FeverStory

紙魚の栞、ふたたび

第4話 あなたのための本

秋の商店街アーケードには、年に一度の古本市の熱気が満ちていた。

天井の高いアーケードを覆う透明な屋根から、柔らかな午前の日差しが斜めに降り注ぎ、通路いっぱいに並べられた平台や書棚を黄金色に染めている。空き店舗を借り切った会場には、町中の古本好きが集まっていた。段ボール箱から溢れた文庫本、平台に並べられた画集、天井まで届く書棚にびっしりと差し込まれた全集もの。紙とインクと、かすかな黴のにおいが混ざり合い、午前の光の中でゆっくりと漂っていた。誰かのくぐもった話し声、ページをめくる乾いた音、紙袋が擦れるざらついた音。それらすべてが、一つの大きな本の海のような空間を作り出している。

早季は会場の入り口で足を止め、ぐるりと見回した。

祖母が毎年楽しみにしていた市。毎年十一月の第一土曜日、祖母は朝一番で家を出て、夕方までこの会場にいた。両腕に抱えきれないほどの紙袋を提げて、子どものように目を輝かせて帰ってくる。その姿を、早季は幼い頃からずっと見てきた。今年は自分が、その役目を引き継ぐつもりでここに来た。けれど頭の隅にあるのは、出店者の顔ぶれでも、掘り出し物の目星でもない。一冊の絵本。九年前の貸出カードに残された、『星の王子と月の舟』というタイトル。白いカードに残る、青いインクの署名。烏丸慧。その文字が、九年前の夏からずっと、早季の胸の奥に引っかかっている。

それを探すために、早季は一歩を踏み出した。

平台をひとつずつ確認しながら、奥へと進む。平台の脚が古い木製で、歩くたびに微かに軋む音がした。文芸書の棚には背表紙の色褪せた純文学が並び、隣の平台には写真集や美術書が無造作に積まれている。早季の目はそれらを素通りし、ただ児童書のコーナーを目指していた。児童書のコーナーは会場の一番奥、かつて乾物屋だった区画に設けられていた。今はもう使われることのない古い冷蔵ショーケースが壁際に残されていて、その上にも絵本が何冊か無造作に置かれている。絵本が平積みにされた台の前で、早季は立ち止まる。背表紙を指でなぞり、一冊ずつ引き抜いては戻す。紙の肌触りは一冊ずつ違う。つるりとした光沢のあるもの、ざらりと手に吸い付くようなもの。『ぐりとぐら』、『おしいれのぼうけん』、『はらぺこあおむし』——どれも見覚えのある表紙ばかりで、探している本は見つからない。早季の指先が、かすかな焦りを帯びて速くなっていく。祖母が話していた、星の描かれた表紙。銀色の舟。そのイメージだけが頭の中で明確に浮かんでいるのに、現実の棚にはそれがなかった。

顔を上げたとき、視界の端に濃紺のスーツが映った。

慧だった。

書棚の前に立ち、一冊の本を手に取っている。周囲の人間はカジュアルな服装ばかりで、濃紺のスーツ姿は異様なほどに浮いていた。まるで別の世界から切り取られて、ここに貼り付けられたみたいに。背表紙はこちらから見えない。けれど、その大きさと厚みは絵本のそれだった。ページを開く指先が、かすかに震えている——ように見えた。いや、実際に震えていた。早季の目はそれを確かに捉えた。いつもポーカーフェイスのあの人が、今、この瞬間だけは違う。何かに心を動かされている。

「……烏丸さん」

声をかけると、慧の肩が小さく跳ねた。彼は本を閉じ、元の棚に戻す。その動作は素早く、けれど乱暴ではなかった。大切なものを、そっと隠すような手つき。ページを閉じるとき、一瞬だけ表紙が光の加減で見えた気がした。青と銀。星のきらめき。

