雨のち喫茶、晴れのち君
第1話 十年越しの一杯
昼の営業を一時で切り上げたのは正解だった。店を出る直前にばらつき始めた雨足は、星見町内会館の古びた玄関に着く頃には本降りになっていた。軒先で折り畳み傘をたたみ、何度か振って水滴を落とす。階段の軋む音がやけに耳についた。
二階の会議室前には簡素な長机が出ていて、「星見商店街再開発計画 住民説明会」と印字されたA4の紙が貼ってある。受付にいた町内会の役員らしき年配の男性が、無言で資料の束を差し出してきた。
「すみません、遅くなりました」
頭を下げて受け取る。会議室の中はすでに三十人ほどの人で埋まっていた。商店街の面々だ。乾物屋の吉岡さん、時計店の細川ご夫妻、それにクリーニング店の若い跡取りさん。皆どこか浮かない顔で、折り畳み式のパイプ椅子に腰を下ろしている。
私は後方の隅の席を見つけて座り、配られたばかりの資料を膝の上で開いた。表紙をめくり、概要をざっと目で追う。計画の趣旨、区域図、スケジュール想定――どれも耳にしたことのある話だった。商店街の老朽化対策として、三年計画で建て替えを進めるというものだ。
指先が止まったのは、三枚目の「事業推進体制」と題されたページだった。
『担当:久我 航平(くが こうへい) 都市計画課 整備係』
文字がにじむように見えたのは、雨のせいでも照明のせいでもなかった。
久我。航平。
十年前、何の前触れもなく私の前から姿を消した人。最後に交わした言葉さえ、うまく思い出せない。ただ、あの夏の夕立の匂いと、渡せなかった手紙の重みだけが、この胸のどこかに沈んでいる。
手に力が入りすぎて、資料の端がくしゃりと音を立てた。慌てて指を離すが、紙には細かい皺が残っている。隣の席の人が一瞬こちらを見た気がした。私は資料を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
考えすぎだ。名字も名前も、ありふれた組み合わせかもしれない。十年前のことだし、まさかこんな形で――。
そう自分に言い聞かせた瞬間、会議室の前方のドアが開いた。
入ってきたのは、ダークグレーのスーツを着た長身の男性だった。手には書類の束と、ノートパソコン。手際よくプロジェクターの前に立ち、ケーブルを繋ぎ、一度だけ会場に向かって深く頭を下げる。
「本日はお足元の悪い中、お集まりいただきありがとうございます。都市計画課の久我と申します」
顔を上げた。
そこで初めて、彼の視線がまっすぐに私を捉えた。
時間が硬直したみたいだった。十年分の歳月が一気に押し寄せて、しゃがれた声も出せずにいる私を、彼は一瞬だけ見つめた。唇が何かを言いかけて、しかしすぐに結ばれる。左手のカフスボタンが光った。
「――それでは、資料に沿ってご説明させていただきます」
声は淡々としていた。抑揚を排し、必要なことだけを順序よく並べていく口調。プロジェクターに映し出された図面をレーザーポインターで指し示す仕草にも、迷いはなかった。
私は手元の腕時計に指を這わせた。祖母の形見。風防の端に細かな傷がある。あの頃の私は、何かを言いたくて言えなくて、いつもこうして時計の文字盤を親指でなぞっていた。
航平は説明を続けている。再開発の必要性、補助金の枠組み、工程の四段階区分。時折、パソコンを操作するために身をかがめるたび、左手首のカフスがわずかにずれた。
その下に、見覚えのある痕があった。
古い火傷の痕だ。皮膚がつっぱるようにして残る、小さな楕円形の跡。
十年前、あの夜。理科室のアルコールランプが倒れて、彼が私をかばった時に――。
無意識に、腕時計のバンドを握りしめていた。指先が白くなるほど強い力で。呼吸が浅くなる。心臓の音がうるさくて、プロジェクターのファンの駆動音が遠のいた。
航平は説明を止めなかった。視線はもう、私のほうを向いていない。スクリーンの図面だけを見つめ、用意された原稿を読み上げるようにして言葉を紡ぎ続ける。
