毒殺された皇后が戴冠式の朝に戻り、夫である冷徹皇帝の愛ごと運命を書き換える
第5話 毒杯の検分
ミュリエルを止めなければ、すべての物証が台無しになる。エリアーヌは息を詰めたまま、聖杯を支える給仕の白い手袋へ視線を這わせた。
「お下げなさい」
その一声は、自分のものとは思えないほど平らに広間へ落ちた。給仕が足を止める。ミュリエルが弾かれたように顔を上げ、唇だけが「皇后様」と動いた。
「検分台へ。今すぐに」
エリアーヌの指は青銀のローブの内で拳を作っていた。死の秒読みはまだ胸の底で鳴っている。けれどあの杯を飲む恐怖より、証拠が流される恐怖が勝った。喉が焼けつくほど渇いている。
ミュリエルが給仕から杯を受け取り直し、布ごと抱えるように検分台へ運ぶ。陶器の足が台に触れるか触れないかの音が、静まり返った広間を尖って走った。
「膜が、内側に。洗えば消える白い膜が残っております」
ミュリエルの声は震え、それでも通った。彼女は布を開かず、杯の口を傾けて見せる。蝋燭の光を受けて、黒い陶器の内側を白い筋が走った。
「三度の毒見をすり抜け、銀の針も反応しなかったものが、杯の内側に乾いて残ってございます」
ユリウスが柱陰から歩み出る。その足音に、貴族たちのささやきが一斉に潰えた。彼は検分台の杯を一瞥し、ミュリエルへ顎で示す。
「その手を離してもよい。杯は朕が預かる」
「御前、これは……」
「動かすな。誰にも触れさせるな。儀は止める」
楽の音も、銅鑼の余韻も、すべて彼の声に呑まれた。儀礼官が呆けたように手を下ろす。ユリウスは杯の脇に近衛一人を立たせ、検分台へ背を向けずに命じた。
「ダリウス」
呼ばれた騎士が柱の暗がりからカミラの肩を支えて歩み出る。カミラの顔は血の気がなく、けれど目だけ妙に据わっていた。観念した者の沈着がそこにあった。
「申し上げます」
カミラはユリウスへではなく、広間のどこかを見つめて口を開いた。
「ヘレナ様の象牙の扇。中骨に細い溝が彫られてございます。開いた時だけ見える溝に、白い粉を忍ばせておられました。わたくしは、あの扇の手入れを仰せつかっておりましたので」
「その粉が何か、お前は知っているな」
ユリウスの問いに、カミラは静かにうなずいた。
「毒見役の一人が、銀の盆をわたくしに渡す際、扇の粉を受け取って杯へ混ぜる手はずでした。わたくしは、盆を渡しただけでございます」
証言が終わるか終わらないかのうちに、ダリウスがヘレナの傍へ進んでいた。無造作に見えて、退路は近衛が塞いでいる。
「ヘレナ様。その扇をこちらへ」
ダリウスの声は低く、礼儀の形を保っている。ヘレナは閉じた扇を胸元へ置いたまま、目を細めた。
「近衛ごときが、わたくしの扇に何の権利が?」
「皇帝陛下の御名です」
その一言で、広間の温度が一段下がった。ヘレナは微笑もうとして、唇が歪む。扇をダリウスへ突き出す代わりに、音の出るほど骨を握り締めた。それでも近衛が両側へ迫ると、彼女はようやく扇を差し出した。
ダリウスは扇を検分台へ運び、ユリウスの合図で中骨を開く。宮廷薬師が青白い顔で駆け寄り、溝を照らす小灯を手渡される。象牙色の骨を光がなぞった途端、薬師の指先が止まった。
「これは……月下香の粉末です。杯の内側の膜と同じ、無味無臭の」
薬師は杯と扇骨を交互に確認し、声を潜めて続ける。
「乾いた膜と粉末は、まちがいなく同じ由来のもの。上級貴族だけが手にできる毒です」
広間がどよめく。ユリウスは左手の袖をたくし上げ、手首の内側をヘレナの目の高さへ差し出した。三年前の毒痕が、白い筋になって燈火を弾く。
「この痕を、朕は幼い頃から持っている。毒見を何度も仕組まれた名残だ。お前の家が朕へ授けた“加護”の一つだった」
ヘレナの喉が、笑いの形に持ち上がったまま固まる。
「思い出話は、後にしてはくださらないか。だいたい、その膜が毒だという証明すら、いまの検分だけで」
「充分だ。お前の扇が、可能な限り誰の目にも触れぬよう閉じ続けてきたすべてが、いま溝と談じ合っている」
ユリウスは手首を引き戻し、低く命じた。