「小宮山さん」

振り返った慧の顔には、いつもの無表情が貼りついていた。しかし目の奥に、まだ消え切っていない動揺の残り火がちらついている。それを隠すように、左手はスーツのポケットに差し込まれたままだ。子どもの頃からずっとそうだった。何かを隠したいとき、慧は必ず左手をポケットに入れる。火傷の痕がある左手を。

「査定の進捗は順調です。仮評価の通知が、近日中に届くと思います」

「……そうですか」

早季は短く答えた。声が自分でも驚くほど平坦で、感情をどこかに置き忘れてきたみたいだった。視線は慧の背後、彼が本を戻した棚に向いている。どの本を手に取っていたのか。なぜあんなに動揺していたのか。その答えが、あの棚の中にある。早季は確信していた。

「古本市の視察ですか」

「ええ。商店街の現況把握の一環です」

慧は一歩、棚から離れた。早季との距離を取るように、半身をずらす。その動きに、早季の胸の奥がちくりと痛む。九年前と同じだ。慧はいつも半身で、こちらと向き合おうとしない。真正面から何かを伝えようとしない。

「では、私はこれで」

「あの」

呼び止めた声に、慧の足が止まる。

「……絵本を、お探しですか」

慧は振り返らなかった。背中を向けたまま、数秒の沈黙。その沈黙が、何よりの答えだった。背中の線が、スーツの上からでもわかるほど強張っている。肩甲骨のあたりが、呼吸に合わせて微かに上下する。

「いいえ」

それだけを残し、人混みの中へと消えていった。

早季は深く息を吐く。心臓が早鐘を打っている。指先が冷たい。体の表面だけが冷え切って、内側だけが熱を持っているような、妙な感覚だった。

慧が手に取った絵本。あれは間違いなく、個人的な意味を持つ一冊だ。でなければ、あんなふうに取り繕う必要はない。でなければ、声をかけた瞬間にあそこまで動揺しない。銀行員としての烏丸慧ではなく、九年前の、あの夏の日の少年の顔が、一瞬だけ垣間見えた。

彼が姿を消したのを確認してから、早季は棚に近づいた。慧が本を戻したあたりに手を伸ばす。背表紙をひとつひとつ指でなぞり、彼が触れたであろう一冊を探す。指先が、ある本の背で止まった。他の本よりわずかに温かい。さっきまで誰かの手の中にあった本は、紙がほんの少しだけ体温を吸っている。

表紙に描かれた星の海。銀色の小さな舟。夜空を見上げる、ひとりの少年。

『星の王子と月の舟』。

早季は息を呑んだ。空気が肺の中で固まって、しばらく吐き出せなかった。

本を棚から抜き取り、裏表紙を開く。貸出ポケットには、九年前の日付。そして——烏丸慧の署名。青いインクで書かれたその文字は、小学生のものとは思えないほど几帳面で、一画一画が丁寧に刻まれている。でも「烏」の字の最後の一画だけが、かすかに震えていた。あの日、この本を借りたとき、慧は何を思っていたのか。そして今日、彼はもう一度それを手に取った。九年前に返せなかった本を、九年越しにもう一度。

表紙をそっと撫でる。紙は黄ばみ、角は擦り切れている。でも破れや汚れはなく、丁寧に扱われてきたことがわかる。ページをめくってみたが、栞も書き込みも見当たらなかった。でも、ページの端々に、何度もめくられた跡があった。繰り返し読まれた本特有の、紙の柔らかさ。それはつまり、彼が何度も何度もこの本を開いたという証拠だった。

早季は絵本を胸に抱え、会場の出口へと向かう。受付で代金を支払う指先が、かすかに震えていた。五百円玉を財布から取り出すのに、なぜかやけに手間取った。硬貨が指の間から滑り落ちそうになって、慌てて握り直す。店主らしき初老の男性が、不思議そうな顔で早季を見ていた。

店に戻ると、午後の陽射しが窓から斜めに差し込んでいた。空気の中に細かな埃が舞っていて、光の筋が何本も見える。いつもと同じ、古書店の午後。でも何かが違う。何かが決定的に変わろうとしている。

