毒殺された皇后が戴冠式の朝に巻き戻り、冷徹皇帝と再び毒杯の席につく話
第5話 白百合が開く法廷
「開廷を求める」
カイゼルの声が、夕刻の貴族院法廷を裂いた。皇帝の印が廷吏の盆の上で鈍く輝き、傍聴席のさざめきが一瞬で凪ぐ。リゼリアは彼の半歩後ろで背筋を伸ばし、首飾りの白百合が胸元でかすかに揺れるのを感じていた。
「皇后、証拠を」
カイゼルが振り返らずに促す。彼女は前に進み、聖油の輸入記録と名簿の写しを廷吏へ差し出した。首飾りに触れる必要はなかった。小さな花弁が一枚、内側へ折れている。三歩の距離にいたレオンハルトの左手を、彼女はまっすぐ見た。
「レオンハルト・クライス卿の左手に、毒草のあとが残っております。銀器でご確認を」
廷内がざわつく。レオンハルトは警備の間に立ち、外しかけた白手袋をわずかに持ち上げた。銀の小皿が近づけられ、その表面へ青黒い膜が走る。証言台の灯りが、変色した手の甲を浮かび上がらせた。
「聖油の検品記録と輸入証書の照合も、あわせてお願いいたします」
リゼリアの声は静かだった。カイゼルが印を再び掲げ、廷吏たちが記録を回す。再検分が命じられ、傍聴席から低いどよめきが起きる。レオンハルトは口元を歪めただけで、片足の重心を後ろへ移した。
皇太后席で、ヴィルヘルミナが立ち上がった。指先が袖の縁をきつく握っている。
「わたくしから、提出するものがあります」
廷内が水を打ったように静まる。彼女は震える手で輸入元証書の原本を差し出した。朱い封蝋の上に、皇太后派商会の印が重なっている。
「この聖油の輸入経路を、レオンハルトが毒の運搬に使っていた。証書の余白に、彼の実家が裏で回した船印がございます」
傍聴席から鋭い息が漏れる。廷吏が証書を皇帝の前に運ぶ。カイゼルは目を細め、その印影を指先でなぞった。
封蝋のざらつきが指先に残る。彼は証書を斜めに傾け、西窓から差す光の筋に朱い印を透かした。空気が止まったように感じる。傍聴席では誰もが小さく身を乗り出し、衣擦れの音だけがぱらぱらと落ちた。廷吏が捧げ持つ盆の縁に、皇帝の印と証書の影が交差する。カイゼルはひと呼吸おいてから証書を盆へ戻し、背もたれへ深く身を沈めた。その眼差しが一瞬、皇太后の痩せた手元へ届く。ヴィルヘルミナは唇を引き結び、短い祈りを呟くように項垂れた。
「これを差し出す見返りは」
「派閥への追及を保留いただきたい」
ヴィルヘルミナはまっすぐ前を見た。声は上擦っていたが、背は曲げていない。
「わたくしの名で、協力の記録を残すしかありません。でなければ、この証書の効力を信じていただけないでしょうから」
カイゼルは一拍おいて頷いた。廷吏が彼女の言葉を記録する音が、羽根先で紙を擦るように続く。
「取引を受理する。追及の保留は、この証書の価値が確定するまでだ」
レオンハルトが、突然笑った。最初は肩を震わせるだけの、小さな笑い。それが徐々に大きくなる。
笑いは空気をどろりと重くした。笑うたびに胸が上下し、左手の黒ずみが咳のように擦れる。傍聴席の端で、年配の貴族が小さく後ずさった。警備兵の槍の柄を握る手に白い筋が走る。それでもレオンハルトは歩み寄ることもなく、薄い笑い声を法廷の天井へ放ったまま、首をゆっくり横へ倒す。
「だから何だ」
警備が身構える。彼は左手を突き出した。変色した肌が、燭台の炎に照らされて黒々と浮かぶ。
「この手で宵染みを摘んだ。それだけの話だ」
