雨のち喫茶、晴れのち君
第8話 十字傷と、まだ開かぬ手紙
蝋燭の火が揺れた。
閉店間際の激しい雨音に紛れて、ドアベルがかすかに鳴る。顔を上げると、ずぶ濡れのまま立ち尽くす航平がそこにいた。スーツの肩から水滴が滴り落ち、前髪が額に張りついている。外では風がアーケードの屋根を叩きつけ、雨脚はさっきよりもずっと強くなっていた。
「……停電、か」
航平は店内を満たす蝋燭の灯りを見渡し、それから私の顔に視線を戻した。カウンターの上には三本の蝋燭が立てられ、それぞれが心許ない光の輪を作っている。その瞳の奥に、何かが張り詰めている。蝋燭の芯がじり、と音を立てて燃え落ちた。
「どうして、こんな夜に」
私の声はかすれていた。昼間の祭りの準備で握ったままだった軍手が、カウンターの上に置かれている。右手の指先が、まだ微かに震えていた。軍手の指先には、提灯の紐を結んだ時の赤い染料が擦りついている。
「話があって来た」
航平は一歩踏み出す。革靴の中まで濡れているらしく、床に足跡がひとつ、ふたつ。その足音は、雨の轟きの中でも妙に耳に残った。水を含んだ革の重たい音だ。ずっと昔、同じ音を聞いたことがある気がした。
「計画を白紙に戻します。これ以上迷惑はかけられない」
蝋燭の灯りがまた揺れた。開け放したままの入口から、湿った風が流れ込んでくる。古い時計の秒針だけが、いつもと変わらぬ音を刻み続けている。壁に掛かったカレンダーには、明日の祭りの予定が幾度も丸で囲んであった。赤い丸が、蝋燭の灯りの中で滲んで見える。
「白紙に……それは、あなたが決められることなんですか」
「明日、正式に上申する。受理されれば次の担当者が来るまで時間はかかるだろう。だが少なくとも俺は、もうこの街には関わらない」
関わらない。その言葉が、胸の奥のどこかを冷たく刺した。まるで熱いコーヒーに落とした氷のかけらのように、じわりと、それでいて鋭く。
「どうして急に」
「迷惑をかけた。最初から、いるべきじゃなかったんだ」
航平はそう言うと、唇をきつく結んだ。蝋燭の火を避けるように、窓際の席へと視線を逸らす。窓の外では、雨が横殴りにガラスを叩いていた。その横顔を、私はずっと昔から知っている。何かを押し殺す時の、この表情を。
「迷惑だなんて、一度も」
「そういう問題じゃない」
遮る声には、どこか必死な響きがあった。蝋燭の火がその声に反応したかのように、また揺らぐ。
「俺は十年前の借りを返すつもりでここに来た。それなのに、かえって状況を悪くした。ヨシオさんの怪我も、結果的には俺が招いたようなものだ」
「それは違います。あの事故は」
「違わない」
航平は何度も首を振った。濡れた髪から水滴が弾け飛び、蝋燭の灯りを受けて一瞬だけ光る。その水滴が、まるで彼自身の言葉にならない何かを代わりに撒き散らしているようだった。
「責任を取るには遅すぎた。だからせめて、これ以上は」
「……十年も経って、今さら借りを返すとは、どういう意味ですか」
私の左手が、無意識にエプロンのポケットに触れた。そこにはない。あの手紙は、カウンターの引き出しにしまってある。見つけてからずっと、読めないまま。封筒の隅に書かれた日付と、その下の小さな「航平」の文字だけが、頭の中で繰り返し再生されていた。
航平は答えなかった。ただ唇を噛み締め、蝋燭の火を見つめているだけだった。蝋燭の芯が炭になって、ぱちりと小さな火花を散らす。彼の瞳の奥で、同じように何かが燃え尽きようとしているように見えた。
「あの手紙を、祖母の遺品から見つけました」
言葉が、静かに落ちた。
「あなたは、知っているのですか。あの中に、何が書かれているのかを」
航平の肩が、かすかに震えた。雨漏りでも始まったのか、窓際の床で水滴が跳ねる音がしている。
「……見たのか」
「まだ、読めていません。でも、あなたの字でした。十年前の、三月の日付で」
蝋燭の火が、また揺れた。今度は風のせいではなく、何かが通ったような揺れ方だった。店内を満たす雨音が、一瞬だけ強まる。
「そんなものは」
航平は声を絞り出すように言った。
「なかったことにしよう」
「……なかったこと?」
「あれは十年前の俺の勝手な思い込みだ。今のおまえには、関係ない」
「私には、関係ない」
繰り返した声が、自分でも驚くほど冷たかった。それは怒りというより、もっと深い場所から滲み出た言葉だった。
「そうやって、いつも決めるんですね。勝手に計画に志願して、勝手に戻ってきて、勝手に消えようとして。あげくに十年前の手紙まで、なかったことにしようと」
指先の震えが、手首まで広がっていく。軍手に隠れていない人差し指の先が、蝋燭の灯りの中で赤く染まっているように見えた。