カウンターに絵本を置き、早季は椅子に腰を下ろす。表紙の星を指でなぞり、裏表紙の貸出カードを何度も見返した。九年前の日付。慧の署名。返却されなかった理由は、まだわからない。けれどこれは確かに、祖母が「償い」と呼んだものの一部だ。病室で祖母が繰り返したあの言葉。何に対しての償いなのか、最後まで教えてはくれなかった。でも、この本が、その答えの一つだと、なぜかわかる。

玄関のベルが鳴った。

顔を上げると、郵便配達員が封筒を差し出している。差出人は銀行。仮評価通知。この数週間ずっと待っていた封筒。なのに今、それが届いたことよりも、さっきまで慧がこの街にいたことのほうが、早季には大きな出来事に思えた。

封を切る手が、嫌に落ち着いている。自分でも不思議だった。中身を取り出し、一文字ずつ目で追う。担保価値の不足。不良在庫比率の超過。閉店を推奨するという結論。文字は印刷された無機質なゴシック体で、でもその一文字一文字が重い石みたいに胸に落ちていく。

紙を折り畳み、カウンターに置く。指先に力を込め、もう一度、絵本の表紙に触れた。つるりとした表面の下に、慧の指の痕跡がまだ残っている気がした。あるいはそれは、ただの思い込みかもしれない。でも今の早季には、それが真実だった。

もうベルの鳴る音。

今度は、相馬一馬がドアを開けて立っていた。青果店のエプロンを外したまま、息を切らせている。肩が上下に動き、額にはうっすら汗が滲んでいた。商店街を走ってきたのだとすぐにわかった。

「早季ちゃん、聞いたか」

「……何を」

「烏丸さん、銀行に辞表を出したそうだ」

相馬の声は、商店街の噂話特有の早口で、けれど真剣だった。いつもの軽口とは違う、地に足のついた声色だった。

「本部のほうから話が来てな。俺んとこの取引先の銀行員が教えてくれたんだ。昨日の夕方、直接持参したらしい」

早季はカウンターの通知書に目を落とした。

慧が辞職願を提出した。銀行員としての立場を捨てようとしている。仮評価通知の内容がこの店に届くのと、ほぼ同じタイミングで。偶然のはずがない。そんな都合のいい偶然が、この世界にあるはずがない。

「……なぜ」

「さあな。でも、考えられることはひとつだろ」

相馬は腕を組み、天井を見上げた。古い梁が何本も渡った天井を、じっと見つめている。

「あの男、自分の査定で店を潰せないから、審査から降りようとしてるんだよ」

早季は黙って絵本を見つめた。表紙の星が、午後の光の中で静かに輝いている。銀色の舟に乗った少年は、ひとりきりで夜空を見上げていた。

慧の自己犠牲。九年前と、何も変わっていない。自分の身を切って、相手を守ろうとする。言葉にせず、理由も語らず、ただ去ろうとする。九年前もそうだった。何も言わずに町を出て、それから一度も連絡をよこさなかった。そして今、また同じことを繰り返そうとしている。

「……早季ちゃん」

相馬の声が、いつもより低い。その低さが、事の重大さを物語っていた。

「どうするんだ」

早季は絵本を手に取った。表紙の星が、午後の光を受けて銀色に輝いている。胸に抱え、立ち上がる。足の裏が床を踏みしめる感覚が、やけにはっきりと意識に上った。

「……呼びます」

「えっ」

「地下倉庫に。話を」

言葉は短く、けれど声は揺れなかった。右手の薬指で、銀の指輪をなぞる。冷たい感触が、祖母の手の温もりを思い出させる。祖母が愛用していたこの指輪は、簡素な銀の環で、装飾は何もない。でも長年の使用で表面が滑らかに磨かれていて、その滑らかさが、かえって祖母の存在を近く感じさせた。

相馬は一瞬、口を開きかけて——すぐに閉じた。小さくうなずき、ドアに手をかける。何か言いたげな目をしていたが、言葉にはしなかった。それが相馬の優しさだと、早季は知っている。

