FeverStory

雨のち喫茶、晴れのち君

第6話 志願の真意

昼下がりの店に、ドアベルが軽やかに鳴った。

カウンターの棚を拭いていた手を止め、顔を上げる。入り口に立っていたのは、昨日と同じ薄いベージュのトレンチコートだった。鴻巣美咲は店内をぐるりと見渡してから、まっすぐにカウンター席へ歩いてくる。

「こんにちは。また来てしまいました」

「いらっしゃいませ」

笑顔で迎えながら、胸の奥で小さく息を詰める。昨日、航平が店の外から見ていたことに、彼女は気づいているのだろうか。いや、気づいていないからこそ、こうして再び足を運んだのだろう。

「今日はアイスコーヒーをいただけますか。蒸し暑くて」

「かしこまりました」

私はグラスを取り出し、氷を入れる。サイフォンから注がれるコーヒーの香りが、湿度を含んだ空気に広がった。

「昨日は長居してしまって。仕事の話ばかりで失礼しました」

グラスを彼女の前に置くと、美咲は一口すすってから顔をほころばせた。

「この苦味、やっぱり好きだわ。航平がよく『ここのコーヒーは違う』って言ってた理由がわかります」

カウンターの向こうで、私の指が一瞬だけ止まる。

「久我さんが、そうおっしゃっていたんですか」

「ええ。大学の頃からですよ。地元に帰るたびに寄ってたみたいで」

嘘だ、と思った。航平は十年間、この街に戻っていないはずだ。少なくとも、私は彼の姿を見たことがなかった。けれど、それを口にすることはできない。美咲の言葉には、私の知らない航平が息づいている。

「そうだったんですね」

短く返すのが精一杯だった。

美咲はアイスコーヒーをもう一口含み、グラスをカウンターに戻す。水滴が受け皿に小さな丸い跡をつくっていた。

「今回のプロジェクト、航平が自分から手を挙げたって聞いたとき、正直驚いたんです。あの人、こういう面倒な案件を好むタイプじゃないから」

グラスを持つ手が、わずかに震えそうになるのを堪えた。自分から手を挙げた。その言葉が、頭の中で反響する。

「……ご自身で志願されたんですか」

「ええ。彼、もともと別の部署だったんですけどね。再開発の話が出たとき、わざわざ異動願いを出したらしくて」

美咲の口調はあくまでも軽やかだった。世間話の延長線上で、何気なく差し出された事実。しかし、その一つひとつが、私の中で小さくない重さを持って落ちていく。

航平は自らこの街に戻ってきた。

その選択の理由が、私にはまったく図りかねなかった。

「あら、もうこんな時間」

美咲が腕時計を見て腰を浮かせる。グラスのアイスコーヒーはまだ半分以上残っていたが、彼女は伝票を手に取ると、きっちりした金額をカウンターに置いた。

「ごちそうさまでした。また寄りますね」

「ありがとうございます。お気をつけて」

ドアベルの音が、彼女の背中を見送る。店内に再び静けさが戻り、私はカウンターに手をついて、大きく息を吐いた。

自分から志願した。

その事実が、昨日から私の指先に残っている藍色の万年筆と、どう結びつくのか。考えれば考えるほど、胸の奥がざわついた。

ガラスの向こうで、空が急に暗くなる。

叩きつけるような雨が、アーケードの屋根を打ち始めた。さっきまでの蒸し暑さが嘘のように、大粒の水滴が地面を跳ねている。私は慌てて窓際の席へ行き、開け放していた換気用の小窓を閉めた。

