FeverStory

雨のち喫茶、晴れのち君

第4話 本当に謝りたい相手

相談所の片隅で富樫が口にした言葉は、私の足をその場に縫い止めた。

「婆ちゃんがな、一度だけお前に話しておきたいことがあるって言ってたんだ」

私は富樫の顔を見返した。他の店主たちが次々と相談所を出ていく背中が、視界の端を流れていく。雨脚はさっきより強まっていて、トタン屋根を叩く音が部屋の中まで響いていた。

「……どんなことですか」

「俺も詳しくは聞いてねえんだ。ただ、あの人は最期まで栞ちゃんのことを気にかけてた。店のことだけじゃなく、もっとなあ……まあ、俺の口から言うことじゃねえか」

富樫はそう言うと、帽子のつばを少し下げた。

「お前もいつか、自分の言葉で誰かに話す日が来るかもしれねえな。そのときまで、俺は余計なことは言わねえよ」

彼はそれ以上深くは追わず、他の店主たちと同じように相談所をあとにした。私はしばらくその場に立ち尽くしたが、これ以上ここにいても仕方がない。店に戻らなければ。

軒下をくぐって表に出る。相談所から「珈琲庵 ひだまり」までは、商店街のアーケードをまっすぐ歩いて五分とかからない距離だ。雨の石畳を踏みしめながら、富樫の言葉を反芻する。祖母が話したかったこと。今となっては、それを直接聞くことはできない。でも、祖母が私の知らない約束のことを富樫に話していたという事実は、何かが確かにそこにあったのだと示している。

店に着き、鍵を開けて中に入る。雨の日に特有の、古い木とコーヒーの匂いが混ざった空気が迎えてくれた。エプロンを手に取り、首にかける。閉店まであと一時間。今日はもう誰も来ないかもしれない。

カウンターに立ち、なんとなく棚の上のカップを並べ直す。祖母の代から使っている瀬戸物のカップは、どれも少しずつ形が違っていて、手に取るたびに祖母の指の感触を思い出す。

ドアベルが鳴った。

驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは航平だった。傘は差しておらず、スーツの肩が雨に濡れている。相談所で見たときよりも、目の下の隈が濃くなっているように見えた。

「……いらっしゃいませ」

私は平静を装って声をかけた。航平は少しだけ躊躇してから、カウンターに近づいてくる。まだ誰もいない店内を見回し、それから私の顔をまっすぐに見た。

「少しだけ、時間をもらえますか」

「どうぞ。おかけください」

航平はカウンターの一番端の席に腰を下ろした。私は彼の前に水の入ったグラスを置く。指先がかすかに震えているのを悟られないよう、すぐに手を引っ込めた。

「コーヒーを淹れましょうか」

「いえ、今日は結構です」

航平はグラスに手を伸ばさず、しばらく指を組んで俯いていた。窓の外で雨音だけが響く。あの日の説明会でも、一昨日この店に来たときも、彼は無駄なことは一切話さなかった。でも今は、何かを探すように沈黙している。

「先日の説明会では、ご迷惑をおかけしました」

やがて航平が口を開いた。その声は、普段の業務的な口調よりもずっと低い。

「迷惑だなんて、そんなことは」

「いいえ。あなたをああいう場に巻き込んだのは、こちらの手落ちです。本当なら、事前にもっと個別の話し合いを」

「航平さん」

私は彼の言葉を遮った。遮ってから、十年前と同じ呼び方をしてしまったことに気づく。航平も少しだけ目を見開いた。

「……ごめんなさい。久我さん」

「いえ」

航平はまた俯いた。左手首の火傷痕が、カウンターの灯りにほのかに浮かび上がっている。あの夏の夜、理科室で彼が私をかばった跡だ。その痕を目にすると、胸の奥がきしむように痛む。

「私は、迷惑をかけるつもりはありません」

航平はそう言って立ち上がった。

「あなたがこの店を大切に思っていることは、この前の説明会でよくわかりました。だからこそ、これ以上あなたを困らせるようなことはしたくない」

「困るって、何がですか」

私の問いに、航平は小さく首を振った。

「ただ、そういうことです」

彼は伝票を挟んだクリップの横に、名刺を一枚置いた。白い紙に、所属と名前だけが印刷された簡素なものだ。電話番号もメールアドレスもある。相談所の名刺とは別に、個人用のものなのだろうか。