「わかった。俺は店、見とくから」

早季はカウンターから携帯を取り出した。地下では電波が届かない。店舗で連絡を取らなければ。携帯の画面が小さく光り、慧の名前を探す。登録された番号は、何年も前に交換したまま一度も使われなかったものだ。でも消せなかった。消す理由も、かける勇気もなくて、ただ携帯の中に居続けた番号。

画面をタップし、慧の番号を呼び出す。通話ボタンを押す指が、今度こそ震えていた。震えを止めようと力を込めると、かえって指が強張って、うまく動かない。

コール音が、三回。四回。

五回目で、通話がつながった。

「……烏丸さん」

受話器の向こうで、息を呑む気配。かすかな衣擦れの音。たぶんスーツの袖が受話器に触れたのだろう。そして沈黙。その沈黙の質が、拒絶ではなく、覚悟に似ている気がした。

「今から、梟文堂に来てください。地下倉庫で、待っています」

返事を待たず、通話を切った。切ったあとの携帯が重くて、カウンターに置くとき、ごとりと硬い音がした。

早季は絵本を抱えたまま、地下へと続く階段に向かう。一段一段、確かめるように降りていく。光は薄れ、空気は冷たくなる。階段の壁には、祖母が貼ったのであろう古いポスターが何枚も貼られたままで、色褪せた紙の端がそりかえっている。携帯の電波は、もう届かない。階段を下りきり、地下倉庫の扉の前に立つ。鉄製の重い扉。ペンキが剥げかけた取っ手。子どもの頃は重すぎて開けられなかったこの扉を、今は一人で開けられる。でも、その事実がなぜか少しだけ寂しかった。

右手の薬指で、もう一度、銀の指輪をなぞった。

地下倉庫に降りてから、どれくらい経っただろう。階段の上からはもう相馬の気配も消え、店舗の物音も届かない。耳を澄ませば、どこか遠くで水道管が唸る低い音が聞こえるだけだ。早季は腕の中の絵本を抱え直し、背表紙の角が胸に食い込むのを感じながら、暗がりに耳を澄ませていた。古書の匂いが地上よりずっと濃くて、でもそれは嫌な匂いじゃなかった。祖母の匂い。幼い頃からずっと、この店を満たしていた匂い。

やがて、階段を踏みしめる革靴の音が、ゆっくりと近づいてくる。

夕刻の光が地下倉庫の小さな窓から斜めに差し込んでいる。地上すれすれの位置にあるその窓からは、歩道を歩く人々の足元だけが見えた。革靴、スニーカー、パンプス。誰もここに地下があることなんて知らずに、それぞれの夕方を歩いている。階段を降りる靴音が一つ、止まった。

慧は最後の一段に立ったまま、動かない。蛍光灯の白い光を背に受けていて、表情は影になって見えない。でも、その立ち姿だけでわかることがあった。銀行員としてではなく、九年前と同じ、あの夏の日の少年として、彼は今ここに立っている。

早季は棚の前に立っていた。手に絵本、祖母の手紙、仮評価通知。三つを胸の前で抱え、慧を見上げる。蛍光灯が微かに点滅し、二人の輪郭を棚の影に溶かした。その不安定な光の中で、一瞬だけ慧の表情が見えた。何かを覚悟した顔。でも、まだ何かを怖がっている顔でもあった。

「これを」

早季が仮評価通知を差し出す。紙の端がわずかに震えている。

慧は受け取ろうと手を伸ばしかけ、途中で止めた。右手が宙に浮いて、指先が小さく曲がる。視線が通知から早季の顔へ移る。その目は、書類の中身よりも、それを読んだ早季の気持ちを推し量ろうとしているようだった。

「……読んだのか」

「読んだ」

「これについては、まだ説明の機会を——」

「いらない」

早季の声が地下に響いた。いつもより低く、芯のある声だった。自分でも驚くほど力強い声で、長い間ずっと喉の奥に詰まっていた言葉が、ようやく出口を見つけたみたいにすっと出てきた。