空気が張り詰める。リゼリアは勝手に心臓が速くなるのを止められなかった。あの朝、喉を灼くようにして消えた記憶。杯を掲げた指先。レオンハルトの瞳が、まっすぐ彼女へ向く。
「毒を盛った。あの朝も、昨日の礼拝も、俺がやった」
言い放った声は軽く、毒見役が倒れた場面を思い出してか、傍聴席から短い悲鳴が上がる。カイゼルは動かない。ただ、印を握る指の色がわずかに変わった。
「なぜ、いま自白する」
「もう隠す理由がない。手配は済んだ。毒杯の儀式など、次の祈りの前にでも廃すればいい」
レオンハルトは笑みを顔に張りつけたまま、リゼリアを見た。彼女は一歩も退かなかった。首飾りの花弁が、心臓の上で硬く閉じている。
「動議が成立した。毒杯の儀式を、皇帝の印をもって廃止する」
カイゼルの声が法廷に満ちる。廷吏が一斉に記録を始めた。リゼリアは証言台へ進み、月光草の煎じ薬の空瓶をそっと置いた。ガラスが石の台に触れて、澄んだ音がひとつ。
「わたくしは、この瓶を置いて皇后の座を降ります」
法廷が静まり返る。カイゼルが初めて彼女の肩越しへ視線を寄越した。リゼリアは首飾りの留めに手をかける。外すには、手袋を二重にした指が震えそうだった。
「わたくしを生還させたのは、この薬の一滴でした。毒を畏れずに、一人の女として生きます」
傍聴席から進み出る足音がした。ティナが青い顔のまま通路を横切り、証言台のそばで膝を折る。
「私が証明します」
声はかすれ、手はまだ脱力で震えていた。それでも彼女はリゼリアの手を取った。両方の指が冷たく、互いの体温が混ざる。
「この方は、毒を恐れて逃げなかった。私の、命の恩人です」
リゼリアは息を呑んだ。閉じていた白百合の花弁が、一枚、音もなく開く。もう一枚が続き、花全体が光を吸って開いていく。傍聴席のどこかで、泣き声がした。
判決は迅速だった。レオンハルトは自白のまま拘束室へ送られ、毒杯の儀式は皇帝の印で廃止された。ヴィルヘルミナは記録を受け取って先に出る。廷内のざわめきが引いていく中、カイゼルがリゼリアの肘へ軽く触れた。
びくりと腕が震えるほど、指先は静かに置かれていた。彼は何も言わずに彼女の歩調を待つ。祭壇の残り香が長い廊下へ流れ、窓から差す夕日が足元の敷石を横切っていた。傍聴人の靴音が、遠ざかるたびにうつろに響く。柱の影で待つ廷吏が、黙って二人へ頭を下げた。石の冷たさが靴底から染みて、リゼリアは小さく息を整える。
「控室へ」
二人は並んで歩いた。廊下の夕日が床の黒石を赤く染め、足音だけが揃う。控室の扉が閉ざされると、静けさが一気に戻ってきた。リゼリアは首飾りを外し、白百合を小卓の上へ置く。
「これを、手放すのね」
「ああ」
カイゼルが黒い百合の指輪を外した。重い銀の環が、小卓の上で小さく音を立てる。並べられた白百合と黒百合は、互いの影を吸い合うようだった。
乾いた空気のなかで、白い花弁がほんの僅かに震える。窓が鳴り、夕風が机の縁を這って二人の間をすり抜けた。カイゼルが指先を伸ばし、黒い指輪の縁をそっとなぞる。銀の冷たさが宙に滲み、白百合の影を食んでいた。首飾りの花弁はすべて開き、花は白く満ちている。
「私は皇后の座ではなく、あなたの隣で生きる」
リゼリアが言った。その手を、カイゼルが握り返す。指先は冷たかったが、内側から熱が滲む。
「それでいい」
彼の声は低く、窓の外の夕明かりが二人の影を一つに延ばす。小卓の上で白百合が満開にひらき、黒い百合の指輪が灯りを受けて静かに瞬いた。夜の気配が窓の外から部屋へ流れ込み、二人の手は絡んだまま、何ひとつ急いでいなかった。