FeverStory

雨のち喫茶、晴れのち君

第11話 火傷の痕の向こう側

栞はスマートフォンを握りしめたまま、しばらく画面を見つめていた。

美咲からのメッセージが、頭の中で繰り返し再生される。辞表を出した。もう誰にも止められない。

「……辞表」

声に出して呟くと、その言葉の重みが胸に落ちてきた。彼は会社を辞めた。この街に来た理由そのものを、自分の手で終わらせたのだ。

本当にそれでよかったのかという迷いと、そこまでしてくれたのかという驚きが、胸の中で渦を巻く。彼はいつだって一人で決めてしまう。十年前も、今度も。でも今度は、その決断の先にちゃんと自分がいる。それが何よりも大きかった。

栞は深く息を吸い、それからゆっくりと吐いた。空気が肺の奥まで入っていくのを感じる。雨上がりの朝の空気は、どこか柔らかくて、それでいて凛としていた。店内に満ちたコーヒーの残り香が、その空気と混ざり合って、鼻の奥をくすぐる。

アドレス帳の表示をタップする。発信ボタンに指を置いて、一呼吸。二呼吸。三呼吸目の途中で、指が自然に動いた。親指が微かに震えていたのは、緊張のせいか、それとも期待のせいか。

呼び出し音が鳴る。一度、二度、三度。その間、カウンターの木目をじっと見つめる。長年使い込まれた木材は、祖母の時代から数え切れないほどの客を受け入れてきた。今日は、その木目がやけにくっきりと見えた。

四度目で、相手が出た。

「……もしもし」

声が聞こえた瞬間、胸の奥がきゅっと縮まる。彼の声は少し掠れていて、疲れているようにも、緊張しているようにも聞こえた。夜通し何かを考えていたのかもしれない。それとも、眠れない夜を過ごしたのか。声の奥に、微かな不安の色が滲んでいる。

「篠原です。お電話してしまって、申し訳ありません」

「いえ」

短い返事の後、沈黙が落ちた。この前、あんな別れ方をしたのだ。カウンターを拳で叩き、傷をつけたあの日。それでも電話をかけてきたことに、彼は何も言わない。ただ待っている。こちらの言葉を。それが痛いほど伝わってきた。

栞は左手をカウンターに置いた。封筒の上にそっと手を重ねる。十年分の重さが、そこにはあった。封筒のざらついた感触が、手のひらに心地よく引っかかる。

「一度だけ、話をしに来ていただけませんか」

言った後で、自分の声が震えていないことに気づいた。怖がりだった十年前の自分なら、きっと言えなかった言葉だ。当時の自分は、大切なことほど口にできなかった。伝えたい想いほど、胸の奥にしまい込んでしまう子どもだった。でも今は違う。

「お店に、来ていただけますか。今日は定休日なので、誰もいません」

受話器の向こうで、息を呑む気配がした。かすかな衣擦れの音が聞こえる。彼が身じろぎしたのだろうか。それとも、スマートフォンを握り直したのか。

「……わかりました。すぐ行きます」

敬語だった。でもその声には、以前のような距離を作るための丁寧さではなく、ただ誠実に向き合おうとする響きがあった。ビジネスのための取り繕った言葉ではなく、一人の人間としての決意がそこには込められていたように思う。

「お待ちしています」

通話を切る。スマートフォンをカウンターに置くと、手のひらがじんわりと熱を持っていた。心臓は静かに、しかし確かに速く打っている。耳の奥で、自分の鼓動が小さく反響していた。

栞は立ち上がり、エプロンの紐を結び直した。開店前の静かな店内。カウンターに並んだ二通の封筒。ひとつは昨夜、二階の自室から持ち出した自分のもの。押し入れの奥の木箱にしまってあった、十年間封を切らなかった手紙。もうひとつは、空っぽだった。それでいいと思っていた。相手の分まで用意する必要はない。ただ自分の想いを差し出せれば、それで十分だった。

窓の外を見る。雨はすっかり上がっていた。雲の合間から覗く空は、梅雨の合間の嘘みたいに青い。商店街のアーケードに残った水滴が、朝の光を受けてきらきらと輝いている。軒先から滴る雫が、リズムを刻むように落ちては消えていった。遠くで雀の鳴く声がする。すべてが、いつも通りの朝の風景だった。でも今日だけは、何もかもが違って見えた。