「ヘレナ・フォン・シュタイン。戴冠を汚し、帝室の血統に毒をもって害意を示した。しばらく、塔の一室で己の行いと沈黙を数えろ。連れていけ」
近衛がヘレナを貴賓席から下ろす。彼女は一歩、自分で歩こうとして、裾が床へ重く絡んだ。それでも口元だけは笑っている。何かを叫ぶ代わりに、彼女は検分台の杯を一度だけ振り返り、唇を横へ引いた。
「せいぜい、その薄い膜に縋ることね。死んだ女は、それでは帰ってこないのよ」
エリアーヌが顔を上げた。ヘレナが言ったのは恐らく呪いの言葉ではなく、目の前の事実へ向けた悪意だった。けれどエリアーヌの耳には別の音に聞こえて、心臓が鷲掴みにされる。それでも口答えはしなかった。そちらを向く資格が自分にあるとは、この場では思えなかった。
ヘレナが柱の外へ消える。ダリウスがカミラを宮務府の者へ引き渡すのも、ほぼ同時だった。カミラは一度だけ肩を落とし、何かを言いたげにエリアーヌを見たが、護送の影へ隠れていった。
「戴冠を仕切り直す」
ユリウスが祭壇の脇で振り返る。
「できるな。お前は、もう動けるはずだ」
エリアーヌは自分の足元へ落ちる衣を見下ろした。世界規則では、儀が始まる前まで、皇后は指定位置から動けない。だが先ほどの介入で声を発してからも、彼女は崩れなかった。既に検分と中断という大きな流れの中で、式自体が一度仕切り直されている。
「ええ。おそばへ」
短い返事が、思いのほか強く出た。エリアーヌは青銀の裾をさばき、検分台の横を通って祭壇前へ進む。杯はもう、検分台に固定された物証だった。口をつけるべき毒杯は、いつの間にか彼女の前から消えている。それなのに唇の内側が痺れるのは、あの夜の記憶が臓器に残っているからだ。
「来い。その位置から足を踏み外すなとは、もう言わん」
ユリウスが片手を差し出す。エリアーヌは一瞬だけ、その左手首の痕へ目をやった。さっき公に晒したばかりの帝の傷が、祭壇の黒石の前に白く浮かぶ。
「……お手を、取ってもよろしいのでございますか」
「皇后が皇帝の手を取るのに、許可が要るものか」
彼の指が、エリアーヌの震える指を四本分だけ包む。冷えてはいなかった。熱を移すような温度でもなく、ただ確かな重みだけがあった。二人して帝冠の前へ歩み出る。居並ぶ貴族は声を呑んだ。
祭壇の奥で、黒い石の帝冠が沈黙していた。儀礼官が何か詠み上げるが、もう二人の耳には入らない。エリアーヌは手に力を込めた。その瞬間、胸の奥の加護が熱を灯し、ユリウスの指から同じ脈が流れ込む。
はっきり見えたのは、冠の真上に浮かんだ小さな星だった。最初は一つ。次に二つ。黒い石の中で光が生まれ、頂の金輪を幾条も走った。
「星文……!」
誰かが叫ぶと、貴族たちのざわめきが一瞬で静寂へ変わる。誰も扉を開け放っていた夜風のことさえ忘れて、ただ冠の星文を見た。帝室の加護と皇后の血統が共鳴した証を、武官も文官も、膝を折る音で迎えた。
その音を聞きながら、エリアーヌは目の前が滲むのに任せた。毒の苦しみで閉じた喉。二度目の朝に開かなかった心。全部、この場で息をしている。涙は頬を落ちて、青銀の襟を濃く染めた。ぬぐおうとも思わなかった。この温度だけが、確かに自分の生きた証のように思えた。
「……泣くな。帝冠の前で、皇后が泣くのは先例がない」
「先例は、これから作ればようございます」
声が笑うのに近づき、けれど涙は止まらなかった。ユリウスが一瞬だけ目を細め、彼女の手からわずかに力を緩める。それが拒絶ではなく、泣くための隙間だと気づくまで、エリアーヌは二度瞬きをした。
「これでお前は自由に笑える」
ユリウスの声は広間へではなく、エリアーヌの耳のすぐ上へ落ちてきた。
「朕の妻としてだけでなく、お前自身の朝を生きろ。毒の終わった朝を、な」
冠の星は消えない。深い黒石の中で、幾つもの光が列を保ったまま静かに輝き続けている。エリアーヌはユリウスを見上げた。涙はぬぐわない。けれど今度こそ、声が震えることを隠さずに応えた。
「ええ。私の朝を、私の足で」
それが戴冠式の最後の言葉だった。帝冠の星文は、二人の影を床へ長く刷り込むほど明るく、謁見の間の柱すべてに新しい朝を連れていた。