「なにかあれば、こちらに。業務時間外でもかまいません」

「……どうして」

「さっきも言いました。ご迷惑をおかけしたくない。それだけです」

航平はそう言うと、深く一礼して入口へ向かった。私は追いかけようとして、エプロンの紐がカウンターの角に引っかかる。ほんの二、三秒の間だ。その間に、彼はドアベルを鳴らして外に出ていった。

ドアの向こうに、雨に濡れる背中が見える。航平は傘を差さず、小走りにアーケードの向こうへ消えていった。

それから店に残ったのは、水の入ったグラスと、カウンターの上の名刺だけだった。名刺を手に取り、印刷された文字をなぞる。紙はさらさらと乾いていて、雨の気配はどこにもなかった。航平は最後まで、傘を差そうとしなかったのだ。

翌日の午後、空はまだどんよりとした雲に覆われていたが、雨は小降りになっていた。

私はランチタイムの片付けを終え、カウンターで次の仕込みのための豆を選別していた。午後の客足はいつも少ない。今日はまだ誰も来ていない。

そんな静かな時間に、ドアベルが控えめに鳴った。

「ごめんください」

入ってきたのは、まだ三十代半ばくらいの女性だった。薄いベージュのトレンチコートに、黒いパンツスーツ。髪は肩のあたりで切りそろえられ、仕事のできる雰囲気をまとっている。一目で商店街の人間ではないと分かった。

「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」

女性は店内を軽く見渡し、窓際の二人掛けの席に腰を下ろした。荷物を隣の椅子に置き、メニューを手に取る仕草は慣れている。

「ホットコーヒーをお願いします」

「かしこまりました」

私はサイフォンに火を入れ、今日のブレンドを淹れ始める。湯が沸き上がり、豆の粉がふわりと膨らむのを待つ。この作業は何度繰り返しても気持ちが落ち着く理由が、自分でもよく分かっていた。

コーヒーをトレイに乗せて席まで運ぶと、女性は「いい香りですね」と微笑んだ。

「この辺りでは有名な老舗だと聞いてきました」

「ありがとうございます。ご近所の方ではないですよね」

「ええ。東京から来ました。この町には学生時代まで住んでいたんですけれど」

女性はコーヒーを一口飲んでから、トレイの上の伝票をちらりと見た。

「篠原さん、とおっしゃるんですか」

「はい。篠原栞といいます」

「私は二ノ宮美咲と申します。いまは都内で弁護士をやっています」

弁護士。その言葉に、私はかすかに身構えた。再開発と何か関係があるのだろうか。

「実は、栞さんにお話があって来ました。突然押しかけてすみません」

美咲はそう言って、カップをソーサーに戻した。

「どのようなご用件でしょうか」

「久我航平のことです」

彼の名前が出るとは思っていなかった。私は手に持ったトレイを胸の前に抱え、黙って美咲の次の言葉を待った。

「航平は今、私の事務所が顧問を務めている開発会社のプロジェクトチームに所属していて、この町の再開発を担当しています。それはご存じですよね」

「はい。説明会でお会いしましたから」

「それで、ここ最近の航平の様子が、少し変わったんです」

美咲は窓の外のアーケードを見つめた。雨が引いたあとの路面に、薄日が差し始めている。

「私たちは大学の同級生で、卒業後も何度か一緒に仕事をしてきました。だから分かるんです。彼が何かを抱え込んでいることは」

「それが、私と関係があると?」

「ええ。この町に来てから、航平が初めて自分の意思で動き始めたんです。今まではただ業務をこなすだけだったのに、この商店街のことになると、妙に必死になる。それは多分、栞さんの存在が絡んでいるからじゃないかと思って」

