FeverStory

紙魚の栞、ふたたび

第2話 あなたの未来を開く栞

朝の光が商店街のアーケードを抜け、梟文堂のガラス戸を白く染める。まだ人通りのまばらな通りに、隣の乾物屋がシャッターを上げる金属音が響いていた。

開店から三十分。早季はカウンターに立ったまま、帳簿のページを戻したり進めたりしていた。数字はどれも昨日までと同じ。ただ、読む自分の目だけが違っていた。指でなぞる売上欄のインクが、妙にざらついて感じられる。

昨夜、地下倉庫で見つけた在庫リストの束がカウンターの隅にある。昭和五十年代の日付が入った台帳で、祖母の几帳面な筆跡がページの隅までぎっしりと並んでいた。インクの濃淡が季節によって異なり、冬場はわずかに掠れ、夏場は紙に食い込むような強い筆圧だった。一晩かけて分類し、付箋を貼り、慧に見せるべき箇所を決めた。あとは彼が来るのを待つだけだ。

カウンターに手をつき、ふと窓の外を見る。アーケードの向こう、青果店の相馬が朝の市場から戻ったばかりの軽トラックから段ボールを下ろしている。いつもの朝の風景。なのに胸の奥に、小さな錨が沈んでいるような重さがあった。

真鍮のベルが鳴る。午前十時ちょうどだった。ベルの余韻が静かな店内に染み込んで消えるまで、三秒とかからなかった。

「おはようございます」

慧の声は昨日と同じ温度。グレーのスリーピースも、左胸に差した銀のペンも変わらない。ただ今日は、右手に銀行支給のタブレット端末を持っている。指先がケースの縁を軽く叩く仕草は、昔、試験前に机を指で叩いていた癖そのままだった。

早季は軽く会釈し、カウンターの書類を差し出した。喉がわずかに乾いている。唾を飲み込む音が、自分にだけやけに大きく聞こえた。

「三年分の確定申告控えです。あと、こちらが今月の来客数と売上の集計」

慧はタブレットを脇に置き、書類を受け取る。指が紙をめくる速さは均一で、迷いがない。帳簿の数字を縦に追い、付箋のついた在庫台帳に目を走らせる。まつげが微動だにしないほどの集中ぶりだった。

「来客数、前年比で二割減ですね」 「はい」 「商店街全体の歩行者通行量も同じ傾向ですか」 「商工会の資料では三割減です」 「郊外の大型店の影響が、数字に出始めていますね」

慧は顔を上げずにうなずいた。タブレットに数値を打ち込む音が、カウンターに低く響く。指先の動きは正確で、無駄な一打がなかった。

「雨漏りの補修履歴は」 「三年前の台風以降、応急処置のみです」 「応急、ですか」

昨日と同じ言葉。昨日と同じ、査定官としての冷たい響き。なのに今朝は、その「応急」という二文字のあとに、ほんのわずかな間があった。

「躯体部分の状態も確認したい。壁の内部と基礎のクラックを実見する必要があります」

慧はタブレットを閉じ、顔を上げた。その目は早季ではなく、店内の奥へと向けられている。視線の先には、祖母がかつて「この棚が店の背骨だ」と呼んでいた日本文学の書架がある。

「ご案内します」

早季はカウンターから出た。床に落ちる自分の足音だけが、やけに大きく耳に届く。百坪に満たない店内が、今日はやけに広く感じられた。

書架の間を進む。通路が狭まると、背後から慧の気配が近づいた。ウールのスーツに染みついた清潔な匂いが、古い紙と木の香りに混ざる。高校の夏、図書室で隣り合って座ったときと同じ、ほんのりとした体温の気配。それが九年分の時間を飛び越えて、背中に触れるか触れないかの距離にあった。

「この壁です。台風で傷んだのは」

早季が振り返ったときだった。

本棚の隙間から差し込む午前の光が、慧の左手を正確に照らしていた。小指の付け根。盛り上がった皮膚の質感。火傷の痕だ。光の粒子が傷跡の凹凸をなぞり、影を刻んでいる。

息を呑む。高校二年の冬、化学室でアルコールランプを倒した自分を、慧が左手でかばった。青い炎が一瞬で手を舐め、焦げた匂いが立ちこめたあの日。彼は右手で左手を押さえながら、真っ先に「早季、やけどしてないか」と訊ねた。痛みに顔を歪めながらも、声は驚くほど穏やかだった。