十分ほど経っただろうか。

ガラス戸の向こうに、背広姿の航平が立った。ノックをするでもなく、ただしばらく立ち尽くしている。肩が微かに上下しているのは、ここまで歩いてきたからだけではないだろう。ガラス越しに見る彼の横顔は、何かを決意した人間のそれだった。それでもなお、すぐに戸を開けられない弱さも、ちゃんとそこにある。

栞はカウンターから出て、自分で鍵を開けた。鍵が外れるカチリという音が、静かな店内にやけに大きく響く。

「おはようございます」

「……おはようございます」

航平の顔には、疲れの色があった。目の下にうっすらと隈が浮かんでいる。昨夜は眠れなかったのだろう。でも目だけは、まっすぐに栞を見つめている。逃げない、とその目が言っているように思えた。十年前の彼は、こんな目をしていなかった。いつも何かを耐えるように、ほんの少しだけ視線を逸らしていた。

「どうぞ」

栞はカウンターの席を示した。航平が腰を下ろす。いつもの席。ここに座るのは、あの日以来だ。スツールの脚が床に擦れる音が、静かに店内に広がる。カウンターを叩いたあの日。彼の手が、祖母の形見の腕時計に新しい傷をつけたあの日。その傷はまだ、カウンターの表面にうっすらと残っている。

栞もカウンターの中に入り、いつもの位置に立つ。お互いに向き合う形になった。カウンター越しの距離が、今はとてつもなく遠く感じられて、それでいて手を伸ばせば届く近さでもあった。

沈黙がしばらく続く。店内の時計の秒針だけが、かちかちと時を刻んでいる。栞はカウンターの上の封筒を見つめた。航平もそれに気づいている。視線が封筒に注がれているのがわかった。彼の指が、所在なさげにスツールの端をなぞっている。

「お電話で、話がしたいと言いましたが」

栞はゆっくりと言葉を紡ぐ。一音一音を確かめるように、自分の声を耳で追いながら。

「話すよりも、まず、お見せしたいものがあるんです」

そう言って、一通目の封筒を手に取った。茶封筒。少し黄ばんで、角が擦り切れている。十年前に自分が書いた手紙。昨夜、二階の部屋で十年ぶりに読み返したもの。便箋の折り目はすっかりくたびれて、開くたびに破れてしまいそうだった。

「私、あなたに渡せなかった手紙があるんです」

声が少しだけ震えた。でも目は逸らさない。栞はその封筒を、カウンターの上に置いた。糊付けされた封の部分に、指が一瞬触れる。十年前の自分が、震える手で封をしたのを覚えている。渡す勇気がなくて、結局そのまま箱の奥にしまい込んだ。

航平は何も言わなかった。代わりに彼がしたことは、栞の想像を超えていた。

背広の内ポケットに手を入れ、ゆっくりと取り出す。同じだった。同じように黄ばんだ茶封筒。同じように古びて、角が擦り切れた封筒。その封筒を取り出すとき、彼の指の隙間から、古い万年筆が一瞬だけ覗いた。何度も使い込まれたような、深い藍色の軸。キャップの縁が擦れて、真鍮の地金がところどころ顔を覗かせている。あの手紙は、その万年筆で書かれたのだろうか。

航平はその封筒を、無言でカウンターに置いた。栞の封筒の隣に、まるで鏡のように並ぶ。向きも大きさも、ほとんど同じ。違うのは、表面に書かれた宛名だけだった。

栞は息を呑んだ。頭の中で何かが音を立てて崩れていく。でもそれは、壊れる音ではなく、長い間塞いでいた壁が取り払われる音だった。胸の奥で、古い氷が解けていくような感覚が広がる。

「……あなたも」

「ずっと、持っていました」

航平の声はかすれていた。顔を上げた彼の目は、少し赤い。まぶたの縁が微かに腫れているようにも見えた。眠れなかっただけではないのかもしれない。

栞は自分の封筒を彼の前に押し出し、代わりに彼の封筒を手に取った。航平もまた、同じように栞の封筒を手に取る。彼の指先が、ほんの一瞬だけ栞の指に触れた。それは偶然と呼ぶにはあまりに短く、でも確かな温もりがあった。