通り雨は激しさを増し、アーケードのない路地では、水が川のように流れているのが見える。

美咲から聞いた話を反芻しながら、私はカウンターに戻って使い終わったグラスを下げた。航平の声が、昨日の彼の硬い表情が、脳裏に浮かんでは消える。

彼が自ら選んでここにいるのだとしたら。

でも、だったらなぜ——。

そこまで考えたとき、店の電話が鳴った。

古い黒電話のベルは、雨音に負けないほど耳障りだった。受話器を取ると、向こうから息の上がった声が飛び込んでくる。

「もしもし、栞ちゃん! 大変だ、ヨシオのじいちゃんが!」

向かいの乾物屋のおかみさんだった。

「どうしたんですか」

「路地で転んで頭を切ったんだよ! 雨で足元がすべって……もう救急車は呼んだんだけど、血がすごくて!」

受話器を握る手に力が入る。鼓動が早まった。

「どこですか」

「井戸のそばの路地だよ! あんた、すぐに——」

言葉の途中で電話を置いた。エプロンを外し、レジの鍵を掴む。看板を裏返しにして「準備中」に変え、私は雨の中へ飛び出した。

アーケードを抜けると、容赦のない雨が全身を打った。傘を持ってくる余裕もなかった。髪も服もあっという間に濡れていく。

路地の角を曲がる。石畳は水でぬめり、足を取られそうだった。井戸の手前で、小さな人だかりが見える。

「ヨシオさん!」

駆け寄ると、ヨシオは地面に座り込んでいた。頭から血を流し、顔色は紙のように白い。そして、その横に膝をついているのは——

航平だった。

彼はスーツの上着を脱ぎ、それを丸めてヨシオの頭部に当てている。白いシャツの袖口はすでに赤く染まっていた。

「すぐに救急車が来ます。動かないでください」

航平の声は落ち着いていた。彼は顔を上げると、私の姿を認めて、ほんの一瞬だけ目を細める。

「篠原さん。彼のかかりつけの病院は」

「星見中央です。長年、高血圧の薬を……」

「わかりました。救急隊に伝えます」

そう言うと、航平は片手でスマートフォンを取り出し、通話を続けながらヨシオの頭の止血を続けた。その動作に迷いはなく、雨に濡れた顔には、昨日の硬い表情とは別の、張りつめた真剣さがあった。

サイレンが近づいてくる。

救急車が路地の入り口に停まり、隊員たちがストレッチャーを下ろすのが見えた。私はヨシオの手を握り、「大丈夫ですからね」と繰り返しながら、頭のどこかで、さっき美咲が言った言葉を反芻していた。

航平が自分から志願したという事実。

そして今、航平がここにいるという事実。

その二つが、どうしても重ならない。

星見中央病院の廊下は、雨の日の午後だからか、ひどく静かだった。

処置室の前で、私と航平は並んで壁にもたれている。間には、二人分の間隔がぽっかりと空いていた。湿った服が肌に張りついて、ひんやりと冷たい。エアコンの風が、余計に体温を奪っていく。

航平のスーツの上着は、ヨシオの血で汚れたまま、彼の腕にかかっていた。ワイシャツの袖にも、こびりついた赤黒い染みがある。

私は何度か口を開きかけて、言葉を探した。

「……あの」

航平がこちらを向く。その顔はすでに、いつもの落ち着いた表情に戻っていた。

「本当に、ありがとうございました。航平さんがいなければ、もっと大事になっていたかもしれません」

私の声は、思ったよりもかすれていた。

航平は一瞬息を呑んだように見えたが、すぐに小さく首を振る。

「これは私の仕事ですから」

声のトーンが、まるで別人のようだった。

「視察中の事故は、我々の会社の責任です。当然のことをしたまでです」

温度のない言葉だった。さっきまでヨシオの頭を押さえていた手も、今はスラックスのポケットに深く突っ込まれている。

俯くより先に、目が熱くなるのを感じた。

「……そう、ですか」

それ以上は何も言えなかった。言いたいことはたくさんあったのに——なぜあの場所にいたのか、なぜ自分からこのプロジェクトを選んだのか、聞きたいことは山ほどあったのに——航平の「仕事ですから」という言葉が、すべてを遮っていた。

航平が、握りしめた拳を隠すように背を向ける。

「会社に事故の報告を入れてきます」

廊下を歩いていく背中を見つめながら、私は左手の腕時計に触れていた。祖母の形見の風防の傷を、親指でなぞる癖が出ていることに、しばらく気づけなかった。

処置室のランプは、まだ赤く灯ったままだった。

背を向けた航平が、それでも動かずに立ち尽くしている。私の時計の秒針だけが、やけに大きく響いているようだった。処置室のランプが消えるまで、あとどれくらいかかるのだろう。廊下の隅で、航平のスラックスが微かに擦れる音がした。彼はまだ、あの拳を握りしめたままなのだろうか。

背を向けた航平の肩越しに、処置室のドアが静かに開くのが見えた。

車椅子に乗ったヨシオが、看護師に押されて廊下に出てくる。頭には真っ白な包帯が巻かれ、左のこめかみのあたりにガーゼが厚く当てられていた。けれどその顔は、私たちを見つけるなり、皺を深くして笑み崩れる。

「心配かけたな」

ヨシオは包帯の下から、いつもと変わらない声を出した。少し掠れてはいたけれど、その軽さにはわざとらしいところがなくて、私は胸の奥から息が抜けるのを感じた。

よかった、本当に。

その安堵を言葉にするより先に、隣に立つ航平が動いた。

「この度の事故は、再開発計画の事前調査および安全対策に不備があったために起きたものです。計画の担当者として、深くお詫び申し上げます」

深々と頭を下げる航平の背中が、病院の白い廊下にすうっと弧を描く。スーツの肩に、まだうっすらと血がこびりついているのが見えた。私の服に付けてしまった分を拭いたのだろう、ハンカチを握ったままの右手に、かすかな赤みが残っている。