慧の眉が動く。何かを言いかけた口が、音を出す前に閉じられる。唇が一度引き結ばれて、それからほんの少しだけ開いた。でも言葉は出てこない。

「私は、あんたの説明なんて聞きたいわけじゃない」

早季は一歩踏み出した。床のコンクリートを踏む足音が、地下に短く響く。右手の指輪が蛍光灯の光を受けて、銀色に光る。祖母の形見。あの病室で、最後まで外せなかった指輪。祖母の手はやせ細っていて、指輪はもう指からすり抜けてしまいそうだったのに、それでも外さなかった。その理由を、今なら少しだけわかる気がする。

「知ってる」

言葉が空気を変えた。敬語の膜が、ぱりんと剥がれる感触。それはガラスが割れる音よりも静かで、でもずっと決定的な音だった。

「全部。あんたが私を守るために町を出たことも」

慧の喉が動く。喉仏が上下して、何かを飲み込むように動く。左手がスーツのポケットの中で小さく震える——同じ火傷痕を持つ指が。早季の左腕にも残る、あの火事の痕。同じ痛みを、同じ日に負った二人。でも慧は、その痛みの上にさらに別の痛みを重ねて、一人で町を出ていった。

「祖母が何をあんたに託したのかも。あんたが今、何を抱えてるのかも」

早季は仮評価通知を棚に置いた。紙が古い木の棚板に触れて、かさりと小さな音を立てる。絵本を、その隣に置く。表紙の星が、蛍光灯の下でもまだ微かに輝いているように見えた。祖母の手紙だけが手に残った。封筒の中で折り畳まれた便箋の感触が、指を通して伝わってくる。

「九年だ」

声がかすれる。感情というより、時間そのものの重さがこもった音だった。九年という歳月が、肺の奥で固まって、声を震わせる。

「あんたが黙って出ていってから。私がここで、毎日店を開けて閉めて。祖母が死んで。それでも——」

早季はそこで言葉を切り、手紙を押しつぶさないよう指の力を緩めた。力を入れすぎて白くなった指先に、ゆっくりと血の色が戻っていく。

「それでも私は、あんたに敬語で話すしかなかった。昨日も、一昨日も。ここで向かい合ってるのに」

慧が何か言おうとして、言葉にならない息だけを吐いた。それは言葉の形を取ることを諦めた、ただの空気の塊だった。スーツの肩が、わずかに落ちる。いつも完璧に整えられた姿勢が、今だけは崩れていた。

「もうやめる」

早季は顔を上げた。切れ長の濃褐色の目が、まっすぐ慧を捉える。伏せ目がちだった瞳が、今は正面から彼を見ている。もう隠さない。もう目を逸らさない。その決意が、視線の強さになった。

「敬語も。遠慮も。何も知らないふりも。全部終わりだ」

地下倉庫の沈黙が、二人を包んだ。違う沈黙だった。以前のような、隠し事を押し込めた重さではない。もっと透明で、危うい静けさ。すべての偽りが取り払われたあとにだけ訪れる、張り詰めたような静寂。蛍光灯の微かな唸りだけが、その沈黙の上に薄く張り付いていた。

慧の右手が、ゆっくりとスーツの内ポケットに伸びる。

辞職願の控え——かと思った。

だが、慧が取り出したのは別のものだった。黄ばんだ文庫本。背表紙の色が褪せ、角が擦り切れた一冊の古い本。装丁は簡素で、タイトルは背表紙からでは読み取れないほど色褪せている。でも早季には、それが何かすぐにわかった。祖母がいつもカウンターの隅に置いていた本。何度も読み返しては、栞を挟んで棚に戻していた本。

慧の手が震えている。左手はまだポケットに隠したまま、右手だけでその本を差し出した。指の一本一本に力が入っていて、本を落とすまいと必死に握りしめているのがわかる。

「……節子さんから、預かっていた」

声は掠れ、銀行員のそれではなかった。九年前の少年の声でもない。その中間にある、大人になりきれなかった誰かの声。午前の電話の声とも、古本市での声とも違う。それらすべてを剥がした先にある、素の声だった。