二人で、同時に封を切った。糊の剥がれる小さな音が、ふたつ重なる。

中に入っていた便箋は、驚くほど薄く、そして驚くほど軽かった。十年という歳月を閉じ込めてきたとは思えないほど、ただの紙だった。なのに、手に取るとずしりと重く感じる。それは文字の重さなのか、それとも十年という時間そのものの重さなのか。

栞は折りたたまれた便箋を開く。手が震えるのを感じながら、一行ずつ目で追った。彼の字だ。少し右上がりで、でも最後の方は震えていて。インクの濃淡が、ところどころで揺れている。一気に書いたのではなく、何度も何度も書き直したのだろう。迷いと、それでも伝えたいという想いが、文字の端々から滲み出ていた。

『ごめん、何もできなくて。ありがとう、好きでした。』

たった三行。でもそこには、十年分の言葉が詰まっているように思えた。

ごめん、何もできなくて。

ありがとう。

好きでした。

たった三行の言葉が、栞の胸の奥深くまで染み込んでいく。この三行を書くのに、彼はどれほどの時間を費やしたのだろう。どれだけの夜を、この便箋と向き合って過ごしたのだろう。

涙が、栞の目からこぼれた。音もなく、ただ静かに。頬を伝って、カウンターの木目に染み込んでいく。熱い雫が、次から次へと溢れて止まらない。

顔を上げると、航平も手にした便箋を見つめて動かなくなっていた。便箋を持つ手に力が入り、紙がかすかに震えている。その左手首。袖口からのぞいた肌に、古い火傷の痕があった。ぽっかりと残った、白く変色した痕。皮膚が引き攣れたように盛り上がり、周囲の肌とは明らかに質感が違っている。遠くからではわからなかったが、こんなに近くで見ると、はっきりと。どれほどの痛みを伴った傷なのか、想像することさえできなかった。

航平がゆっくりと顔を上げた。目が合う。その目も潤んでいて、今にも溢れそうだった。彼の唇が微かに動いて、何かを言おうとして、でも言葉にならない。その口元が、かすかに歪む。

「……同じですね」

栞の声は震えていた。でも、不思議と悲しくなかった。溢れてきたのは、悲しみよりも、胸が締め付けられるような切なさと——そして温かさだった。十年間、心のどこかで凍りついていた感情が、涙と一緒に溶け出していく。

「ええ。まったく同じです」

航平もまた、泣き笑いのような表情を浮かべていた。手紙を握りしめたまま、何度も何度も頷いている。彼の目からも、ついに一滴の涙がこぼれ落ちた。それはカウンターの上に落ちて、小さな染みを作る。

長い沈黙が降りた。でもそれは、以前のような気まずい沈黙ではなかった。二人の間にあり続けた空白の十年が、ゆっくりと埋まっていくような時間だった。言葉はなくても、お互いの存在がここにあることだけで、十分だった。

どれくらいそうしていただろう。時計の針が一周したのか、それともほんの数分だったのか。

栞は涙を拭い、便箋をそっと封筒に戻した。折り目に沿って丁寧に畳み、封筒の中にしまう。そして顔を上げる。目尻を指の腹で拭いながら、深く息を吸った。

「……どうして、何も言わずにいなくなったんですか」

十年越しの問いだった。本当はあの日、あの場所で、聞くべきだった問い。でもできなかった。彼を責めるのが怖かった。もう会えなくなるとわかっていたから、最後の記憶を嫌なものにしたくなかった。けれど今なら、聞ける。聞かなければ、本当の意味で前に進めない。

航平は俯き、しばらく手元の便箋を見つめていた。それから、かすれた声で語り始める。指先が、所在なさげに便箋の端をなぞっている。

「……うちの家が、傾いてたんです」

言葉を選びながら、ひとつひとつ確かめるように。それは、これまで誰にも話したことのない告白を始めるような調子だった。

「父の会社が倒産して、家も手放すことになって。あの頃はもう、毎日、家の中がめちゃくちゃでした。母は泣いてばかりで、父は酒に溺れて。俺は、大学に行くどころか、高校を出たらすぐに働かないといけなかった」