「――工期は三期に分割し、第一期では東側ブロックの基盤整備を先行させます」
声は落ち着いていた。十年前、彼がこんなに流暢に人前で話す姿を、私は見たことがない。高校の教室ではいつも隅の席で、必要最低限のことしか喋らなかったのに。
質疑応答に移行したのは、それから三十分ほど経ってからだった。司会の役員が「ご質問のある方は――」と言い終わらないうちに、前から三列目に座っていた乾物屋の吉岡さんが立ち上がった。六十五歳。この商店街で四十年来、昆布と鰹節を売り続けてきた人だ。
「あんたのところの計画じゃ、ウチの店が入っている東側ブロックは来年の秋には取り壊しだって聞いたが」
声は低く、しかし部屋の隅々まで通った。
「確かにそういうスケジュールになっております」
航平は一拍置いてから、そう答えた。
「そんな急に言われて、はいそうですかと引き払えると思うのか。ウチは先月、店の看板を新しくしたばかりだ。融資の返済だってまだ十年残ってる」
「ご心配はごもっともでございます」
航平の声が一段と丁寧になった。温度の下がった、研ぎ澄まされたような敬語。私はその響きを知っている。怒りを抑えている時のくせだ。高校三年の秋、出席番号の順番を間違えられて教師に責められた時も、まったく同じ話し方をしていた。
「補償につきましては、国の基準に則り適正な額を算定させていただく所存でございます。また営業再開までの間、仮設店舗のご用意も検討しております」
「仮設だぁ?」
吉岡さんの隣にいた時計店の細川さんが声を上げた。普段は穏やかな人なのに、こめかみのあたりが赤くなっている。
「仮設のプレハブで、時計の修理ができると思ってるのか。精密機械を扱う店もあるんだぞ。だいたい、あんたたちは一度決めたことを変えやしないじゃないか」
「ご指摘ありがとうございます。個別の事情につきましては、後日改めてお話を伺う機会を設けさせていただきます」
「後日後日って、いつもそれだ」
声はあちこちから上がり始めていた。クリーニング店の跡取りが腕を組み、隣の和菓子屋の女将さんがため息をつく。会場がざわついて、パイプ椅子の軋む音が何度も重なった。
でも私は、その騒がしさをどこか遠くで聞いていた。
航平のあの敬語は、すべてを遮断する壁だった。言葉の表面は柔らかく磨き上げられているのに、その奥には誰も入れない。彼は怒っている時ほど礼儀正しくなる。それは多分、自分を傷つけた相手にも、そして自分自身にも向けられた刃なのだ。
あの夏の夜のことを思い出す。夕立が激しくなる中、ずぶ濡れで立っていた彼の背中。何度も手紙に書いたけれど、どうしても書ききれなかった言葉。結局、私は何も言えなくて、彼は何も聞かなくて、翌日にはもう、彼は町からいなくなっていた。
「スケジュールありきの話に、何の意味があるんだ」
誰かが吐き捨てるように言った。
航平はもう一度、「ご意見として承ります」とだけ答えた。その声はますます静かで、ますます完璧な敬語で、私は思わず唇を噛んだ。
結局、説明会は三時を過ぎたあたりでお開きになった。誰も満足していなかったし、誰も納得していなかった。不満のくすぶりをそのままに、パイプ椅子を立つ音と、雨の降りしきる窓の外を見やる視線が交錯する中、航平は手際よくパソコンを片付け始めた。
私は立ち上がるタイミングを逸して、そのまま席に残っていた。別に話したいことがあるわけじゃない。ただ、足が動かなかった。
航平はケーブルを巻き、書類を鞄に仕舞い、プロジェクターの電源を落とした。すべての動作が手際よく、迷いがなかった。部屋を出る直前、彼は一度だけ立ち止まった。
その時、彼は私のほうを見なかった。
見なかったのではなく、見ないようにしたのだと、勘ぐるのは私の勝手な思い込みかもしれない。でも、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、視線をドアの一点に固定して、彼は会議室を出ていった。
