雨のち喫茶、晴れのち君
第5話 止まった針と刻印
腕時計を外して、文字盤を拭く。
止まった針は、夕方の四時半を指したままだった。あの日、私がこの時計を見たのは、井戸のほとりで航平を待っていたときだ。風もないのに、時計の秒針だけがやけに大きく耳に残っていたのを覚えている。待ち人は来なかった。それでも私は、約束の時間から一時間も、そこに立っていた。蝉の声だけが、私の周りをぐるぐると回っていた。
あれから十年。動かない針を見つめるたび、過ぎ去った時間の重みを感じる。この時計は祖母の形見で、亡くなる間際に「あんたにあげる」と細い声で言って、私の手首に巻いてくれたものだ。その祖母も、三年前にこの世を去った。でも今日は、それを外そうと思った。
「おかしいな」
留め金が固くなっている。長いあいだ外したことがなかったから、金具の継ぎ目に細かな埃が詰まっているのかもしれない。指先に力を込めても、金属は肌に食い込んだまま離れない。私は苦笑した。まるで時計のほうが、私を離したくないと言っているみたいだった。
ドアベルが鳴った。
私は手首から指を離し、カウンターの向こうへ意識を切り替えて顔を上げた。
入ってきたのはスーツ姿の女性だった。ベージュのジャケットに、同系色の細身のパンツ。肩で切りそろえた髪が、動きに合わせて小さく揺れる。控えめなパールのピアスが耳たぶで光っていた。一目で商店街の人間ではないと分かる、仕立ての良い立ち姿だった。履き慣れたパンプスの音が、店内の静けさに軽いリズムを刻んでいる。
「いらっしゃいませ」
女性は店内をゆっくりと見回してから、カウンター席の一番奥に腰を下ろした。バッグを膝に置き、背筋を伸ばす。その仕草には無駄がなく、仕事のできる人間特有の落ち着きがあった。
「ホットのブレンドを」
「かしこまりました」
私はサイフォンに火を入れた。アルコールランプの青い炎が、ガラスの底を舐めるように揺れる。湯がせり上がり、豆の粉がふわりと膨らむ。焙煎したての苦みと甘さが、空気に溶けていく。この一連の動作が、いつも私を落ち着かせる。ところが今日に限って、背中に刺さる視線がそれを許さなかった。彼女はただ座っているだけなのに、空気が少し張り詰めたように感じる。
「篠原さん、ですよね」
声に、私は振り返った。女性はバッグから名刺入れを取り出し、一枚差し出す。指先のネイルは透明で、サイフォンの火を受けてきらりと光った。
「私、鴻巣と申します。久我と同じ部署で、このプロジェクトの渉外を担当しています」
名刺には「都市計画部 課長代理 鴻巣美咲」とあった。肩書きの隣に書かれた小さな会社のロゴが、妙に現実味を帯びて目に飛び込んでくる。
「航平さんの……お知り合いですか」
「大学の同級生です。もう十年以上の付き合いですね」
鴻巣はそう言って、口元だけで笑った。目は笑っていない。値踏みするような、あるいは何かを確認するような視線が、一瞬だけ私の顔を走った。
私はコーヒーを差し出しながら、なんと答えるべきか迷った。カップの縁から立ちのぼる湯気が、ゆらゆらと揺れている。航平の同僚ということは、再開発の担当者だ。でも、今この店に来たのは単なる視察だろうか。それにしては、彼女の目の奥にあるものが、少しだけ違う気がした。
「いい香り。航平が『この街に来たら絶対に寄れ』って言うはずです」
鴻巣はカップを両手で包み、一口含む。湯気が彼女のまつげをかすめて、すぐに消えた。
「……航平さんが、ですか」
「ええ。彼、このプロジェクトを自分から志願したんです。珍しいでしょう。ああいう男が、自分の意思で異動を願い出るなんて」
指先が少し冷えた。志願した。その言葉が、頭の中でこだまする。サイフォンの火がゆらめき、ガラス管の中でコーヒーが小さく泡立つ音だけが聞こえていた。航平はこの街に、自分の意志で戻ってきたのだ。
「色々あったみたいで。大学に入ってからも、ずっと無理をしてました。周りに溶け込もうとして、必要以上に明るく振る舞って。でも、心のどこかで何かを抱えているのが分かるというか」
鴻巣はカップを置き、私をまっすぐに見た。カウンターに落ちた水滴を、人差し指でそっと拭う。
「篠原さんは、久我の中学時代をご存じなんですよね」
問いの形を取りながら、それはほとんど確認だった。彼女の声には、すでに答えを知っている者の静かな確信が滲んでいる。
「……ええ、少しだけ」
「そうですか」
