毒殺された皇后は戴冠式の朝に戻り、毒杯を拒んで皇帝の隣を勝ち取る
第5話 銀の曇りが冠を戴く
冷え切った廊下に、審問官たちの黒いローブの裾が遠ざかる音だけが残っていた。靴音の消えた先で、壁の燭台が一つ、細く煙を上げている。明け方前の空気は窓硝子を白く曇らせ、エレオノーラは机の前で銀の布の端を指先に絡めたまま、動かなかった。
「手続きの不備は、せいぜい二刻の猶予だ」
ライオネルが背後で言った。声は低く、氷を敷いたように静かだった。
「二刻あれば十分よ。夜明けの鐘が先に鳴る」
エレオノーラは振り向かずに答えた。指先は銀の布を離さない。三つの品を順に袖の隠しへ入れ、白い手袋をはめ直す。ライオネルはなおも距離をとっている。それでいい、と彼女は思う。裁判はまだ終わっていないのだから。皇帝が皇后の裁量を認めていると参列者に映る前に、共杯の礼でけりをつけるべきなのだ。
「開式の支度を急がせます」
ライオネルはそれだけを私兵へ命じ、控えの間を出た。
星の間はすでに朝の薄明かりを帯びていた。高い窓から差し込む光が、磨かれた床に青い筋を落としている。やり直しの共杯の礼には、開式前の異変を聞きつけた貴族が昨日より多い。祭壇の上では新しい酒が満ちたのではない、昨夜のままの金杯が白絹の上に据えられている。その縁は、朝の光の中で鈍く霞んで見えた。脇にオスヴァルトが銀匙を構えて立つ。その向こう、参列者の最前列にカタリナを見つけて、エレオノーラは心臓が一つ大きく脈打つのを許した。
カタリナは昨夜の敗北を押し隠すように顎を上げ、黒紫のドレスで凛と立っている。こめかみには薄く青い血管が浮いていた。エレオノーラが祭壇へ歩を進めると、広間が静まった。衣擦れの音までが吸い込まれるように消える。
「皇后陛下、杯のお心持ちはよろしゅうございますか」
ギルベルトが儀礼の声で遮る。エレオノーラは彼を見上げ、はっきり命じた。
「毒見役の匙ではなく、銀の布で杯の縁を拭う公の毒検めを求めます」
空気がざわめいた。貴族たちの視線が一斉に祭壇へ集まる。カタリナが一歩、列を出る。
「聞いておりませんわ。式の順を乱すおつもりかしら」
「順を守るためにこそ、縁を検めます。毒見役が匙で確かめるのは杯の中身だけ。唇が触れる縁は、まだ誰も試しておりません」
「銀の布など、どこに毒が」
「曇れば、あります」
その声には震えがなかった。エレオノーラは袖から銀の布を出し、白い手袋の指先で広げた。オスヴァルトが主君を仰ぐ。ライオネルが玉座の前から、短く頷いた。オスヴァルトは銀匙を盆に置き、詞を唱えるように告げる。
「皇后陛下の命により、杯の縁を銀の布で検めます」
カタリナが歩み寄ろうとするのを、私兵が剣を抜かずに体で止めた。エレオノーラは杯の脚を左手で支え、右手の銀の布を縁へ這わせる。細く、ゆっくり、弧をなぞるように。二巡、拭うと、布が白く曇った。手元の燭台の火が大きく揺れる。広間のあちこちから短い悲鳴と椅子の倒れる音が上がった。
エレオノーラは布を頭上より少し高い位置で、観衆へ向けて開いた。朝の光と蝋燭の炎が、曇りをくっきりと浮かび上がらせる。
「杯の縁だけが曇りました。これは銀が毒に触れた証しです」
「他の何かでも曇ることがあるわ」
カタリナが叫ぶ。喉の奥が引きつるような声だった。エレオノーラは布を畳まずに、祭壇の脇の燭台の明かりへ透かした。
「ここに白薔薇の香油の痕が写っています。昨夜、杯の納め台の縁から写し取ったものと、同じ香りの残りが」
「香りなど誰の袖にもつくものよ」
「では歌声で確かめましょう」