足音が階段を降りていく。規則正しい、乾いた靴音だった。
私は手に持ったままだった資料をもう一度見下ろした。皺の寄った紙面の「担当:久我航平」の文字。親指の腹でそっと撫でてみるが、皺は伸びない。
窓の外ではまだ雨が降り続いていた。梅雨入りしたばかりの空は明るい灰色をしていて、この雨がいつまで続くのか、誰にもわからないように見えた。
アーケードまでの五十メートルが、やけに長く感じられた。
雨音に混じるもう一つの足音を背中で聞きながら、私は歩く速度をわずかに落とした。彼が傘を差し出してくれているのに、歩調を合わせようともせず、半歩後ろを歩く。それが彼なりの距離の取り方なのだと、なんとなく察したからだ。
商店街のアーケードに足を踏み入れると、途端に雨音が遠のいた。頭上を覆う波板を叩く音が、こもった低い響きに変わる。私は立ち止まり、濡れた前髪を指先で横に流した。振り返ると、航平はアーケードの境界線ぎりぎりの場所で立ち止まり、傘を閉じていた。左肩のスーツがぐっしょりと黒ずんでいる。
「濡れてしまいましたね」
私が言うと、彼はほんの少しだけ眉を動かした。
「大したことじゃない」
短く答えて、閉じた傘の水滴を丁寧に切る仕草が、昔と変わらなくて、胸の奥がきゅっと窄まる。私は手提げ鞄からハンカチを出そうとして、やめた。差し出す理由が見つからなかった。
代わりに、アーケードの奥へと視線を向ける。雨の日の商店街は人通りがまばらで、軒先に出たままのワゴンセールの品々が、湿った空気にさらされていた。私の店は、このアーケードを三分の二ほど進んだ左手にある。
説明会が終わった途端、雨脚は一段と強まっていた。会館の庇の下で空を見上げていた何人かの店主たちが、諦めたように傘を広げてアーケードの方へ小走りに去っていく。私は手提げ鞄を胸に抱え、同じ方角へ歩き出した。傘は持っていない。朝の天気予報では曇りのち晴れだったのに、こんな日に限って外れる。
商店街の入り口にある古いアーケードまで、あと五十メートルほどの距離を濡れながら歩く。ブラウスの肩がじわりと冷たくなり、髪の毛先から滴が落ち始めた。早足になる。革靴の中に水が沁みて、靴下が肌に貼りつく感触がした。
ふと、雨音の隙間から別の足音が近づいてくるのに気づいた。振り返るより早く、頭上で傘が開く気配がして、雨が遮られる。
「お店、まだ営業されますか」
声でわかった。顔を見なくても、この低くて抑揚の少ない話し方は十年経っても変わらない。
久我航平が、私のすぐ後ろに立っていた。左手に黒いビニール傘を持ち、わずかにこちらへ傾けて差し出している。右手はスーツのポケットに入れたままだった。
「ええ、いつも通り」
私は彼の顔を見ずに答えた。傘が私を覆っているせいで、彼の左肩は雨に打たれている。
説明会の間、航平はずっと進行役の後ろで資料をめくるだけで、私とは一度も目を合わせなかった。それなのに、なぜ今ここにいるのか。考えても答えは出ない。
「そうですか」
航平はそれだけ言って、傘を私の手に押しつけるように渡した。とっさに受け取った私の指が、彼の手首にかすかに触れた。
古い火傷の痕。
白く引き攣れた皮膚の感触が、一瞬だけ指先に残る。私は思わず手を引っ込めそうになって、傘を取り落としそうになった。
航平はもう一歩後ろに下がっていた。雨が彼の髪を濡らし、スーツの肩から水滴が伝っている。
「傘は」
「構いません」
振り返りもせず、航平は歩き去った。アーケードとは反対の方角へ、タクシーを拾うつもりなのか、大通りに向かって早足で遠ざかる。その背中を、私は傘を握りしめたまま見送った。
十年前と同じ雨だった。
