FeverStory

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる

第5話 蛇の指輪と夜蜜

アレクシスの指が眉を離れた。第二の足音は、小石を噛んだきり動かない。リゼリアは杯拭きを机に置き、窓へ半歩寄った。夜風が薔薇の香りを薄く運んでくる。

「足音は、一つだけか」

カイルクスが低く問う。アレクシスは振り返らずに答えた。

「今は、そうです。散歩道の薔薇の陰です。俺が外へ出れば、また引く。近衛に周囲を固めさせます」

「行け。ただし追うな。皇后宮を空けるな」

アレクシスは一礼し、剣の柄に手を置いたまま外廊下へ消えた。リゼリアは机の封印箱へ目を戻した。青い杯拭きの端に残る紫が、蝋燭の灯りでまだ濡れたように光っている。ケイウスが月虹石を箱の上に置いた。

「皇后様、この二点は、私が信じた最良の物証です。法廷へ出せば、皇太后宮の油と夜蜜の一致は覆せません」

「ありがとうございます。ですが、その『法廷へ出せる』道を、今日中に作らねばなりませんわ」

カイルクスが一歩近づく。

「明日、朕が皇宮法廷を開く。承認はお前のものだ。証拠と証人は、朕が連れて行く」

「皇太后様が、黙ってお認めになるとは思えません」

「来るなら、廷内で崩す。リゼリア。お前一人で乗り込むな」

その声は命令だった。リゼリアは短く息を整え、封印箱へ目をやった。

「ならば、その廷内で、私も物証を扱う者として立たせていただきますわ」

カイルクスは頷かず、代わりに封印箱へ目をやる。

「決まりだ」

明け方、皇宮法廷の扉が開いた。石壁の燭台へ火が入り、冷たい空気が動く。リゼリアは銀糸のローブをまとい、傍聴する貴族たちの中を進んだ。ざわめきが二分して、道ができる。誰かが「狂言だ」と囁き、別の声が「皇后が何を」と返す。リゼリアは正面の証拠台に立った。

「皇后リゼリア・クローデル、陛下の開廷に従い、ここに物証を提出いたします」

廷吏が、封印箱を証拠台へ運ぶ。最初の毒杯、残液の検体、青い杯拭き。三品が並ぶ。カイルクスが高い場所から声を落とした。

「異議は、廷でのちほど受け付ける。皇后自ら、物証を検めよ」

リゼリアは杯を手に取った。花の刻印が、指先の下で冷たい。

「最初の杯、これが戴冠式で差し出された誓いの杯ですわ」

次に残液の検体を開かせる。小さな銀筒。蓋を回すと、甘い花の腐りかけのような匂いが漂った。リゼリアは呼吸を整え、胸元の飾りを外して杯の内側へ触れさせた。

色が走る。花の刻印の周りから、紫が水面を染めるように広がっていく。廷内が息を呑んだ。リゼリアは残液にも、青い杯拭きにも月虹石を触れさせた。三つの紫。

「夜蜜です。そして、その溶媒には、皇太后宮だけが使う調合油が含まれております」

ざわめきが波のように膨れた。

ケイウスが証人として中央へ進み出た。記録を廷吏へ渡し、落ち着いた声で読み上げる。

「最初の毒杯の残液から、夜蜜と月下琥珀を検出しました。皇后宮で押収された青い杯拭きからも、同一の夜蜜および、皇太后宮の私室で用いられる香油と同じ調合痕が出ております」

「同じ、というのは」

「希釈の濃度筋まで、ほぼ同じです。別の場所で別々に希釈されたとは、まず考えられません」

廷内が一瞬静まった。リゼリアは証拠台へ向き直る。

「次に、毒杯を給仕した侍女マグダ・ルーヴェルを、証言台へお召しくださいまし」

マグダが近衛に支えられて入ってきた。青ざめた顔で、証言台の前に立つ。リゼリアは声を柔らかくした。

「マグダ、あの杯は、もともと戴冠式で使うお杯だった?」

「いいえ……私、前日に正規の給仕杯を割ってしまって。それで、控えの杯を」

「毒とは知らなかったのね」

マグダの肩が震えた。

「知りませんでした。白い袖の女官に、杯を丁寧に拭くよう言われて……それだけを、言われるままに。私は、署名を。皇太后宮で、皇后様を陥れるようにと……毒とは知らず、と」

「署名を強要されたの。誰に、どうやって」

「皇太后様の前で……家族を、罪にすると。ミラベル様とまとめて、処分すると」

廷内が沸いた。リゼリアはマグダの手が証言台の縁を握りしめるのを見た。それから傍聴席に立つ白い袖の女官へ目を向ける。女官はわずかに後退った。

「嘘を吐いた方に、この紫は揺るぎませんわ」

リゼリアは青い杯拭きから滲む紫へ指を向けた。ろうそくの灯りで、色がむしろ深まる。

証言の間も、セレスティーヌは最前列の一角に背を伸ばして座っていた。黒い儀礼服、胸の蛇紋。リゼリアの目が、その手元の指輪に触れる。蛇の彫りが節のように光っている。カイルクスが玉座から降りた。廷吏が、皇帝の証人立会いを告げる。