鴻巣はそれ以上、過去には触れなかった。代わりに、窓の外のアーケードにちらりと目をやり、こう付け加えた。
「彼、最近少し変わりました。この街に来てからだと思います。無理に明るく振る舞うのを、やめたというか。元々そういう人だったのかもしれませんけど」
私はカウンターの縁を指でなぞった。木の感触がひんやりとしている。何年もかけて磨かれた表面は、手のひらに吸いつくように馴染んだ。
「鴻巣さんは、航平さんとは長いんですね」
「腐れ縁ですよ。仕事では頼りになりますけど、プライベートは全然で。何しろ十年近く、まともに恋愛してるところを見たことがない」
鴻巣は笑いながら言ったが、目はやはり笑っていなかった。私はその視線の意味を計りかねて、曇ったグラスを布巾で拭くふりをした。布巾のざらついた感触が、冷えた指先にやけに大きく感じられる。
「いい店ですね」
鴻巣は改めて店内を見渡した。壁の古い時計、棚に並ぶ瀬戸物のカップ、祖母が集めた小さな小物たち。それぞれに積もった時間が、静かに息づいている空間だった。
「航平がこの店のことを話すとき、声が少し柔らかくなるんです。理由がわかりました」
「……そう、ですか」
「ええ。だからこそ、ひとつお伝えしておこうと思って」
鴻巣は姿勢を正した。カップの中のコーヒーが、わずかに揺れる。
「彼は今、かなり難しい立場にいます。プロジェクトは一時保留という形ですが、上の意向は早期の再開です。その中で、彼はこの商店街全体と、この店のことを、どうにか両立させようとしている」
「両立……」
「そこに個人的な感情を持ち込むべきじゃない、と私は思っています。でも彼は、そう割り切れる人間じゃなかった」
鴻巣は立ち上がり、トレンチコートを手に取った。袖を通しながら、もう一度だけ店内を見渡す。その目が、カウンターの隅に置かれた祖母の写真で一瞬止まったように見えた。
「コーヒー、美味しかったです。ごちそうさま」
千円札をカウンターに置く。私は釣りを渡そうとしたが、彼女は手のひらで制した。
「お釣りは結構です。また来ます。この街のことも、もっと知りたいので」
ドアベルがもう一度鳴り、鴻巣の背中がアーケードの薄闇に消えた。ドアが閉まる寸前、湿った外気が店内に流れ込んで、サイフォンの火をちらつかせた。
私はカウンターに手をつき、しばらく動けなかった。
航平が自ら志願した。
その事実が、胸の奥で小さく波紋を広げている。彼はこの街に戻ることを選んだ。そして、店のことを気にかけながら、担当者として板挟みになっている。
なぜ今、彼は戻ってきたのだろう。十年前、何も言わずに去った彼が、なぜ。あの日の井戸のほとりで、私はずっと待っていた。時計の針が四時半を指したまま止まったことにも気づかず、ただアスファルトの照り返しに目を細めながら。
私は無意識に、祖母がいつも座っていたカウンターの隅を見た。そこには古い帳簿や伝票の束が置かれているだけで、特別なものは何もない。でも祖母は、あの場所で帳簿をめくるたび、何かを思い出したように顔を上げて、私を見て微笑んだ。その皺だらけの手が、そっと私の手を包んだ感触を、今でも時々思い出す。
胸の奥が少し痛んだ。
時計の針は、まだ止まったままだ。私は手首の留め金に再び指をかけた。今度は金具が素直に外れて、するりと腕から抜けた。長年肌に触れていた革の裏側は、表よりも色が濃くくすんでいる。命のない針が、蛍光灯の光を鈍く反射していた。
止まったままの祖母の時計を、私はエプロンのポケットにそっと入れた。布越しに、金属の冷たさがじんわりと太腿に伝わる。
商店街のアーケードを抜けたところで、航平は足を止めた。
手にした図面ケースを持ち替え、何気なく視線を上げた先——「珈琲庵 ひだまり」のガラス越しに、栞の姿が見えた。古びた看板の下、カウンターに立つ彼女の向かいには、見覚えのある女が座っている。
鴻巣美咲。
航平の指から力が抜け、図面ケースの角が腿に当たった。鈍い痛みが走るが、それに気を取られる余裕もない。
美咲が笑っている。あの仕事用の顔だ。何かを話し、栞がわずかにうつむく。その表情はここからでは読み取れない。ただ、栞の肩が小さく強張ったように見えた。カウンターの向こうで、彼女は何かに耐えるように、背筋をぴんと伸ばしている。
美咲がこの店に何の用だ。
胸の奥がざわつく。同僚としてではない勘が、航平の足をその場に縫い止めた。十年前、何も言えずにこの街を去ったときと同じ——動くに動けない自分が、ガラスの向こうにいる。あのときも、言葉が喉の奥で絡まって、何ひとつ伝えられないままバスに乗ったのだ。