彼がここまで語るのを、聞いたことがなかった。十年前の自分は、彼の家の事情を何も知らなかった。知ろうともしなかったのかもしれない。彼が時折見せていた陰りのある表情も、疲れたような横顔も、全部見逃していた。好きだという気持ちだけで精一杯で、彼の抱える重さに気づく余裕さえなかった。

「栞は、大学に行くって言ってた。それで、この街に戻ってきて、おばあさんの店を継ぐんだって。楽しそうに話してくれた。だから——」

航平は一度言葉を切り、唇を噛みしめた。奥歯をぎりりと噛み締める音が、ここまで聞こえてくるようだった。

「俺には、彼女を幸せにする資格がないと思ったんです。何も持ってない。未来も何も。そんな俺がそばにいたら、栞の足を引っ張るだけだって。だから、いっそ綺麗にいなくなるべきだと」

栞は聞きながら、自分の胸の奥をえぐられるような思いがした。彼はずっと、そうやって一人で抱え込んでいたのだ。自分のことを支えられない男だと思い込んで、大切な人から離れることこそが正しい選択だと、十年も信じ続けてきた。その孤独を思うと、胸が張り裂けそうだった。

「私は」

栞は深呼吸をひとつした。肺の奥まで空気を満たして、言葉の準備を整える。

「私は、あなたに置き去りにされたと思っていました。理由もわからず、何も言われず、ただ突然いなくなった。ずっと、傷つけられた側の人間だと思ってきました」

航平の肩が揺れた。何か言おうとして、でも言葉にならない。口を開きかけて、また閉じる。その喉仏が、こくりと上下した。

「でも、違ったんですね。私、あなたの事情を知ろうともしなかった。知るのが怖かったから。傷つけられた被害者でいるほうが、ずっと楽だったんです。そうすれば、自分が何かを間違えたとは思わなくて済むから」

自分の言葉が、まるで鏡のように自分自身に跳ね返ってくる。十年間、ずっと見ないふりをしてきた真実が、今さらながらに胸の奥で明らかになっていく。彼だけが悪かったわけじゃない。自分もまた、何もしなかったのだ。

「栞——」

「ごめんなさい」

声が詰まった。視界がまた滲む。涙で歪んだ視界の中で、彼の姿がぼやけて見える。

「私も同じだったんです。あなたと同じで、ただ臆病だっただけなんです」

航平は俯いたまま、ぐっと拳を握りしめた。その手首の火傷の痕に、窓からの光が当たっている。どのような痛みを抱えてきたのか、まだすべてはわからない。でも、少なくとも今は、それを知ろうとしない選択はしない。彼の痛みから、もう目を逸らしたりはしない。

「……俺も、ごめんなさい」

彼の声は絞り出すようだった。喉の奥から、ようやく搾り出したような声だった。

「自分が正しいと思って、一人で決めて。お前の気持ちも聞かずに、全部を諦めて。ヨシオさんに言われました。俺は、自分の正義のために、この街ごと栞の思い出を潰そうとしてたんだって。それに、おばあさんのことも——」

彼は顔を上げ、まっすぐに栞を見た。その目に、もう迷いはなかった。少なくとも、今この瞬間だけは。

「もう二度と、勝手にいなくなりません」

その言葉は重く、そして確かだった。十年分の迷いを断ち切るような響きがあった。背広の胸ポケットから覗く万年筆のクリップが、窓からの光を受けて鈍く輝いている。

栞は涙を拭い、小さく頷いた。何か言おうとして、でも適切な言葉が見つからない。ありがとう、も、よかった、も、何かが違う気がした。代わりに彼女は、ゆっくりと息を整えてから、こう言った。

「コーヒー、淹れましょうか」

航平は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。初めて見る、柔らかい笑みだった。目じりにできた小さな皺が、妙に愛おしく見える。

「……いただきます。ブレンドで」

栞は立ち上がり、いつものように豆を挽き始めた。ハンドルを回す手はまだ震えていたけれど、その震えは不快ではなかった。ガリガリという豆の砕ける音が、静かな店内に心地よく響く。祖母から教わった手順を、体が覚えている。湯を沸かし、フィルターをセットし、蒸らす。立ち上る香りが、店内の沈黙を優しく満たしていく。コーヒーの香りは、どんな言葉よりも雄弁に、この場所の時間を物語っていた。

