雨のち喫茶、晴れのち君
第2話 返せなかった傘
私は一瞬息を止めて、それからゆっくりと息を吐いた。
「かしこまりました」
カウンターの隅の黒い傘に目をやってから、私は豆の入ったキャニスターに手を伸ばした。指先がほんの少し震えているのを、蓋を開ける動作でごまかす。
「お好きな豆はありますか」
振り返らずに尋ねると、少しの間があってから「お任せします」と低い声が返ってきた。
いつものように豆を量り、ミルにセットする。ハンドルを回す音が、やけに大きく店内に響いた。航平はカウンター席の端に腰を下ろし、メニューにも手をつけずにこちらを見ている。その視線を背中に感じながら、私はサイフォンの湯を沸かし始めた。
今日は朝からずっと雨だったが、夕方になって少し小降りになっている。窓の外のアーケードには水たまりがいくつもできていて、街灯の光をぼんやりと映していた。
「昨日は、ありがとうございました」
サイフォンに湯が上がっていくのを見つめながら言う。傘のことだ。
「いえ」
短い返事のあと、航平は何かを言いかけたように息を吸ったが、結局それ以上は続けなかった。
私はゆっくりと豆を蒸らしながら、この異様な沈黙をどう受け止めればいいのか考えていた。十年ぶりに店を訪れた相手に、コーヒーを出す。ただそれだけのことなのに、手元を見つめる自分の目が妙に真剣なのがわかる。
抽出が終わり、カップに注ぐ。立ち上る湯気の向こうで、航平の顔がわずかに揺らいで見えた。
「お待たせしました」
カウンター越しに差し出すと、航平は軽く会釈してカップを受け取った。左手がカップに伸びる。その手首に、私は意識を向けまいとした。昨日の説明会で一瞬見えた、あの火傷の痕。今日はスーツの袖口に隠れていて、ほとんど見えない。
航平は一口含み、少し驚いたようにまぶたを持ち上げた。
「……深煎りですね」
「はい。雨の日は、少し苦めのほうがいいかと思いまして」
「そういうものですか」
「祖母がそう言っていました」
それきり会話は途切れた。航平は黙ってコーヒーを飲み、私はカウンターの中から、なぜか片付け終わったシンクをもう一度布巾で拭いた。
雨音だけが満ちている。時折、アーケードのどこかで水滴の落ちる音がして、それがやけに耳についた。航平のいるカウンターの端と、私の立つレジの前と、その間のわずか一メートルほどの空間が、何か見えない壁で仕切られているような気がした。
「商店街のほうは、その」
私が口を開きかけたちょうどその時、ドアベルが勢いよく鳴った。
「しーちゃーん、いるかーい」
聞き慣れた嗄れ声とともに、富樫ヨシオが雨合羽をばたばたさせながら入ってくる。金物屋の主人で、祖母の代からの顔なじみだ。七十を過ぎているが、足腰はまだしっかりしている。
「おお、やってるやってる。こんな雨じゃ客もおらんだろうと思って……、おや」
ヨシオはカウンターの端に座る航平を見て、一瞬息を呑んだ。そのあと大袈裟に眉を上げて、私と航平を交互に見比べる。
「お客さんかい。珍しいね、この時間に」
「いらっしゃいませ、ヨシオさん。いつものでいいですか」
私は平静を装って、すでに手に取っていたおしぼりを差し出した。ヨシオはあいかわらず航平から目を離さない。
「あんた、どっかで見た顔だな」
ヨシオが言うと、航平はコーヒーカップを静かに置いて、軽く頭を下げた。
「失礼しました。先日の説明会で、ご一緒させていただいたかと」
「ああっ、あんたか! 再開発の」
ヨシオの声のトーンがほんの少し変わった。嫌悪というよりは、警戒、だろうか。彼はいつものカウンター席にどっかと腰を下ろし、濡れた帽子を脱いで膝の上に置いた。
「こんなところで何してるんだい。まさか営業じゃないだろうね」
「ヨシオさん」
たしなめるように声をかけたが、ヨシオはひらりと手を振った。
「お前は黙ってなさい。しーちゃんは気が弱いから、こういう話は苦手だろう」
いつものことだ。ヨシオは私のことをいまだに十代の小娘のように扱う。そして、それはそれで私も慣れてしまっている。
「営業ではございません」
航平は抑揚の少ない声で答えた。
「ただの客です。昨日せっかくお店の前を通りましたので」
「ふうん。まあいいさ。俺に構わず続けてくれ」
