FeverStory

雨のち喫茶、晴れのち君

第7話 十年前の、出せなかった手紙

アーケードの入り口で、航平の言葉が雨上がりの空気に溶けて消えるまで、私は動けなかった。

「戻ってくるべきではなかった」

その声がまだ耳の奥に残っている。十年前の雨の日、何も言えずに立ち去った航平と同じ響きだった。あのときも、今も、彼は自分を責める言葉だけを置いていく。

何か言わなければ。そう思ったときにはもう、航平は一歩下がっていた。

「送ります」

「……大丈夫です」

自分の声が冷たすぎただろうか。航平の表情がわずかに歪んだ気がしたが、夜の街灯の下ではよく見えなかった。

「では、お気をつけて」

彼は深く頭を下げると、来た道を戻っていった。アスファルトに伸びる影が短くなり、やがて街灯の輪の外に消える。私はアーケードの柱に手をついて、大きく息を吐いた。

次の朝から、航平は店に来なかった。

二日経ち、三日経った。梅雨の中休みなのか、珍しく晴れ間が続いた。カウンターに立つたびに、ついドアベルを見てしまう自分がいた。いらっしゃいませ、と言おうとして、誰も入ってこない入り口に向かって口を閉じる。

ヨシオはまだ自宅療養中で、店は一日に数人の常連が来るだけの静けさが続いていた。

そして本土祭りの前日。

午後になっても客はなく、私は店の奥から資材を運び出していた。明日の祭りでは商店街の各店が軒先に露店を出すことになっていて、この店もコーヒーのテイクアウト販売をする予定だった。折りたたみの長机、ガスコンロ、看板。ひとりで運べるものから少しずつ表に出していく。

ドアベルが鳴った。

顔を上げると、航平が立っていた。スーツではなく、濃いグレーのポロシャツにチノパンという私服姿だ。

「……いらっしゃいませ」

「こんにちは」

気まずい間が流れた。あの夜の彼の言葉が、まだふたりのあいだに澱のように残っている。

航平は店内を見回し、私が運び出そうとしている長机に目をとめた。

「明日の祭りの準備ですか」

「ええ」

「手伝います」

あまりに当然のような口調だったので、私は少しだけ驚いた。

「いえ、お客様にそんなことをしていただくわけには」

「篠原さん」

航平はまっすぐに私を見た。

「この前の帰り道、自分がなにを言ったか、ちゃんと覚えています。そのことについて、まだ何も説明できていません。でも、せめて今日だけは……役に立たせてください」

彼の左手が、無意識に右の手首を握っていた。

「ヨシオさんが動けないと聞きました。人手は多いほうがいいはずです」

確かに、資材の運搬はひとりでは骨が折れる。特に古いガスコンロは鋳鉄製で、持ち上げるたびに腰に響いた。

「……では、お願いしてもいいですか」

「はい」

航平はほんの少しだけ口元を緩めた。

まずは長机をふたりで表に運び、続いてガスコンロを店の軒下まで移動させる。私はコンロの設置場所を指示し、航平は無言でそれに従った。時折、位置を確認するために顔を近づけると、彼から微かに石鹸の匂いがした。

「もう少し右に」

「ここですか」

「そこでお願いします」

ぎこちないながらも、作業は進んでいった。あの夜の暗い響きは、とりあえず横に置かれている。それが航平なりの誠意なのだと、なんとなくわかった。

最後に残ったのは、奥の倉庫にしまってある古いサイフォン一式だった。明日はこれでまとめてコーヒーを抽出するつもりだ。木箱に収められたそれは、祖母の代から使っているもので、ずっしりと重い。

私が箱を持ち上げようと屈んだとき、航平が横から手を伸ばした。

「重いでしょう。俺が」

「大丈夫です、いつものことですから」

「篠原さん」

有無を言わせない声だった。私は少し驚いて手を離す。航平は木箱を持ち上げ、倉庫からカウンターの脇まで運んだ。

下ろすとき、箱の角が彼の左腕に当たったらしい。航平は顔をしかめ、無意識に袖をまくった。

私は息を呑んだ。

左手首の内側。ちょうど骨の出っ張りのすぐ上あたりに、火傷の痕があった。皮膚が引き攣れたようになって、周囲より一段白くなっている。大きさは五百円玉ほどだろうか。十年経っても、これだけはっきりと残る火傷。

あの夜、理科室で。アルコールランプが倒れて、航平が私をかばって。

記憶が、胸の奥で弾けた。

視線に気づいた航平が、はっとして手首を見る。それから急いで袖を下ろした。

「昔、火傷したんです」

たったそれだけだった。説明も、経緯もなく、彼はもう次の箱に手を伸ばしている。

私は口を開きかけて、閉じた。

なんと言えばいいのかわからなかった。あなたが私を守るために、と言う権利が、今の私にあるのだろうか。それに、彼があの夜のことを覚えているのかさえ、確かめられないまま十年が過ぎている。