コーヒーを差し出すと、航平は両手でカップを受け取った。湯気の立ち上る白いカップを、まるで大切なものでも扱うように、そっと包み込む。一口啜って、目を閉じる。長いまつげが、頬に影を落としていた。

「やっぱり、このコーヒーですね」

「四百八十円です」

思わずそう言って、自分で驚いた。航平も一瞬きょとんとして、それから二人で少しだけ笑った。笑い声が重なって、それがまたおかしくて、涙の跡が残る顔のまま、もう一度だけ笑った。こんなふうに笑い合うのは、何年ぶりだろうか。

店内に、ふと陽射しが射し込んできた。窓の外を見ると、雲の切れ間が大きく広がっている。雨はすっかり上がり、空は青さを取り戻しつつあった。光が差し込んだ場所の埃が、金色の粒子のようにきらきらと踊っている。

航平がカップを置き、居住まいを正す。スツールに座り直す衣擦れの音がして、空気が少しだけ引き締まった。

「話したいことがあります。再開発の計画についてです」

栞は黙って頷き、彼の言葉を待った。カップをそっとソーサーに戻し、両手をカウンターの上で組む。

「計画は白紙に戻しました。でも、この街を良くする手伝いは、続けたいと思っています。今度は会社のためじゃなく、自分の意思で——商店街の人たちが主体の活性化策を考えたいんです。補助金や補償に頼らない、ここに住む人たちのための計画を」

彼の声には、以前のような硬さはなかった。ただ静かな決意だけがあった。それは、上司から与えられた任務をこなす者の口調ではなく、自分の人生を自分で選んだ人間の声だった。

「これは、同情じゃありません。俺がこの街で見つけた、未来のための提案です」

その言葉は、以前に彼が言った「借りを返す」という表現とはまったく違っていた。借りでも償いでもない。彼が見つけた新しい道。そのために、会社さえも辞めたのだ。辞表を出して、背広を着てここに来た。すべてを終わらせて、その上で新しい始まりを選んだ。

「一緒に考えましょう」

栞の口から自然と出た言葉だった。今度は迷いも震えもなかった。自分の声が、こんなにしっかりと響くことに、自分でも少し驚いていた。

「この店は祖母が守ってきた場所です。この商店街は、私が育った街です。それを、あなたと一緒に考えていけるなら——それが、いちばんだと思います」

航平は何も言わず、ただ深く頷いた。その目は少し潤んでいて、でも、まっすぐに未来を見据えているように感じられた。彼の視線の先には、もう過去ではなく、確かな明日がある。そう思えた。

カウンターの上には、二通の手紙がまだ置かれていた。十年前に出せなかった想い。でも今は、それらがただの「過去」になっていた。二人で開き、二人で涙を流し、二人で乗り越えた。その事実が、確かな重みを持ってここにあった。黄ばんだ封筒はもう、未練の象徴ではなく、ここまで来るための道標だった。

栞は、空になったカップを手に取り、もう一杯淹れるために立ち上がる。湯気が立ちのぼり、陽の光を受けて白く輝いた。窓の外では、雲がさらに切れて、梅雨明けを予感させる強い日差しが商店街のアーケードに降り注いでいる。アーケードの水滴が、次々と乾いていくのが見えた。新しい季節が、すぐそこまで来ている。

コーヒーを差し出しながら、栞は静かに言った。カップを置く小さな音とともに、言葉をそっと乗せる。

「次は、私が聞く番ですね」

航平が顔を上げた。その目に、かすかな緊張の色が戻る。

「その火傷の痕のこと」

彼の肩がわずかに震えた。左手を、無意識に隠そうとしたのかもしれない。でも、思い直したように、彼は腕時計を見る仕草をやめた。指先が、一瞬だけ宙をさまよう。そして初めて、自分から左手首をカウンターに差し出すように置く。古い火傷の痕に、窓からの光が当たっていた。引き攣れた皮膚の表面を、朝の光がなぞるように照らしている。

まだすべてを話せるわけではないのだろう。それでも彼は、隠すことをやめたのだ。その選択だけで、十分すぎるほどの意味があった。栞はその手首をじっと見つめながら、次の言葉を待つ。カウンター越しの距離が、今は少しだけ近くなったように感じられた。手を伸ばせば、その傷に触れられるほどに。

雨のち喫茶、晴れのち君第11話 火傷の痕の向こう側