気まずい空気が流れる中、私はヨシオの前にいつものブレンドを置いた。彼はそれを受け取りながら、まだ航平から目を離さない。
「しかしあんた、ずいぶん若いな。ああいう大きな計画の担当ってのは、もっと年配の役人が来るもんだと思ってたが」
「今回は開発公社との共同事業という形でして。民間の立場から関わらせていただいております」
「民間ねえ。あんた、この辺りの出身かい」
航平の指が、ほんのわずかカップの縁で止まった。
「……いいえ」
うそだ、と心の中でつぶやく。高校三年まで、この商店街から十分も歩かない場所に住んでいたはずだ。だけどそれを口に出す権利は、私にはない。
「そうかい。じゃあこの商店街のことは、あんまり知らないんだな」
ヨシオの口調には、どこか探るような響きがあった。
「まだ勉強中です」
「勉強、ね。まあいい。それより再開発の話は、どこまで進んでるんだい。昨日の説明会じゃ、まだざっくりした話ばかりだったが」
航平はゆっくりとコーヒーを一口飲んだ。何かを選ぶように、少し間を置く。
「現在は、店主の皆さまのお考えを個別に伺っている段階です。具体的なスケジュールについては、また改めてご案内させていただきます」
「ふん。まあ、あんたのところの計画が通れば、この店もなくなるかもしれんわけだ」
ヨシオはぐるりと店内を見回した。古いカウンター、祖母の代から使っているサイフォン、壁に掛かった商店街の古い写真。どれもがここで何十年も時を過ごしてきたものだ。
「しーちゃんは、この店を誰から継いだか知ってるかい」
「お祖母様、でいらっしゃいますか」
「そうだ。先代はこの商店街を誰よりも愛してた。店だけじゃない、この通り全部を、まるで自分の庭みたいに大事にしてたんだ。あんたみたいな若いのが、外から来てとやかく言う筋合いのもんじゃない」
「ヨシオさん、そのくらいで」
私が口を挟むと、ヨシオはふんと鼻を鳴らしてコーヒーをすすった。
航平はカップを両手で包むように持ち、しばらく俯いていたが、やがて顔を上げてヨシオを見た。
「おっしゃる通りだと思います」
その声は、さっきよりもさらに一段、丁寧になっていた。私は無意識に布巾を握る手に力を込めていた。この感じを知っている。怒りを抑えるときの、航平の癖だ。
「この商店街には、私などが簡単に計り知れない時間が積み重なっています。それを踏まえた上で、できる限りのお話を伺いたいと考えております」
ヨシオはしばらく航平の顔を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「まあ、今日はこれ以上詮索するのはやめとくよ。せっかくのコーヒーが不味くなる」
そう言って、彼は残りのコーヒーを一気に飲み干した。
「しーちゃん、また来るよ。今度はもっと静かな時に」
「はい、お待ちしてます」
ヨシオは立ち上がり、航平にちらりと目をやってから、雨合羽を羽織り直して店を出ていった。ドアベルの音が、いつもより長く余韻を残した。
店内にはまた、沈黙が戻る。
窓の外はすっかり暗くなっていた。アーケードの街灯が、濡れたアスファルトに細長い光の線を引いている。閉店時間まで、あと十五分ほどだろうか。
航平は冷めかけたコーヒーを最後の一口まで飲み、カップを静かにソーサーに戻した。それから立ち上がり、スーツの胸ポケットから財布を取り出す。
「お会計を」
私はカウンターのレジへ向かった。航平が差し出した千円札を受け取ろうとして、指先がかすかに触れそうになり、互いにほんの少しだけ手を引っ込めた。気まずさを帳尻合わせするように、私は少し早い動作で紙幣を受け取る。
「四百八十円になります。少々お待ちください」
釣り銭を取り出そうとレジを開けたとき、航平がカウンターの隅に置かれた黒い傘に手を伸ばすのが見えた。
「あ、それ。昨日は本当にありがとうございました」
釣り銭を小皿に置きながら言うと、航平は傘を手に取ったまま、少し考えているようだった。
「いえ。ただ、もう一本ありますので、これはお返しします」
「そうですか。助かりました」
よかった、とどこかでほっとしている自分がいた。返す口実に悩まなくて済む。