九年経ってなお、その痕はここにある。

慧の指先が微かに動いた。視線の重みに気づいたのだろう。左手がゆっくりとスーツのポケットに滑り込む。仕草は自然で、しかしあまりに素早すぎた。まるで傷を隠すことが、長年の習慣になったかのように。

早季は何も言えなかった。喉の奥に言葉が張りついて、音にならない。「ごめん」も「ありがとう」も、九年分の重さで喉に詰まっている。代わりに右手の薬指を親指でなぞる。銀の指輪の冷たさが、今はやけに重い。祖母の言葉が蘇る。『あんたが自分で選ぶまで、繋ぎとして持ってなさい』——あれから三年、まだ自分で選べていない。

慧は壁から視線を外さない。左手をポケットに収めたまま、右手で壁面を軽く叩いた。コン、コン、と乾いた音が二度。その音にもまた、ビジネスライクな無機質さがあった。

「次は地下の在庫を見せてください」

九年前の面影を消し去った声だった。それでも、最後の「ください」の語尾がわずかに掠れたのを、早季は聞き逃さなかった。

早季はうなずき、歩き出す。右手の親指が、指輪を隠すように薬指の根元を押さえたままだ。足元のフローリングが、古い木特有の小さな軋みをあげる。

九年前の熱は、もう欠片も残っていなかった。残っているのは傷跡だけで、それすらもスーツのポケットの奥に隠されてしまっている。

指先に感じる銀の感触だけが現実で、早季は階段を降りる慧の背中を、ただ見送ることしかできなかった。背筋の伸びた美しい立ち姿。あの頃より肩幅が少し広くなり、スーツの肩のラインが大人の男のものになっている。午前十一時を少し回ったばかりの空気は、それでももう夏の予感をはらんでいた。

まだ耳の奥に、あの業務的な口調が残っている。慧が地下へ降りてから十分ほど経ったろうか——カウンターに突っ立ったまま、右手の指輪を親指でなぞっていた。指輪の表面に、自分の指紋の凹凸が触れては離れる。

ガラス戸の向こう、商店街の陽射しが石畳を白く焼いている。午前の凪いだ時間帯だ。遠くで自転車のベルの音が二度、三度。

戸が押し開かれた。軽いアルミ枠の音とともに、紙袋を提げた相馬が顔を出す。入り口の敷居を跨ぐときの、あの馴染みのある靴音。

「よお。生きてるか」

相馬一馬。商店街の青果店「相馬青果」の三代目で、小学校からの腐れ縁だ。シャツの袖をまくった腕には、朝の市場でついたらしい段ボールの擦り傷がある。少し赤みを帯びた擦過傷が、彼の商売の忙しさを物語っていた。 「生きてる、けど」 「はい、これ。親父が届けろって。新高梨」

受け取った袋はずしりと重い。梨の清冽な甘い匂いが、紙袋ごしにふわりと抜けた。まだ冷蔵庫の冷たさをわずかに残している。

「銀行、来てるんだろ。黒いスーツの男が店の前で煙草吸ってるの、朝に見かけた」 「煙草?」 「あれ、慧だろ? 高校んときは吸ってなかったよな」 「……ストレスでもあるのかも」 「銀行員も楽じゃねえんだな」

早季は答えずに袋をカウンターに置いた。相馬は店の奥へ目を走らせる。地下へ続く廊下には人の気配がなく、換気扇の低い唸りだけが聞こえている。天井近くの埃が、陽射しの中でゆっくりと舞っていた。

「烏丸って、慧だろ。高校んときの」 「……そう」 「銀行員になってたんだな。あいつがこの町を出る前、お前えらい落ち込んでたから——」

そこまで言って、相馬は口をつぐんだ。早季の表情が、紙袋を持つ指に一瞬力が入ったのを見逃さなかったのだろう。

「悪い。出過ぎた」 「いい」

早季は首を振る。相馬の視線が右手の指輪に一瞬触れ、すぐに逸れた。彼は何か言いたげに唇を動かしかけたが、結局は小さく息を吐くだけだった。

「なんかあったら言えよ。俺にできることなら。つっても、梨届けるくらいしかできねえけど」 「大丈夫です。いつもありがとう」 「……そうか」

相馬は後ろ頭をかく。それ以上踏み込めないもどかしさが、日焼けした首筋に浮かんでいた。昔から彼はそうだ。踏み込みすぎないことを、優しさとして選べる男だった。彼はもう一度だけ店の奥を見やってから、「じゃあな」と短く言い残し、来たときと同じ軽い動作で戸を引いた。