私はトレイを握る指に力を込めた。何と答えればいいのか分からない。

「昔のことを、話してもいいですか」

美咲は私の沈黙を肯定と受け取ったようだった。

「航平の家は、彼が高校三年の冬に壊れたんです。お父さんの会社が潰れて、借金を抱えたまま夜逃げ同然に東京へ行った。航平は進学を決めたあとだったのに、卒業式の翌日にはもう、この町にはいられなくなってた」

指先が冷たくなる。あの雨の日の卒業式。私が店を継ぐと言い、航平が東京へ行くと言った日だ。

「彼は誰にも連絡しなかった。友達にも、お世話になった人たちにも。もちろん私にも、話してくれるまで何年もかかりました。最後に手紙を出した相手がいるとは言ってましたけど」

手紙。その言葉に、胸の奥が刺すように痛む。

「それで、彼は元気なんですか」

ようやく口にした問いは、あまりに月並みだった。でも、それ以外に今の私が尋ねられることはなかった。

「仕事は真面目にやっています。むしろ真面目すぎるくらいで」

美咲は少しだけ口元を緩めた。

「ただ、彼はこの十年、ずっと何かに縛られて生きてきた。誰にも本当のことを言えなかった負い目と、言わなかったことへの後悔と。私が話せるのはここまでです、これ以上は航平自身が話すべきことだから」

美咲はコーヒーをもう一口飲んだ。カップの中身はもう残り少ない。

「私はただ、彼がこの町で何かを変えようとしているなら、それはきっと過去と向き合おうとしているからだと思ったんです。そしてその過去は、あなたが握っている」

「私には、何も」

「航平は、この町でたった一人、本当に謝りたい相手がいるんです」

美咲の声は穏やかだったが、その言葉は重く響いた。

「謝りたい、ではなくて、謝るべき相手です。少なくとも彼はそう思っている。でも、どうやって切り出せばいいか分からない。だから名刺を渡すことくらいしかできなかった」

昨日の航平の姿が蘇る。濡れたスーツ、濃くなった隈、カウンターの上に残された名刺。「ご迷惑をおかけしたくない」という言葉だけを残して去っていった彼の背中。

「それ、私が聞いてもいい話だったんですか」

「航平には内緒です。栞さんも、私が来たことはできれば伏せていてほしい。でも、知っておいてほしかった」

美咲はそう言うと、ハンドバッグから財布を取り出した。

「あの、コーヒー代は」

「お気持ちだけで。わざわざ来ていただいて、それで十分ですから」

私がそう言うと、美咲は少し困ったような顔をしたが、やがて財布をしまった。

「ありがとうございます。そういう店が、まだこの町に残っているんだということを、航平はきっと伝えたかったのかもしれませんね」

美咲は立ち上がり、トレンチコートの襟を整えた。

「ごちそうさまでした」

「また、いつでもどうぞ」

ドアベルが鳴り、美咲が出ていく。外は雲の切れ間から、かすかに日が差していた。梅雨の晴れ間というほどではないけれど、それでも光がアーケードの濡れた石畳を照らしている。

私はカウンターに戻り、昨日航平が置いていった名刺をもう一度手に取った。白い紙の上で、名前が淡々と並んでいる。

航平もまた、あの日の別れに縛られていたのだ。

私だけじゃなかった。十年間、彼も同じように、過去の言葉にできなかったことと向き合い続けてきた。その重さを思うと、胸の奥で何かが少しだけ、ほぐれていくような気がした。

名刺をエプロンのポケットにしまい、私は次の豆の選別に手を伸ばした。指先はもう、震えていなかった。

夕方の柔らかな光が沈み、翌日の夕暮れがアーケードを橙色に染める頃、私は「星見の井戸」と呼ばれる裏通りの古井戸の縁に手を置いていた。ひんやりとした石の感触が指先から伝わり、風が湿った土の匂いを運んでくる。

相談所から店に戻ると、雨はすでに小降りになっていた。軒下の雨水がぽたりぽたりと途切れがちな間隔で落ちている。

エプロンを手に取ったまま、しばらくカウンターに立っていた。今日、私はみんなの前で話した。祖母が遺した時間を守りたいと。あの言葉に嘘はない。でも、それだけでは足りないこともわかっていた。