航平は釣り銭を受け取り、スーツのポケットにしまった。その一連の動作の中で、袖口が少しだけずれる。
左手首の内側に、古い火傷の痕。
一瞬のことだった。昨日の説明会で見たときよりもずっと近く、はっきりと。皮膚の表面が引き攣れたように光を反射して、白っぽく変わっている。熱源が直接触れたような、丸みを帯びた形。あの日から十年経っても、まだこの痕は残っている。
「……また、来ます」
航平はそう言って、傘を手に店の出口へ向かった。私は何か言わなければと思いながら、喉の奥で言葉が固まってしまう。
十年前の夏の放課後、理科室で。
アルコールランプが倒れて、私の腕を庇った航平の手首に、青い炎が走った。焦げるような匂い。誰かの悲鳴。保健室まで走りながら、航平は「大丈夫だから」とそればかり繰り返していた。
私は何もできなかった。何も言えなかった。お礼も、ごめんなさいも、何一つ。
ドアベルが鳴る。顔を上げたときにはもう、航平の背中はガラス戸の向こうで雨のアーケードに溶けようとしていた。
店の外に出た航平は、傘を広げるでもなく、少しだけ立ち止まったように見えた。アーケードの街灯の下で、黒いスーツの肩が一瞬揺れる。でもそれは、ただ傘の位置を直しただけかもしれない。
そう言えば私は、肝心のことを何も言っていない。
コーヒーの味はどうだったか。また来るという言葉は、単なる社交辞令なのか。それとも。
ガラス戸の向こうの人影は、もうアーケードの先の暗がりに消えていた。雨音だけが、さっきよりも少し強く聞こえる。
私は右手で、無意識に左の手首を握っていた。祖母の形見の腕時計の、風防に入った小さな傷を、親指の腹でなぞる。航平の火傷の痕と、この傷。どちらも十年前から変わらずここにある。なのに、その間を埋める言葉は、まだどこにも見つからない。
「大丈夫です」
誰に言うでもなく呟いて、私はカウンターに戻った。航平の使ったカップを下げ、ソーサーに残った水滴を布巾で拭く。温かい。まだ、ほんの少しだけ。
閉店の時間だ。
看板を中に取り込み、ドアに鍵をかける。店内の灯りを半分だけ消して、私はカウンターにもう一度立った。航平が座っていた席に、何かが置き忘れられている。財布か何かだろうかと近づいて、違うとすぐにわかった。
千円札が一枚、そっとカップの横に置かれていた。
釣り銭を多めに置いていったわけではない。コーヒー代とは別に、ただ一枚。まるで、言葉の代わりみたいに。
私はその千円札を手に取って、それからカウンターの隅の引き出しにしまった。明日、どうすればいいか考えよう。いや、考えたところで答えが出るようなことでもない。
雨はまだ、やみそうになかった。
数時間前までそこに座っていた航平の体温は、もうカップから消えている。私はサッシ越しにアーケードを見つめたまま、動けずにいた。ガラスに映る自分の顔が、十年前と同じ無力な表情をしている。
卒業式の日も、私はこうして窓越しに見送った。航平の背中が雨に溶けていくのを、ただ立ち尽くして見ていることしかできなかった。あの時、校門の前で振り返った航平の唇が、何かを伝えようと動いたのを覚えている。でも私は勇気がなくて、わざと傘を差し出すそぶりも見せなかった。
今も同じだ。手元には返しそびれた傘があるのに。
ドアベルの余韻が消えると、店内に満ちていた航平の気配も一緒に薄れていった。カップにはまだ八分目のコーヒーが残っている。ほとんど手をつけていない。
窓の外のアーケードを、スーツの肩がゆっくりと遠ざかっていく。傘もささずに。
私はカップを下げる手を止めた。雨が商店街のひび割れた舗装を叩き、軒先の雨樋から絶え間なく水が落ちている。航平の背中はもうアーケードの切れ目に差しかかろうとしていた。あのまま行けば、十分もせずにずぶ濡れになる。
そこでようやく、私はカウンターの隅の傘を思い出した。
返しそびれた。
走って追いかけようか。いや、今さら傘を手に外に飛び出していくのはおかしい。そもそも、あの傘は航平が差し出したものだ。返すという行為自体が、私たちの間にできてしまった距離を改めて確認するようで、私は動けなかった。
十年前の三月、卒業式の日も雨が降っていた。