「星霊の加護が、朕の血にある。皇帝が、直接の害意を持って毒を渡したなら、右胸に痣が浮かぶ」

カイルクスは襟元に手をかけ、右胸を示した。廷内の貴族たちが固唾を飲む。そこに痣はなかった。

「皇后へ毒を渡したのは、朕ではない。その証明に足る」

リゼリアはすぐに顔を上げた。

「では、私兵が皇后宮を襲い、アレクシス・ヴァルツの眉を裂いた剣筋に、皇太后宮の私兵の癖がございますわ。アレクシス、証言して」

アレクシスが進み出る。左眉の古傷が灯りに白く浮いた。

「外廊下で捕らえた私兵の剣の振り方。最初の太刀を半身で流し、二の太刀を左眉へ、外側から内へ引く。自分の古い傷を裂いた雨の夜の相手と同じ角度でした。皇太后宮の私兵にしか、備えられていない筋だと断言します」

セレスティーヌの頬がわずかに持ち上がった。リゼリアは彼女の前へ歩み出る。

「皇太后様。偽の自白と、偽の証言と、私兵の差し向け。どれも別の罪ですわ。でも一番小さな罪から、証拠はお話ししてくれます」

リゼリアは彼女の指を見た。

「蛇の指輪。お外しくださいませ」

「証拠と、なんの関係がある。皇后ごときが、私の指に」

「廷吏が、装身具検査の許可をいただいていますわ。拒めば、近衛に無理にでも外していただきます」

セレスティーヌの視線が廷吏へ走る。廷吏は皇帝の印を見せた。彼女は口元を歪め、ゆっくりと指輪を外して証拠台に置いた。

リゼリアは月虹石を取り、蛇の彫りの目に当てた。ガチリと音がして、指輪の裏の留め金が外れた。中から小さな薬室。薄い粉が落ちる。月虹石を触れさせると、粉が毒々しい紫に染まった。

「これは……夜蜜。指輪の内側に、毒を隠せる細工がしてございます」

セレスティーヌが立ち上がった。近衛が両側から近づき、その腕を取る。彼女は振り払おうとして、指先に力が入らなかった。

「それで、私が首謀だと? そんな指輪、誰でもこしらえられる」

「ですが、あなたの右手の指は、今、薬室を開けた方と同じ場所を押さえて震えておりますわ」

リゼリアは言って、指輪を廷吏へ渡した。

「偽証と、皇后暗殺の首謀。皇太后様は、どちらの罪からお認めになりますか」

セレスティーヌは唇を開けたが、出た言葉は形にならなかった。廷内のざわめきが、彼女の肩を押し沈める。

判決は、その日の昼前には出た。皇太后セレスティーヌ・ヴェルンハルトの勅書が読み上げられる。追放。マグダは、脅迫による偽証であることが記録され、家族とともに宮廷の毒杯の罪から外された。マグダはリゼリアの前で床に崩れた。

「私、ごめんなさい、皇后様……ごめんなさい」

リゼリアは証言台から下りて、マグダの肩越しに廷内を見た。

「あなたの証言で、反証が開きました。もう、下がってよろしくてよ」

夕刻。大神殿の扉が、戴冠式のために再び開かれた。あの朝、封鎖された神前の間へ、参列者が静かに入ってくる。アレクシスは神前の間の扉の内側へ控え、左眉の古傷を灯りに晒した。リゼリアはカイルクスの前で誓いの杯を受けた。あの朝、これを拒んだ手で、今度は杯の縁へ口を近づける。酒は澄んでいて、ただ冷たかった。

カイルクスが杯の反対側へ口をつけ、一息に飲む。リゼリアもゆっくりと飲んだ。杯の共飲が為る。次に、誓いの口づけ。カイルクスがリゼリアの顔へかがみ、唇の先が触れる距離で止まった。

「朕は、お前が死んだままで終わる朝を知っている。だから」

その声は人払いのようで、けれど神前の間の中央で。リゼリアは彼の胸へ目を落とした。害意の痣のない胸。心臓の音が、わずかにローブ越しに伝わる。

「生きよう。あなたが、そうしろと。そういう顔をしてる」

リゼリアの声は短く息に変わった。カイルクスが目を細め、唇を重ねてくる。誓いの口づけは、二人を結ぶのに十分だった。

参列者が、三唱する。

「皇后陛下万歳、皇后陛下万歳、皇后陛下万歳」

リゼリアは口づけの終わりに目を開けた。彼女の手が、月虹石の飾りを服の上から握る。生きている。

戴冠式は、夕闇の中で成立した。

毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、毒杯を拒んで生き延びる第5話 蛇の指輪と夜蜜