守るとは、具体的にどうすることなのか。

考えがまとまらないまま湯を沸かそうとした時、ドアベルが鳴った。

「まだ開いてるか」

ヨシオだった。濡れた帽子を入口の傘立てに預け、いつものカウンター席に腰を下ろす。

「コーヒーでいいか」

「ああ」

私は肯いて、サイフォンに手を伸ばした。豆を挽く音だけが店内に満ちる。ヨシオはしばらく黙っていたが、湯が上がる頃合いを見計らったように口を開いた。

「今日はよう言ったな」

サイフォンのガラスがかすかに震えた。私は何も答えず、抽出に集中するふりをした。

「婆ちゃんがな、一度だけ俺に言ったことがあるんだ」

ヨシオはカウンターの木目を指先でなぞりながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「この店と土地は、栞にしか守れねえって」

カップを置く手が止まった。

「……祖母が、そんなことを」

「ああ。栞が高校生の頃だったかな。再開発の話が最初に持ち上がった時だ。婆ちゃん、役所に呼ばれてな。その帰りに俺の店に寄って、ぽつりと言ったんだ」

ヨシオは遠くを見る目をした。

「あの子が帰ってくる場所を、なくすわけにはいかないんだってな」

祖母は知っていたのだろうか。私がいつかここに戻ってくることを。それとも、戻ってきてほしいと願っていたのだろうか。

どちらにせよ、祖母は私にこの店を託した。ただの建物ではなく、そこで流れた時間ごと。

「……店を守るって、どういうことなんでしょう」

私の声は、自分でも驚くほど細かった。

「それはお前が決めることだ」

ヨシオはコーヒーをひと口含み、ゆっくりと嚙み締めた。

「ただな、栞。守るっつうのは、前を向くことでもあるんだ。昔をそのままにして置いとくだけが守ることじゃねえ。お前がこれからどうしたいか——それを決めるのが、本当の意味で店を守ることだと俺は思うよ」

前を向くこと。

私は祖母の形見の腕時計にそっと触れた。風防の小さな傷が、指先にわずかに引っかかる。

「ありがとうございます」

そう言うのが精一杯だった。でも、不思議と声は震えていなかった。

ヨシオは何も言わずにコーヒーを飲み干し、いつものように釣り銭をトレイに置いて席を立った。

「明日は晴れるといいな」

入口で帽子をかぶり直しながら、彼は空を見上げて言った。

閉店後、私はしばらくカウンターに座っていた。祖母が遺した言葉は、重いけれどあたたかかった。個人的な未練や、過去への執着だけではなかったのだと、初めて腑に落ちた気がした。