店に入るべきか。いや、今の自分が入れば、事態はもっとややこしくなる。
美咲が笑顔で栞に手を振り、席を立つのが見えた。航平は半歩、アーケードの柱の陰に身を寄せる。柱のひんやりとしたコンクリートが、背中に当たった。ドアベルが鳴り、美咲が店を出る。彼女は航平に気づかず、迷いのない足取りで反対側の通りへと歩き去っていった。パンプスの音だけが、アーケードに遠ざかっていく。
航平はしばらく、閉まったドアを見つめていた。ガラスの向こうで、栞がひとり、動かない。
店内では彼女が、カウンターに手をついたまま時間を止めている。背中越しにも、その戸惑いが伝わってくるようだった。かつて数学の教科書を広げながら、難しい問題にぶつかったときと同じ——あの頃も彼女は、こんなふうに肩を丸めて考え込んでいた。
入って、何を話す。
美咲が何を伝えたのか、確かめる権利が自分にあるのか。
航平は図面ケースを小脇に抱え直し、踵を返した。アーケードを抜け、駐車場へ向かう足音だけがやけに大きく響く。商店街の古いスピーカーから、夕刻を知らせるオルゴールのメロディが流れ始めていた。歪んだ音が、湿った空気に滲んでいく。どこかで雨戸を閉める音がした。
店に戻るのは、また別の日にしよう。
そう自分に言い聞かせながらも、航平の頭の中では、美咲の笑顔と栞の強張った肩が繰り返し浮かんでは消えていった。
閉店の看板をかけ、ドアの鍵を回す。
カチャリという音が、やけに店内に響いた。一日の終わりに必ず聞く音なのに、今日はそれが妙に胸にしみる。栞はしばらくドアノブに手をかけたまま、冷たい金属の感触を確かめるように、深呼吸をひとつ。美咲が去った後も、航平が自ら志願してこのプロジェクトを担当したという話が、頭の中で小さな棘のように引っかかっていた。
カウンターに戻り、トレイを片付け始める。美咲が使ったカップを手に取り、洗い場へ。湯気の立たなくなったコーヒーをシンクに流し、カップを軽くすすぐ。陶器の表面に残った口紅の跡が、水に溶けて消えていくのをぼんやりと見つめた。
食器を棚に戻そうとしたとき、カウンター席の端に、細長いものが置かれているのが目に入った。
手を伸ばして取り上げる。
万年筆だった。
ずっしりとした重みのある軸。深い藍色の塗装が、蛍光灯の下で鈍く光っている。キャップには細い金のラインが一本。使い込まれた気配はあるのに、傷ひとつない手入れの行き届きようだった。手のひらにのせると、ずしりと重心が手首に伝わる。
こんなもの、ここにあっただろうか。
栞は首をかしげ、キャップをそっと回す。天冠の部分に、小さく刻まれた文字。インクの青が、わずかに刻印の溝に残っている。
「K.K.」
指が止まった。
K.K.——久我航平。
心臓がひとつ、大きく脈打つ。手のひらの温度で、万年筆の軸がじんわりと温まっていく。今日、この席に座っていたのは航平だけだ。閉店間際の時間、アイスコーヒーを注文し、二十分ほど窓の外を眺めていた航平。あのときは気づかなかった。レジの向こうからは、手元までは見えなかったから。
万年筆を持つ手に、じわりと熱が集まる。
航平がここに座り、何かを考え、そしてこのペンを置き忘れた。それが彼のものである証拠が、キャップの小さなイニシャルだった。けれど、そのイニシャルは、私の知らない航平のものだった。
高校生の頃、彼は万年筆なんて使っていなかった。いつも胸ポケットに挿していたのは、プラスチックのシャープペンシルと、数学の授業で使う青いボールペン。あの小さな青いペンで、彼はよく図形を描いていた。それだけだったはずだ。なのに今、私の手の中にあるのは、大人的な落ち着きのある濃紺の万年筆で。
十年分の時間が、ずしりと手のひらに沈む。
この街にいなかった間、航平はどんな日々を積み重ねてきたのだろう。誰と出会い、どんな仕事を覚え、どんな場面でこの万年筆を手に取ったのだろう。打ち合わせの席か、あるいは遅くまで残業するオフィスで。私の知らない十年が、キャップの小さな刻印の向こうに、広がっている。
胸の奥が、きゅっと窄まった。それは嫉妬ではなくて、置き去りにされた時間への、どうしようもない哀しみに近い感情だった。