高校三年の三月、卒業式の帰り道。私は渡せなかった手紙を鞄に入れたまま、航平とこの商店街の前で別れた。あの日も雨が降っていた。航平は東京の大学に行くと言い、私は祖母の店を手伝うと言った。お互いにそれ以上は何も言えず、ただ「頑張って」とだけ交わして、別々の方角へ歩き出した。
あのときも、彼は傘を持っていた。私に差し出そうとして、やめて、そのまま立ち去った。
今はもう三十二歳だ。なのに、雨が記憶を強引に手繰り寄せる。
「お店」と言った。航平はあの店をそう呼んだ。喫茶店というよりも、祖母と私の生活の場だったあの場所を、彼は十年経っても店として認識している。そして、まだ営業しているかを尋ねた。つまり、来るつもりなのだろうか。
私は濡れた前髪を指先で横に流し、航平の傘を差したままアーケードの下へ入った。商店街のシャッターは半分以上閉まっていて、点いている灯りは薬局と乾物屋、それから私の店だけだ。雨音がトタン屋根を叩く音だけが、がらんとした通りに響いている。
店の裏口から居住スペースに上がった。ここは祖母が生きていた頃とほとんど変わらない。六畳の和室に、小さな仏壇と箪笥、そして祖母が使っていた鏡台。鏡台の引き出しの取っ手は真鍮で、祖母の指が長年触れたせいで一部だけ金色が鈍く光っている。
濡れたブラウスを脱ぎ、タオルで髪を拭きながら箪笥を開けた。着替えのブラウスを取り出そうとして、いちばん下の引き出しに手をかけたとき、指が止まる。
あの引き出しの奥には、祖母の遺品を整理したときに見つけた封筒がしまってある。茶色い封筒で、表面には何も書かれていない。中には、私が書いたのに一度も封をしなかった手紙が入っている。
十年前、航平に渡すつもりだった手紙だ。
結局、渡せなかった。渡す勇気が出なかった。そしてそのまま、祖母の箪笥に紛れ込んで、祖母の遺品になるまで誰にも見つからなかった。
私は引き出しから手を離し、いつもの生成りのエプロンを手に取った。考えるのはやめよう。今日はまだ営業時間が残っている。いつも通り、豆を挽いて、湯を沸かして、カウンターに立つ。
店の灯りを点け、看板を表に出した。「準備中」の札を外し、ドアを開ける。雨の匂いと湿った空気が店内に流れ込んできた。
コーヒーサイフォンのガラスを磨き、カウンターの上を布巾で拭く。手を動かしているうちに、さっきまで頭の中を占めていた手紙のことも、航平の火傷の痕のことも、少しずつ輪郭を失っていく。これは長年の習慣だった。何か考えたくないことがあるときは、ひたすら手を動かす。豆の重さを量り、湯の温度を確かめ、カップを温める。その繰り返しのうちに、時間は過ぎていく。
夕方の常連はまだ来ない。雨のせいで客足はさらに鈍るだろう。
カウンターの隅に置いた黒いビニール傘が視界に入った。返さなければならない。でも、どうやって。航平の連絡先を私は知らない。説明会の名簿に会社の住所があっただろうか。いや、それをわざわざ調べて送り返すのは大袈裟すぎる。
店に来るかもしれない。
航平はそう言わなかったけれど、「お店、まだ営業されますか」という問いには、次に続く行動の含みがあった。十年ぶりに再会した相手にかける言葉として、あまりにも実務的で、そしてあまりにも航平らしい。
私は磨き終えたカップを棚に戻し、新しい一杯を淹れる準備を始めた。コーヒーミルのハンドルを回す音だけが、雨音に混じって静かな店内に響く。
夕方五時を過ぎた頃、雨はまだやんでいなかった。閉店まではあと二時間ある。カウンターに肘をついて窓の外を見ると、アーケードの向こうで誰かが傘をたたむ影が見えた。
ドアベルが鳴る。
顔を上げた私の視界に、濡れたスーツの肩と、整えられた黒髪が入った。
航平は一度だけ店内を見回してから、まっすぐにカウンターへ歩いてくる。
「コーヒーをください」
私は一瞬息を止めて、それからゆっくりと息を吐いた。
「かしこまりました」
カウンターの隅の黒い傘に目をやってから、私は豆の入ったキャニスターに手を伸ばした。