
長谷部は腰を浮かしかけた。栞は一礼して、彼の正面に座った。香澄が台所から湯呑みを足しに来る気配がする。
「長谷部さん、お見合いの話を進めていただいているのに、申し訳ありません」
「いえ、私はお会いできてよかったと思ってますよ」
「今日は、それをお断りするためにお邪魔しました」
長谷部の手が、湯呑みの縁で止まる。けれど彼は慌てず、胸の前で両手を組んだ。
「理由を伺っても?」
「仕事と、それから自分が選び直した人がいます。長谷部さんに失礼のないように、先に母へではなく、あなたに直接お伝えしたかった」
その時、香澄が居間へ入ってきた。湯呑みを置く音が、座卓の上で硬く響く。
「あなた、何を勝手なことを。長谷部さんに失礼でしょう」
「だから、長谷部さんに直接話してるの」
香澄は口を開きかけ、長谷部の手が柔らかく制すのを見て、言葉を飲んだ。
「僕は構いません。栞さんが自分の道を選べる人で、よかった」
長谷部は静かに立ち上がり、香澄へ一礼した。
「お母様、今日はごちそうさまでした。僕はこれで失礼します」
「でも、長谷部さん……」
「お嬢さんは、はっきりしてて気持ちがいい。またご縁があれば、その時はお茶でも」
彼は靴を履き、玄関で振り返らずに夜の街へ出ていった。栞はその後ろ姿を見送り、居間へ戻って香澄と向かい合う。
「母さん、私、自分の仕事も、誰を好きになるかも、自分で決める」
香澄は座卓の前で、両手を膝の上に置いたまま押し黙った。何か言おうとして、息を吐く。
「あんたがそこまで言うなら、もう何も言わない」
「見合いの話は、全部断って。それから、五年前の電話のことも、いつか話してほしい。今じゃなくても構わないから」
香澄の指先が、エプロンの端を揉むように動く。けれど彼女はうつむいたまま、小さくうなずいた。
「お母さん、まだ混乱してるのよ」
「わかってる。今日は帰るね」
実家を出ると、夜風が火照った頬を冷やした。長谷部の姿はもうない。栞は駅までの道を歩きながら、携帯で慧に短く打つ。
「見合い、断りました」
返信は、一分と経たずに届いた。
「おかえり」
翌朝。柏木修を訪ねた栞は、申し出書を机の上に置いて向き合っていた。柏木は書面を一読し、手に持った万年筆で軽く机を叩く。
「随分はっきり書いたな。担当続行と、雨宮透との個人的な関係の継続報告か」
「隠して進める方が、企画に傷をつけます」
柏木は眼鏡を外し、同席していた七尾灯に目をやった。
「七尾、お前は知ってたのか」
「知って、ました。話を聞かされて、見守ってただけです」
「見守るだけでは不足だ。独立確認役を引き受けろ。原稿内容が私情に流れていないかを月次で確認する。できるか」
七尾は一瞬、栞を見た。栞が小さくうなずくと、七尾は背筋を伸ばした。
「引き受けます。客観的に見ます」
柏木は再び申し出書へ目を落とし、朱印を捺す。書類に手を添えて、栞の方をしっかり見た。
「雨宮透の正体を知っていたのは、俺の決定だ。責任は俺が持つ。ただし、条件は守れ。読者に誇れる編集をしろ」
「承知しました」
承認書を受け取る。紙の重みが、昨日までの迷いを現実に変えていた。
七尾と共に柏木の席を離れ、廊下を並んで歩く。七尾は声を潜めて言った。
「あたし、あんたが仕事と恋、両方取ると思ってた」
「まだ、取れたとは言えない。これから」
「取るんでしょ。あたしに確認役までさせたんだから」
七尾が笑う。その笑い方が、どこか少し寂しげに見えたのは、蛍光灯の加減だけではない気がした。
深夜。枇杷茶房の隅の席に、最終稿の複製が置かれている。慧はそれを手に取ると、重みを確かめるように両手で包んだ。
「柏木が条件付きで承認した。月次報告と、七尾の内容チェック付き」
「七尾か。あいつも、巻き込んだのか」
「巻き込んだのは私。でも、引き受けてくれた」
慧は複製を鞄にしまい、正面から栞を見た。
「条件があるなら、それでいい。お前が編集を降りないなら」
「降りない。降りたくないの」
カウンターの奥で、店主が豆を挽く音が止む。店の中に、静けさが戻った。
栞は隣の椅子に移った。慧の横顔を近くで見る。五年前と同じ、少し困ったような、それでいて熱のある目。
「担当編集としても、恋人としても、あなたを選ぶ」
慧の喉が、小さく動いた。彼はしばらく目を伏せて、それから栞の手の甲に指先を重ねた。
「隣にいてくれ」
「いる」
最終稿の白い束が、二人の間の卓上に横たわっている。これから校正を始めようという時、慧がもう一度だけ手に力を込めてきた。