ヨシオは目をぱちぱちさせて、それから小さく手を振った。

「お前さんは役所の人間じゃないんだから、そこまで気負うな。建設会社の下請けなんだろ? 誰のせいでもない、わしが足を滑らせただけだ」

航平は、何かを言いかけた。

口がわずかに開き、喉が動く。けれど言葉は出てこなかった。一瞬だけ、眉のあたりに走った苦い皺が、そのまま消える。

その表情の変化を見たのは、私だけだった。

ヨシオはもう看護師に何か尋ねていて、航平の顔は見ていなかった。航平はすぐに無表情を取り戻し、もう一度だけ頭を下げる。

「……お大事になさってください」

その声にはさっきのような硬さはなくて、かといって柔らかいわけでもなくて。ただ、どこか遠くに向けて話しているような、不思議な響きがあった。

会計を済ませるという航平が窓口に向かう背中を、私は車椅子の横で見送った。

「栞や」

ヨシオが声を潜めて呼ぶ。私は車椅子の脇にしゃがみ込み、顔を近づけた。

「あの青年は、十年ぶりに戻ってきたんだろう」

どきりとした。ヨシオは続ける。その目は、まだ窓口で書類を受け取っている航平の後ろ姿をじっと見つめていた。

「昔から不器用で、自分を痛めつけるようなところがあったからな」

私は何も言えず、ただ黙ってヨシオの横顔を見つめた。祖母の代からこの商店街を見てきたこの人は、私が知らないたくさんのことを知っている。あの井戸の話をしてくれたときと同じ、静かで、でも確かな目をしていた。

「おばあちゃんから、聞いていたんですか」

「さあな。わしは何も聞いとらんよ。ただ、見ていればわかることもある」

ヨシオはそう言うと、少しだけ悪戯っぽく笑った。包帯の下の目が、若い頃の面影をちらりと覗かせる。

窓口のほうで、航平が領収書を受け取って振り返る気配がした。私は立ち上がり、ヨシオの車椅子を押す体勢に入る。

航平が小走りに戻ってきて、ヨシオの前に立った。

「お会計、済みました。タクシーを呼びますので、少々お待ちください」

「いやいや、そこまでしてもらうわけには」

「いいえ。ここまでは、私の——」

航平は一瞬息を呑み、それから言い直した。

「計画関係者としての対応です。どうかお受けください」

仕事ですから。そうは言わなかった。でも、その言葉は彼の口の中で同じかたちを取っているように、私には見えた。

ヨシオはしばらく航平の顔を見上げていたが、やがて小さくため息をついて頷いた。

「わかった。ありがたく世話になろう」

航平が受付へ向かうと、廊下に沈黙が落ちる。私は車椅子のグリップを握り直した。ヨシオの後ろ頭の包帯が、蛍光灯の下でやけに白く見える。

「いい青年だな」

ぽつりとヨシオが言った。

私は、ええ、とだけ応える。それ以上は、何を言っていいのかわからなかった。

航平の言う「仕事ですから」という言葉が、単なる職業的責任のようには思えなかった。もしそれだけなら、あんな風に頭を下げたあとで、言いかけた言葉を飲み込んだりはしない。あの一瞬の苦い皺は、仕事の顔でも、十年前の顔でもなくて、もっと深い場所から滲み出たもののように見えた。

タクシー乗り場へ向かう廊下を、三人は無言で進んだ。

病院の玄関を出ると、雨はすでに上がっていた。

アスファルトの窪みに水たまりが残っていて、街灯の光をぼんやりと映している。タクシーが一台、ロータリーに滑り込んできて、航平が運転手に商店街までの道を伝えるのを、私は車椅子を押しながら聞いていた。

ヨシオを後部座席に乗せ、車椅子をトランクに積む。航平が料金を先に払おうとするのを、今度は私が制した。

「ここからは、私が」

航平は一瞬、何か言いたそうに私を見た。けれど、すぐに小さく頷いて財布をしまう。

「……わかりました」

タクシーが発車する直前、ヨシオが窓を開けて顔を出した。

「栞、店は明日もやるのか」

「ええ、もちろんです。ヨシオさんが来られなくても、ちゃんと開けますから」

「そうか。わしも早いとこ治して、コーヒーを飲みに行くからな」

車が走り去ると、ロータリーには私と航平だけが残された。

濡れた路面に、ふたつの影が長く伸びている。

「歩きましょうか」

私が言うと、航平は小さく頷いた。

商店街まで十五分ほどの道のりを、私たちは無言で歩いた。さっきまでの雨で濡れた街路樹の葉が、ときおり水滴を落とす。航平は一歩後ろを歩いていて、その足音が水たまりを踏むたびに、小さく水の音がした。

何か話さなければと思うのに、言葉が見つからない。美咲さんから聞いたこと、ヨシオさんが言っていたこと、胸の中で渦を巻いているのに、どれも口にできないまま、アーケードの入り口が見えてきた。

そのとき、航平の足音が、ぴたりと止まった。

「篠原さん」

振り返ると、航平はアーケードの手前、街灯の真下に立っていた。濡れたアスファルトが、彼の顔の下半分をぼんやりと照らしている。

「私は、この街に戻ってくるべきではなかったのかもしれない」

その声には、さっきまで必死に隠していた苦さが、抑えきれずに滲んでいた。仕事の声でも、謝罪の声でもない。もっとずっと遠くから、この十年を越えて響いてくるような。

十年前、雨の商店街で聞いた声と同じ響きだった。

私は、何も言えずに立ち尽くした。

雨のち喫茶、晴れのち君第6話 志願の真意