「お前に、いつか渡せと」

早季は手紙を胸に抱えたまま、文庫本を受け取った。指先が触れる。慧の手は冷たかった。九年分の冷たさが、そこに籠もっているようだった。でもその冷たさの奥に、かすかな温かさも感じた。体温が完全に消え失せるには、九年という時間はまだ少しだけ足りないのかもしれない。

右手の薬指で、銀の指輪をそっと押さえる。

祖母が病室で何度もこれを外しては眺めていた理由が、今はわかる。手放せないものがあると、人は無意識に触れる。指輪に。本に。記憶に。そうやって人は、失くしたくないものを確かめ続ける。たとえそれが、もう手の届かないものであっても。

「祖母は」

早季の声が、今度は静かに響いた。さっきまでの強い声ではなく、もっと柔らかい、でも芯のある声。問いかける声。

「あんたに、何て」

「……償いだと」

慧の声が途切れる。肩が落ち、うつむいた顔に蛍光灯の光が濃い影を作る。その影が、彼の頬の線をより鋭く見せていた。もうずいぶん痩せたのかもしれない。九年前より、もっと何かを抱え込むように。

「俺がここを離れるとき、最後にこれをくれた。お前には、言わないでくれと」

早季は文庫本を胸に抱えた。手紙と一緒に、両腕で抱きしめるように。紙の冷たさが、逆説的に祖母の手の温もりを思い出させる。あの皺深い手が、最後にこの本を慧に渡した瞬間が、目に浮かぶようだった。病室の窓から差し込む午後の光。祖母の細くなった指。慧の震える手。そのすべてが、ついさっきのことのように鮮明に蘇る。

「もう一人で決めないで」

早季の声が、地下倉庫の空気を震わせた。その声は泣いているわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ、まっすぐで、揺るぎない願いだった。

「これからは、一緒に決める」

慧の顔が上がる。その目に、初めて感情の色が滲んだ。銀行員の仮面が、音もなく剥がれ落ちていく。それは割れるのではなく、溶けるように消えていった。何年も何年もかけて固めてきた鎧が、たった一言でほどけていく。

慧は何も言わなかった。ただ、二度、うなずいた。

一度目のうなずきで、一筋の涙がスーツの襟に落ちた。濃紺の生地が、涙を吸ってより濃く染まる。二度目は、もっとゆっくりだった。まるで、九年分の沈黙を一つひとつほどくように、深く、長く。そのうなずきには、謝罪と感謝と、そして言葉にできない何かが、すべて詰まっているようだった。

地下倉庫の空気が、少しだけ柔らかくなった。

本の匂いと黴の匂い、そして微かに灯油ストーブの残り香。古い紙がゆっくりと朽ちていく匂い。そのすべてが二人を隔てる壁ではなく、共に呼吸する空気になる——そんな感覚が、早季の胸に広がっていた。ここは祖母の場所で、そして今は、二人の場所でもある。

早季は文庫本を開いた。

表紙をめくると、祖母の文字がそこにあった。細くて震えているのに、不思議と力強い文字。黒のインクではなく、鉛筆で書かれていた。何度も書き直したのか、かすかに消しゴムの痕が残っている。そこには一冊の本のタイトルと、住所のようなものが記されていた。そして短い、たった二行の言葉。

「慧さんへ。これは、あなたのための本です」

早季はそれを声に出して読んだ。そして顔を上げ、慧を見る。

「——一緒に探しに行くよ」

慧はもう何も隠さなかった。顔を上げ、まっすぐに早季を見つめ返す。まだ目のふちは赤く濡れていたけれど、その奥にある光は確かなものだった。唇が開きかけて、今度こそ言葉が出てくる。それは短い、でも何よりも重みのある一言だった。

「……ああ」

この地下倉庫から、すべてがもう一度、始まろうとしている。

紙魚の栞、ふたたび第4話 あなたのための本