「……そちらは軽いので、私が」

声が少し掠れた。

航平は何も言わず、木箱を棚の横に寄せた。火傷の痕を隠した左手は、もうポケットにしまわれている。

店内に、重い沈黙が落ちた。扇風機の羽が首を振るたび、カウンターの伝票がかさりと揺れる。

「あと少しですね」

航平が、まるで何事もなかったかのように言った。

「……ええ、これで大体終わりました」

私はそれ以上、火傷のことを訊けなかった。代わりに、冷蔵庫から麦茶の入ったピッチャーを取り出す。

「よろしければ、休憩になさってください」

航平は一瞬ためらい、それから小さく頷いた。カウンター席に腰を下ろした彼の背中が、どこかひどく疲れて見えた。

準備の済んだ店内を見渡すと、航平は静かに頷いてカウンターから立ち上がった。私もエプロンを外し、窓の鍵を一つひとつ確かめる。麦茶を飲み干したコップを流しに置きながら、彼はもう玄関の方へ歩き出している。

外に出ると、午後の湿った空気が肌にまとわりついた。シャッターを下ろす金属音が、アーケードに短く響いて消える。

「少し、歩きませんか」

店の戸締まりを終えた私に、航平がそう言った。アーケードの外では、午後の準備を終えた商店街が、どこか浮き足だった空気に包まれている。明日は星見神社の夏祭りだ。

「ええ」

「少し、歩きませんか」

店の戸締まりを終えた私に、航平がそう言った。アーケードの外では、午後の準備を終えた商店街が、どこか浮き足だった空気に包まれている。明日は星見神社の夏祭りだ。

「ええ」

並んで歩き出す。さっきまでの沈黙がまだ身体のどこかに残っていて、うまく言葉が出てこない。美咲さんから聞いたこと、ヨシオさんの怪我、そしてさっきの「戻ってくるべきではなかった」という言葉。どれも胸の中でとげのように刺さったままだ。

航平も何も言わなかった。ただ、私の半歩後ろを歩く速度が、いつもより少し遅い気がした。

商店街を抜けて、神社へ続くゆるやかな坂道にさしかかる。舗道の脇には紫陽花がまだ咲いていて、昨日までの雨の雫を花びらに溜めている。空は低い雲に覆われていたが、西の空の端だけが薄く明るんでいた。

ポケットの中で、航平のスマートフォンが震えた。

彼は立ち止まり、画面を見つめる。その眉が、ほんのわずかに寄せられた。

「……すみません」

私から数歩離れて、電話に出る。

「はい」

低い声。仕事の声だ。

「……明日、現場で会いましょう。今は手が離せませんので」

それだけ言って、通話を切った。

相手が誰かは聞かなくてもわかった。鴻巣美咲さんだろう。航平はスマートフォンをポケットに戻し、少しだけ歩調を速めて私の隣に並んだ。けれど、電話の内容について何も言わない。

私も何も尋ねなかった。

坂の途中にある石段をのぼると、星見神社の境内に出る。普段はひっそりとしている場所が、今日は提灯の準備に追われていた。櫓の骨組みがすでに組まれていて、若い衆が数人、最後の調整をしている。地面にはテントを立てるための白線が引かれ、明日の賑わいを予感させた。

「明日は天気がもつといいですね」

私が言うと、航平は空を見上げた。

「台風が近づいているらしいです。進路によっては、明後日あたり崩れるかもしれませんが」

「本土祭りは無事にできそうですか」

「今のところは」

櫓のそばを通り過ぎるとき、風が吹いて、提灯の紐がかすかに揺れた。私は足を止め、柱に手を触れる。祖母と一緒にこの祭りに来たのは、小学校にあがる前だったろうか。

「子供の頃、祖母と来たことがあります」

気がつくと、口に出していた。

「階段で転んで、腕時計の風防に傷をつけてしまって。すごく泣いたんですけど、祖母は『傷は時計が生きた証だ』って笑って……」

そこまで話して、言葉が止まる。

祖母がなぜあのとき笑っていたのか。その本当の意味は、もっとずっとあとになって知った。戦争で早くに夫を亡くした祖母にとって、あの時計は残された数少ない形見だったのだと。

私は左手首の時計に、そっと指を置いた。風防の、小さな傷。

「……大切なものなんですね」

航平が言った。何かを言いたげな表情だった。けれど、彼はそれ以上は追求せず、視線を櫓の方へ戻す。

「そうですか」

その声が、やけに遠くに聞こえた。

境内の片隅では、露店の準備が進んでいた。焼きそばの鉄板を磨く若者、金魚すくいの水槽を並べる中年の夫婦。どの顔にも明日への期待が浮かんでいる。

「商店街も、出店を出すんですよね」

航平が尋ねた。

「ええ。うちはパンケーキと、アイスコーヒーのボトルを用意する予定です」

「それは楽しみですね」

形式的な会話。でも、それでいいと思った。さっきの「戻ってくるべきではなかった」という言葉を、まだ消化できていない私には、これ以上踏み込んだ話をする準備がなかった。