パタン、という軽い音とともに、相馬の足音が隣の青果店へと遠ざかっていく。

店に静けさが戻る。梨の甘い匂いだけが、相馬の気遣いの温さをそのまま残していった。早季は袋の口を少し開け、梨の形を指先でそっとなぞる。祖母が好きだった果物だ。

地下へ降りる階段を、もう迷ったりはしなかった。一度踏みしめるごとに、決心が固まっていく感覚があった。

木の段が一段ごとに軋み、冷気が濃くなる。黴と紙と埃——九年分の沈黙の匂いだ。壁の漆喰がひび割れている箇所を、指の腹で無意識に確かめながら降りる。ひび割れは思っていたより深く、漆喰の粉が指先にわずかについた。応急処置ではどうにもならないものがある。建物も、人の心も。

倉庫の蛍光灯はすでに点いていた。慧がつけたのだろう。白く硬い光が、積み上がった文庫本や美術書の背表紙を無機質に照らし出している。その光の下では、本たちでさえもが単なる「在庫」という記号に変わってしまうようだった。

慧は奥の棚に向かい、手にした在庫台帳と書架を見比べていた。スーツの背中が、蛍光灯の下で異物のように浮かび上がっている。曲がった背表紙をときおり直しながら、何かを確認している。

「在庫の回転率ですが」

振り返りもせずに声が飛んできた。地下の壁が声を吸わずに跳ね返す。反響した声はわずかに金属的な響きを帯びていた。

「五年以上動いていないタイトルが全体の四割を超えています。これでは不良在庫と見なされます」

早季は棚の影から近づく。慧の左手が台帳をめくるたび、小指の火傷の痕が光の加減で浮かんでは消えた。蛍光灯のちらつきに合わせて、傷跡の影が濃くなったり薄くなったりする。あの日、アルコールランプの青い炎を素手で払いのけた手だ。九年経っても、まだそこにある。皮膚の再生は終わっても、記憶の再生は終わらない。

「在庫はすべて祖母が選んだものです」 「選んだ理由と、市場価値は別です」

振り返った慧の視線が、一瞬だけ早季の右手をかすめた。指輪を見たのか、それとも——。

そのときだった。

慧が身動きした拍子に、スーツの内ポケットから何かが滑り出た。古い文庫本。焦げ茶色に焼けた背が、蛍光灯の光を鈍く反射する。背表紙の文字は擦り切れて、ほとんど読めない。慧は瞬時に右手でそれを押さえ込み、胸元に押し込む。動作そのものは素早かったが、指の動きに迷いがあった。本の端が一瞬でスーツの襟元に吸い込まれていく。

早季の視線に気づいた慧の目が、ほんの半呼吸だけ揺れる。黒い瞳の奥で、何かがかすかに動いた。だがすぐに無表情に戻り、何事もなかったように台帳へ視線を落とした。

「不良在庫の比率を改善しないかぎり、担保評価は厳しくなります」

その声に、さっきまでの微かな揺らぎはもう残っていなかった。早季は何か言おうとして、しかし言葉を選べずに口を閉じる。文庫本を押し込んだ慧の左手が、また小指の傷を隠すように折りたたまれているのを見てしまったからだ。守るように、隠すように、折り曲げられた指。

互いに触れられない過去が、二人のあいだに冷たい距離を置く。それは腕一本ぶんより、もっと遠い。地下の温度そのもののように、しんしんと冷えた距離だった。

「……本日の査定は以上です」

慧は台帳を閉じた。表紙が合わさるとき、小さく空気を打つ音がした。その動きに、巻き戻せない時間の重さがあった。

「次回は明後日、午前十時に。それまでに地下在庫の大まかな仕分けをお願いします」 「わかりました」

地下を出るとき、慧は一度も振り返らなかった。階段を上る革靴の音が、規則正しいリズムで遠ざかっていく。一段ごとに音が小さくなり、やがて店舗の階で真鍮のベルが鳴るのが聞こえた。

店舗に戻ると、午後の陽射しが棚の背表紙をあたたかく染めていた。差し込む光の角度が朝よりも傾き、店内に長い影を落としている。壁時計は二時を少し回っている。秒針の音だけが、やけに大きく店内に響いていた。