店を守ることは、祖母から託された役目だ。それは枷ではなく、私が選び取る道だった。

翌日も、雨は降らなかった。

雲はまだ低く垂れこめていたけれど、傘を手に取らずに済むだけで気持ちが軽くなる。ランチタイムの賑わいが落ち着いた頃、常連の美咲が顔を見せた。

「栞ちゃん、昨日の説明会、どうだった?」

美咲はカウンター越しに身を乗り出すようにして尋ねた。商店街の若手で、雑貨店を営んでいる。私より五つほど年下だが、肝の据わったところがある。

「少しだけ、話をしました。自分の気持ちを」

「えらいじゃない。どういう気持ち?」

「……店を守りたいと。祖母の時間を、ここに残したいと」

美咲はしばらく私の顔をじっと見つめ、それからふっと表情を緩めた。

「よかった。栞ちゃんがそう言うなら、うちも頑張ろうかな」

「美咲さん……」

「だってこの商店街、好きなんだもの。古くて、ちょっと寂れてて、でもここでしか買えないものがある。ここでしか会えない人がいる」

彼女はコーヒーカップを両手で包み込み、湯気ごしに微笑んだ。

「それに、再開発の担当の人って、けっこう話がわかるんだってね。先輩の役所勤めの友達が言ってた。無理に全部壊そうってわけじゃなさそうだって」

航平のことを言っているのだと気づいて、私は少しうつむいた。

「……そう、なんですか」

「あ、知り合い?」

「昔、少しだけ」

それ以上は訊かずに、美咲は「ふうん」と言ってコーヒーを飲んだ。彼女はそういう加減を知っている人だった。

夕方近く、買い出しから戻る道すがら、私は商店街の裏手に足を向けた。

星見の井戸。

古い石組みの周りには苔がむしていて、もう何年も水を汲んだ形跡はない。それでも、この場所だけは昔と変わらずにそこにあった。

近づくにつれて、誰かの気配に気づいた。

井戸の縁に手を置いて立っているのは、航平だった。

私の足音に振り返り、彼は少し驚いた顔をした。でもすぐに、納得したような表情になる。

「……来ると思ってました」

「どうしてここを」

「わかりません。ただ、なんとなく」

航平は井戸の縁から手を離し、私に向き直った。スーツ姿ではない。今日はグレーの開襟シャツに、濃紺のチノパン。休日なのかもしれない。

「あなたに、言わなければいけないことがあります」

航平の声は低く、けれどはっきりと響いた。

「十年前、約束を守れなかった」

私は息を呑んだ。

「ここで、あなたは言いました。いつか一緒にこの商店街を守ろうと。それに、俺は——」

航平はそこで言葉を切った。左手が無意識に、右手首のあたりを握っている。火傷の痕があるあたりだった。

「俺は、何も言わずにここを出た。理由はあった。でも、それを伝えなかったのは、俺の弱さです」

風が吹いて、井戸のそばの楠がざわめいた。

航平がこんなふうに言葉を選びながら話すのを、私は初めて見た。十年前の彼はいつも率直で、迷いのない言葉を持っていた。でも今の彼は、一つひとつの言葉を吟味するように、少しうつむきながら話している。

「謝る資格なんて、ないのかもしれない。でも」

「私も」

言いかけた航平の言葉を遮って、私は口を開いた。

「私も、言えなかったことが、あります」

喉が詰まるような感覚があった。でも、今日こそは言わなければ。ヨシオが言っていた「前を向く」とは、きっとこういうことだ。

「あの日、あなたを見送ることしかできなかった。本当は、引き止めたかったのに。一緒にいたいと言えなかった。怖かったんです。自分の気持ちを伝えて、それで壊れてしまうのが」

自分の声が、遠くから聞こえるようだった。

「だから、あなただけが悪いんじゃない。私も、何も言えなかった」

航平はじっと私を見ていた。夕暮れの光が、彼の輪郭を淡く縁取っている。

「……そうか」

彼は小さく息を吐いた。それは安堵のようにも、諦めのようにも聞こえた。

「ありがとう」

航平が言った。その一言に、十年分の重みが込められている気がした。

井戸の水面はここからでは見えない。それでも、深く静かな水が今もそこにあることを、私は知っている。この場所で交わした約束が、ずっとこの町の底に沈んでいたことも。

「俺は、再開発の担当者です」

航平が唐突に言った。

「それ以上でもそれ以下でもない。でも、あなたの店については——」

「それは、仕事の話ですよね」

私がそう言うと、航平は少しだけ笑った。初めて見る、十年前の彼に近い表情だった。

「ええ。でも今は、仕事の話はやめておきます」

航平は時計を見た。もう行かなくてはならない時刻なのだろう。

「また、店に寄ってもいいですか」

「……コーヒーなら、いつでもお淹れします」

それだけを言って、私は井戸に背を向けた。

航平もまた、反対の方向へ歩き出した。駐車場へ向かうのだろう。振り返りはしなかった。それでよかった。今はまだ、振り返るには早すぎる。

私はひとり、井戸のほとりに残った。

縁に手を触れる。石は冷たく、苔の感触が湿っていた。手首の腕時計が、縁にこつんと当たる。ふと文字盤を見ると、針は止まっていた。ずっと昔に止まったまま、私はこの時計をかけ続けていたのだ。

いつから止まっていたのだろう。いや、いつ止まったのかは、本当はわかっている。十年前の、別れの日だ。

祖母の形見の腕時計は、あの日の時間を刻んだまま、私の手首で止まっていた。

雨のち喫茶、晴れのち君第4話 本当に謝りたい相手