日が沈み始める。境内に点々と置かれた仮設の照明が、ひとつ、またひとつと灯っていく。オレンジ色のあかりが、櫓の骨組みに影を落とした。

「そろそろ戻りましょうか」

私が言うと、航平は小さく頷いた。

来た道を引き返す。坂を下りながら、さっきの電話のことが頭をよぎった。美咲さんは何を話したのだろう。航平があんなに短く切ったのは、私がいたからだ。それは間違いない。

商店街のアーケードが見えてきた頃、航平がふと言った。

「篠原さん、明日、店は出せそうですか」

「はい。久我さんのおかげで、なんとか」

振り返って笑顔を見せると、航平は一瞬、言葉を失ったように口を開けた。そしてすぐに目を逸らし、アーケードの天井を見上げるような仕草をする。

「そうですか。よかった」

声が小さい。心なしか、耳のあたりが赤いようにも見えた。

それきり、航平は何も言わなくなった。アーケードを抜けて、店の前まで戻ると、彼は軽く頭を下げる。

「それでは、また明日」

「おやすみなさい」

航平が歩き去る背中を、しばらく見送った。街灯の下を抜けて、角を曲がって見えなくなるまで。商店街の他の店主たちが、慌ただしく明日の準備をしている。金物屋の息子さんが台車を押しながら通り過ぎ、精肉店の奥さんが大きな声で何かを指示している。

私は店の鍵を開け、中に入った。

カウンターの上には、明日の祭りで使う備品が積まれている。紙コップの束、アイスコーヒーを詰めるボトル、それに簡易クーラーボックス。値札を書こうと用意したマジックが、無造作に転がっていた。

よし、と小さく息を吐く。

まだやることは山ほどある。パンケーキの生地は冷蔵庫で寝かせてあるし、シロップの瓶もチェックしなければ。値段表も書かなければならないし、釣り銭の用意もだ。忙しいのは嫌いじゃない。むしろ、体を動かしているほうがいい。

クーラーボックスに保冷剤を詰めながら、明日の段取りを頭の中でなぞる。開店と同時に露店に行って、ボトルを並べて——。

そのとき、ふと気づいた。紙コップの在庫が足りないかもしれない。

私はカウンターの奥、普段はほとんど開けない収納スペースに向かった。一番下の棚には、祖母の時代から使っている古い木の戸棚がある。年に数回、こうして備品を取り出すときだけ開ける場所だ。

しゃがみこんで、取っ手に手をかける。

蝶番が少し錆びついていて、ぎしりと音を立てた。中には古い伝票の束や、使わなくなった帳簿、それに包装紙のストックがぎっしりと詰まっている。紙コップは——これで足りるだろうか。

奥の方を探ろうと手を伸ばしたとき、指先に触れたのは、紙でもプラスチックでもない感触だった。

ざらりとした、少し湿り気を帯びた紙。

引っ張り出すと、それは黄ばんだ封筒だった。

私は動けなくなった。

封筒の表には、達筆な文字。

——篠原 栞 様。

その筆跡を、私は知っている。

高校のとき、何度も見た字だった。黒板の前で、ノートの端で、卒業アルバムの隅で。久我航平——あの人は、いつもこういうきれいな字を書いていた。

封筒を持つ手が震える。中には便箋が入っているらしく、折りたたまれた厚みが指に伝わってくる。封はしていない。糊付けされた痕はなく、ただ折り込まれているだけだった。

私はカウンターに戻り、封筒を置いた。

照明の下で見ると、紙の黄ばみがいっそうはっきりとわかる。十年という時間が、この封筒にも積もっているのだ。

こんな場所に、どうして。

祖母が隠したのだろうか。それとも、あの人が。

震える指で、封筒の中から便箋を取り出した。二つ折りにされたそれを広げると、きれいな縦書きの文字。ペンは万年筆だろうか、インクの色が少しだけ褪せている。右上には日付。それは、十年前の三月。あの人が東京へ発つ、数日前の日付だった。

「久我、さん」

声に出して読むのが怖かった。

便箋には、びっしりと文字が並んでいる。でも、最初の一行を見ただけで、胸が締め付けられるように痛んだ。

“お元気ですか。ずっと、こうして手紙を書こうと思っていました”

私は目を閉じた。

指が震えて、便箋をまっすぐに持てない。もう一度目を開けて、文字を追おうとするけれど、視界が滲んで意味をなさない。

十年前、渡せなかった手紙。

それは、私が書いたものじゃない。

この封筒も、この便箋も、この文字も——あの人のものだ。

久我航平が、私に宛てて書いた。十年前の、出せなかった手紙。

読みたい。でも、怖い。この中に書かれていることが、私の知っている十年を、音を立てて壊してしまいそうで。

私は便箋を胸に抱えた。インクの匂いはもうとっくに消えていて、ただ古い紙の匂いだけがかすかに残っている。

カウンターの端に置かれたマジックと値札の束が、現実の仕事としてそこにあるのに。明日の祭りの準備が、まだ途中なのに。

立ち尽くしたまま、動けなかった。

店内は静まり返っている。壁の古い時計が、規則正しく時を刻む音だけが、やけに大きく響いていた。

雨のち喫茶、晴れのち君第7話 十年前の、出せなかった手紙