エレオノーラの視線が、参列者の後方へ向く。私兵が並ぶ合間を縫って、細身の歌姫が証言台へ進み出た。セレスティナは顔色を青くして震えながら、組んだ両手を胸の前で握りしめている。ギルベルトが彼女へ、声だけで「許す」と言った。
「共杯の礼で、あの杯が一瞬、重く傾きました。私が皇后さまの前で止めたのは、杯の縁を確かめたかったからです」
セレスティナの声は掠れていた。彼女は何度か唇を湿らせ、続けた。カタリナが軽く笑う。
「歌姫ごときが、何を」
「その歌姫をそちらへ差し向けたのは、どなたですか」
エレオノーラの声が冷たく通った。セレスティナは一度だけカタリナを見て、すぐに伏せて言う。
「オーベルシュタイン様から、杯を止めて待つようにと。白薔薇の香油で縁を守るのが皇后さまへの礼だと」
カタリナの顔が強張る。彼女は否定を口にしようとして、ギルベルトの方を振り返った。ギルベルトはすでに陳述書を開き、筆を走らせている。書き終えて、ペン先を静かに置いた。
「臣下として、杯の準備を預かる宰相として申し上げます。旧家の沈黙の連判に縛られ、私は杯の異変を封じました。しかし、なぜ皇后側の杯の縁に香油が塗られたのか。この一点に限り、黙秘を破って記録へ残します──カタリナ・オーベルシュタイン公女が開式の朝、納め台の白薔薇油へ触れ、杯の覆いを開けさせるのを見た、と」
カタリナが息を呑む音が、静寂に立った。その響きが、柱の陰まで届く。周囲の貴族たちは互いに目を交わし、沈黙の連判の重みを知る者ほど顔色を変えていく。ライオネルが玉座の段を降りた。
「銀の曇り、歌姫の証言、宰相の陳述。これらを害意の証拠の三つとして満たす。カタリナを拘束しろ」
私兵が動いた。カタリナは振りほどこうとしたが、二人の私兵に両腕を押さえられる。抵抗するたびに、白い手首へ緋色の擦れが走った。彼女は叫ぼうとして、声にならない吐息だけを零し、西翼廊へ連行されていく。
「予備の杯を出せ」
ライオネルの命に、オスヴァルトが祭壇の奥から銀の盆を運ぶ。白木の箱が開かれ、点検された新しい杯が光に晒される。改めて毒見役が液体を銀匙で試し、参列者の前で杯の縁にも銀の布を当てた。曇りはない。オスヴァルトが布を高く掲げ、宣言する。
「異常なし。陛下、皇后陛下、共杯の礼を」
ライオネルは杯を受け取り、口をつけた。それから恭しく、エレオノーラの手へ杯を渡す。彼女は杯の冷たさを白い手袋越しに感じ、静かに酒を含んだ。苦みも痺れもない。生きている。喉を落ちた酒が、胸の奥でわずかに温かく広がる。
「戴冠の順路を開けよ」
ギルベルトの声が、ようやく彼らしく響く。参列者が左右へ分かれ、祭壇までの青い絨毯が姿を現した。エレオノーラは杯をオスヴァルトへ返し、一歩を踏み出す。長い銀の髪が朝の光を受けて、真珠の留め具ごと美しく揺れた。
祭壇の前で、彼女はひざまずく。皇后冠が捧げられ、冷たい金の重みが頭へ載る。参列者の全員が跪き、忠誠の言葉を唱えた。エレオノーラは顔を上げ、短く宣言する。
「この冠を帝国の安寧のために受けます」
ライオネルが隣へ進み出て、手に負えないものを押し隠すように、低く告げた。
「私の隣に立て」
エレオノーラは立ち上がり、皇帝の右側へ並ぶ。マルガリータが大広間の柱の傍らで、口を押さえて涙を浮かべていた。ギルベルトは陳述書を胸に抱き、祭壇の影で独り、沈黙の連判が解けないままの古い咎と向き合っている。
セレスティナは証言台で、まだ震えていた。それを私兵が静かに保護し、エレオノーラの視界から外れない位置まで誘導する。すべての手順が終わり、それでも彼女の警戒は消えていなかった。賛同の拍手も微笑みも、彼女の血を緩めはしない。死の記憶は冠の重みより深く、彼女の背をなお押している。