校門の前で、航平はすでに決まっていた上京の話をした。私は店を継ぐと言った。たったそれだけの会話だったのに、あのとき航平は何かを言いかけて、結局口を閉じた。傘を持っていたのに、私に差し出すこともなく、雨の中を歩いていった。後ろ姿だけがやけにまっすぐで、一度も振り返らなかったのを覚えている。
あれから十年も経ったのに。
私はまた、同じように彼の背中を見送っている。カップの中のコーヒーはもう湯気を失っている。ずいぶん濃く出てしまった。航平は三口か四口だけ飲んで「結構です」と立ち上がったのだ。味について何も言わなかった。ただカウンターに千円札を置いて、釣りを受け取らずに店を出て行った。説明会のときと同じ、どこまでも業務的な物腰だった。
なのに、どうして今ごろ私の店に来たのだろう。
顔を上げると、航平の姿はもう商店街の向こうへ消えていた。雨だけがアーケードから溢れて、誰もいない道を濡らしている。
「栞ちゃん」
声に振り返ると、入口のドアを半分開けたまま、富樫ヨシオが立っていた。商店街の金物屋の店主で、祖母の時代からの顔なじみだ。60を過ぎて腰が少し曲がっているが、目だけはいつも笑っている。
「悪いねえ、閉店間際に」
ヨシオは濡れた帽子を脱ぎながら店内に入ってくる。「さっきまで入り口で待ってたんだが、先客がいたから遠慮しちまったよ」
「いらっしゃいませ。いつもので?」
「ああ、濃いめで頼む」
私はカウンターに戻り、新しい豆を挽き始めた。ヨシオは窓際の席に腰を下ろすと、煙草を取り出して、火をつけないまま指で弄んでいる。
「いまの人、説明会の会社の人だろう」
ミルのハンドルを回す手が一瞬止まった。
「ええ」
「なんか、用だったのか?」
「コーヒーを一杯」
ヨシオは少しだけ間を置いてから、ふうん、と言った。それ以上は追及してこない。それが彼の距離の取り方だった。
湯を注ぎ終わったカップをトレイに乗せて、ヨシオの前に運ぶ。彼は一口飲んで、「やっぱり栞ちゃんのコーヒーは落ち着くよ」と目を細めた。
「星見の井戸、覚えてるか」
突然の話題に、私はトレイを抱えたまま立ち尽くした。星見の井戸。商店街の裏手にある、もう使われなくなった古井戸のことだ。子どもの頃はよくそこで遊んでいた。
「おばあちゃんが生きてた頃にさ、一度だけ話してくれたんだよ。栞ちゃんがまだ高校生のときに、あの井戸のところで、誰かとすごく大事な約束をしたんだってなあ」
祖母に話したのだろうか。私は覚えていない。いや、覚えていないふりをしているだけかもしれない。
「……よく覚えてらっしゃいますね」
私の声は自分でも驚くほど平坦だった。
「あの井戸、再開発の計画ではどうなるんだろうと思ってさ。思い出しただけだよ」
ヨシオは煙草を耳にかけると、残りのコーヒーを静かに飲み干した。私はカウンターに戻り、何かを言わなければと思うのに、適切な言葉が見つからなかった。
あの井戸のほとりで、私は確かに約束をした。
でもそれは、今の航平にはきっともう関係のないことだ。
「ごちそうさま。また来るよ」
ヨシオは釣り銭をトレイに置くと、帽子を深くかぶり直して店を出て行った。ドアベルの音が、さっきよりもずっと間抜けに響いた。
店内に再び雨音が戻る。私はカウンターの上の千円札を手に取り、レジを開けた。航平のコーヒーは四百円だ。釣りは六百円。この六百円をどうすればいいのかも、傘と同じでわからないままだ。
閉店の時間が来て、看板を中に入れ、ドアに鍵をかける。いつもと変わらない手順で、私は「珈琲庵 ひだまり」の一日を終えた。
***
航平は駅前のビジネスホテルに戻ると、濡れた上着をハンガーにかけた。部屋の灯りをつけて、持っていた鞄から説明会の資料を取り出す。明日の朝までに目を通しておくべき書類がまだ残っている。
机の上に資料を広げて、ページをめくる。三枚、四枚と捲ったところで、手が止まった。
資料の束の間に、一枚の異なる紙が紛れ込んでいる。折り目のついた古い便箋だ。
航平はそれを取り上げて、息を詰めた。
汚れた罫線と、薄れたインク。間違いない、自分の筆跡だった。十年前、書いて、出せないままどこかにしまったはずの、下書き。それがなぜ、今、この資料の中に。
便箋の一番上を飾る宛名を、航平は唇を動かさずに読み返した。
外ではまだ雨が降り続いている。