早季はカウンターに手をついて立ち尽くした。さっきまで慧が立っていた空間を、まだ空気が覚えている気がする。スーツの匂いも、革靴が床を踏んだときの微かな振動も、まだこの場に残っているようだった。

スーツの内ポケット、あの古い文庫本。慌てて押し込む仕草、それから一瞬見せた動揺。ただの読みかけではない。慧があのとき隠そうとしたのは、本そのものではなく、本にまつわる何かだ。そしてあの焦げ茶色の背表紙。どこかで見たことがあるような、ないような。記憶の底で、小さな鈴がかすかに震えている。

右手の指輪が光を拾う。祖母から贈られた銀の輪。三年前、「あんたが自分で選ぶまで、繋ぎとして持ってなさい」と、穏やかな笑顔で渡された。しわの刻まれた手が、早季の指にそっと輪を通したときの感触をまだ覚えている。慧はきっとこれに気づいていた。気づいて、何も言わなかった。あの一瞬の視線の動き——間違いなくこの指輪を見ていた。

早季は棚へ歩み寄り、文庫本の背表紙を指でなぞる。祖母が選び、祖母が並べた本たち。その一冊ごとに、祖母の判断と想いがあった。背表紙の凹凸を指先がたどっていく。慧に渡したという本も、もしかしたらこの棚のどこかにあった本なのかもしれない。あの焦げ茶色の文庫本も、かつてはこの棚に並んでいた一冊だったのではないか。

祖母が託した何か。慧が隠している何か。

同じ店のなかにありながら、それはまだかたちを持たず、ただ静かに息をひそめている。明日までの課題は在庫の仕分けだけじゃない——そう感じると同時に、確信には至れないもどかしさが胸の奥で澱んだ。何かが動き始めている。でもその正体を掴もうとすると、指の間をすり抜けてしまう。

夜。

店を閉め、奥の居住スペースへ戻ったが、どうしても眠れなかった。布団の中で何度寝返りを打っても、頭の芯にあの文庫本がこびりついている。背表紙の焦げ茶色、慧の指が押し込むときの迷い、そして隠されたままの本の正体。天井の木目を見つめながら、祖母が生前に話していたことを必死に思い出そうとする。慧に本を渡したことがあるのか、何かの折に聞いたことはなかったか。しかし記憶は曖昧で、祖母の声の記憶だけが繰り返し蘇るばかりだった。

午前零時を過ぎ、家々の灯りがすべて消えた頃、早季は再び地下への階段を降りていた。階段のスイッチには触れず、手にした懐中電灯の円が、狭い階段を輪切りに照らし出す。光の円が段ごとに落ち、影が歪んで踊った。

地下倉庫の空気は昼間よりも冷たく、黴の匂いが一層濃い。ひんやりとした空気が裸足の足首を舐める。蛍光灯は点けず、懐中電灯だけを頼りに慧が査定していた奥の棚へ向かう。棚の列が闇の中に浮かび上がり、昼間とはまるで違う顔を見せている。

光の円が床を這う。ほこりの積もった床板が、かすかにきしむ。

棚の手前で足が止まった。

床に一枚、紙片が落ちている。昼間はなかったはずだ。慧が落としたのか、それとも——。

懐中電灯を近づけると、それは古い栞だった。縁がほつれ、色褪せているが、文様ははっきりと残っている。桔梗と梟をあしらった和更紗の柄——祖母が長年愛用していた、あのデザインの栞だ。紫の桔梗の花びらが、年月を経てもなお鮮やかに、闇の中で浮かび上がっている。

指で拾い上げる。紙の感触が、かさりと静寂をかすめた。栞はひどく軽く、それでいて祖母の存在の重みを確かに伝えてくる。

裏返すと、祖母の筆跡で走り書きがある。墨ではない。鉛筆だ。急いで書いたような、それでいて確かな意志を感じさせる文字の傾き。

「あなたが本当に望む未来を開く鍵」

懐中電灯の光のなかで、その文字だけがやけにくっきりと浮かんで見えた。ほつれた縁が息をしているかのように、暗がりの中でひらりと揺れる。早季はしばらくその場にしゃがみ込み、栞を両手で包み込むように持ちながら、祖母がこの言葉に込めた意味を考えていた。地下の沈黙が、耳鳴りのように深く静かだった。

紙魚の栞、ふたたび第2話 あなたの未来を開く栞