かつて隣の席で数学の問題を解いていた少年は、今やスーツを着て、イニシャル入りの万年筆を持ち歩く大人になった。あの火傷の痕はそのままなのに、彼の周りにあるものは、すっかり変わってしまっている。古い井戸はもう埋められて、代わりに知らない建物が建ったように、私の知っている航平の上にも、十年分の地層が積もっているのだ。
栞はペンをそっと握り直した。インクの匂いが、ほんの少し鼻先をかすめる。藍色の軸に、自分の指紋がうっすらと残った。
「明日、返さなきゃ」
声に出して言ってみる。けれど、その言葉はやけに空っぽで、店の静けさに吸い込まれていった。誰もいない店内に、自分の声だけがふわりと浮いては消える。
返すということは、また航平に会うということだ。そしてこのイニシャルが意味する、私の知らない時間のことを、また意識しないではいられない。
カウンターの引き出しを開け、奥の仕切りに万年筆を横たえる。引き出しの中には、使いかけの伝票や、古いボールペン、輪ゴムの束が無造作に並んでいる。その日常的な景色の中に、藍色の万年筆だけがよそよそしく光っていた。明日、航平が来なかったら。あるいは、この万年筆を取りに来たとして、どんな顔をして差し出せばいいのだろう。
引き出しを閉める音が、カウンターにこもって響いた。
店の明かりを落とし、バックヤードでエプロンを外す。壁にかけた祖母の写真が、薄暗がりの中で静かにこちらを見ていた。白黒のその写真の中で、祖母はいつもと変わらず微笑んでいる。栞は軽く一礼し、裏口から外に出る。湿った夜気が、火照った頬に心地よかった。
梅雨空の下、アスファルトに残った水たまりが街灯を映して揺れていた。明日は雨かもしれない。そう思いながら、栞はポケットの中で冷えた時計を握りしめて、商店街を後にした。
航平は自宅の玄関で靴を脱ぎ、スーツの上着をソファに置いた。疲れの染みた上着が、くたりとクッションに沈む。
静かな部屋。カーテンの隙間から、遠くの街灯の光が細く差し込んでいる。冷蔵庫の低い唸りだけが、部屋に満ちていた。壁にかかった時計の秒針の音が、妙に大きく感じられる。
鞄を机に置き、チャックを開ける。図面ケースを取り出し、明日の打ち合わせ資料を確認しようと手を伸ばして——
指が、空を切った。
鞄の内ポケットに、いつも差しているはずの感触がない。いつもなら指先が自然と探り当てる、あの藍色の軸の冷たさが、どこにもない。航平は眉をひそめ、もう一度手を入れて探る。名刺入れ、ボールペン、社員証。それだけだ。
胸のあたりが、すっと冷たくなる。
鞄の中身をすべて机の上に出した。資料、手帳、充電ケーブル、ハンカチ。けれど、あの藍色の軸だけが、どこにも見当たらない。部屋の明かりが、散らかった机の上を無機質に照らしていた。
航平は机に手をつき、小さく息を吐いた。
「……しまった」
声が、がらんとした部屋に落ちて、そのまま床に吸い込まれた。
今日、あの店で資料を開いたとき、たしかに胸ポケットから抜いたはずだ。書き終えて、机の端に置いて——そのままにしてきたのか。窓の外を見ながら考え事をして、コーヒーを飲み干し、伝票を手に取って。その間、万年筆のことはすっかり頭から抜け落ちていた。
彼女が、見つけるかもしれない。
いや、もう見つけている。あのカウンター席を片付けるとき、必ず目に入る位置だ。そしてキャップを回せば、小さな刻印がある。彼女はきっとそれを見つけて、手のひらにのせて、どういう顔をするだろうか。
航平は目を閉じた。
万年筆を失くしたことへの焦りではない。あのイニシャルが、彼女に見られたことへの、説明のつかない動揺だった。それが何を意味するのか、自分でもうまく言葉にできない。ただ、意図せず自分の内面の一片が、彼女の手に渡ってしまったような——そんな感覚が、じわりと胸の奥に広がっていく。高校生の頃には持っていなかったもの、この十年で身につけた大人の仮面のようなものが、たった一本のペンを通じて、彼女の前に晒されてしまったような気がした。
窓の外で、遠く雨音がし始めていた。静かな雨だった。窓ガラスに水滴が点々と張りついて、街灯の光をにじませている。
明日、店に行こう。そう決めるまでに、航平はしばらく机に手をついたまま動けなかった。机の上に散らばった資料の端が、エアコンの風でかすかに揺れている。あの店のドアを開けたとき、彼女はどんな顔で、あの藍色の万年筆を差し出すのだろうか。そして自分は、それを受け取りながら、何を話せばいいのだろう。雨音だけが、その問いに対する返事を待たずに、静かに夜を濡らしていった。