「あなたはいつもそうだ。何も言わずに、全部ひとりで決める。私がどう思うかも、聞かずに」
息が詰まる。言葉が喉元でからまり、うまく出てこない。蝋燭の火が滲んで見える。雨の音が遠くなる。でも、止まれなかった。
「勝手に来て、勝手に……っ」
敬語のまま感情が溢れて、語尾が震えた。
「十年間、何も言わなかったでしょう。卒業してから一度も連絡を寄越さなかったくせに。今になって借りを返すだなんて、私のこと、全部なかったことにしようとしているのと、同じじゃないですか」
航平は俯いたまま動かなかった。スーツの袖から、まだ水滴が滴り落ちている。水滴が彼のこめかみを伝い、蝋燭の灯りを受けて光っている。十年分の沈黙が、その雫の中に閉じ込められているようだった。
「俺は」
絞り出した声は、嗄れていた。
「そうするのが、一番だと思った」
「誰にとっての一番ですか。私のためだとでも?」
沈黙。
それが、答えだった。
航平はゆっくりと顔を上げた。その目は、蝋燭の灯りのせいだけではない何かで揺れている。でも、唇は結ばれたままだった。本当に言いたいことを、十年間ずっとそうして閉じ込めてきたのがわかるほどに、その唇は真一文字に引き結ばれ、まるで縫い合わされた傷跡のようでもあった。
「違う!」
突然の叫びが、店内に響いた。
航平の拳が、カウンターの端に叩きつけられる。衝撃で蝋燭がぐらりと傾き、溶けた蝋が白く固まって机に広がり、マジックが床に落ちて鈍い音を立てた。蝋燭の火が激しく揺れて、壁に映る二人の影が一瞬、引き裂かれるように歪んだ。
私の左手首で、かすかな衝撃。
はっとして目を落とすと、祖母の形見の腕時計の風防に、新しい小さな傷がついていた。机の角にぶつかったのだ。かすかなガラスの傷。でも、その線はとてもくっきりとしていて、まるで最初からそこに刻まれる運命だったかのように見えた。
その傷を、私は知っていた。
違う。これは初めての傷じゃない。もうずっと前から、よく似た傷があった。同じ風防の、ほぼ同じ位置に走るもう一本の細い線。今ついた傷とぴったり重なるように、十字を描いている。
十年前。
高校三年の夏、理科室で。
航平が私をかばってアルコールランプの火から守ったあの時。私も何かを言おうとして、手を振り払われて、バランスを崩して——机の角にぶつけた。その時も、同じ場所に傷がついたのだ。あの日も、窓の外では雨が降っていた。放課後の理科室には、薬品の匂いと濡れた制服の匂いが混ざっていた。航平は私の腕をつかんで、強い力で引き寄せて、そしてすぐに離した。その手のひらは熱かった。
祖母は気づかなかった。それとも、気づいていて何も言わなかったのか。ただ「大事にしなさい」とだけ、いつも言っていた。皺の多い手で時計を磨きながら、何かを懐かしむような目で。
航平の左手首にも、あの時の火傷の痕がある。アルコールランプの火が、彼の腕を舐めたのだ。今もその痕は、白く残っているはずだ。袖の下で、ずっと。
そして今、また新しい傷が重なった。
蝋燭の火が、ゆらゆらと揺れている。壁に映る影も揺れている。
航平の拳は、まだカウンターの上で震えていた。指の関節が白くなり、そこに貼りついた水滴が、蝋燭の灯りを小さく反射する。叩きつけた拍子に皮が剥けたのか、薬指の付け根からかすかに血が滲んでいた。
彼は何も言わなかった。さっきの叫びが、すべてを出し尽くしたかのように。
私も動けなかった。
腕時計の風防の上で、十年前の傷と今日の傷が、十字に交わっている。小さなガラスの傷。まるで、ここから先へは進めないと言われているような、そんな形。でも、時計はまだ動き続けていた。祖母が生きていた頃からずっと、この時計が刻んでくれた時間。一緒に過ごした朝も、祖母を看取った夜も、航平と別れた雨の日も。そのすべてを、この細い秒針は見てきたのだ。
カウンターの引き出しの中には、まだ読んでいない手紙がある。封を切るのが怖かった。開けてしまえば、何かが終わってしまう気がして。
でも、もうわかっていた。この傷を見た瞬間に。
十年前も、私たちは同じように傷ついて、同じように黙ったままだった。手紙を書いても渡せなかった航平と、手紙を書けなかった私。理科室の火と、今日のこの机の角と。繰り返している。同じ場所で、同じように。まるで、私たちはずっとこの瞬間をやり直そうとして、そのたびに同じ場所で傷ついているみたいだった。
航平が拳をゆっくりと開いた。血の滲んだ薬指が、かすかに痙攣している。
だけど、それだけだった。何も言わず、何も掴まず、ただ手を開いただけ。その動作にすら、十年という距離があった。取り戻せない歳月が、その開かれた手のひらの上に、静かに積もっているようだった。風防の向こうで、秒針が規則正しく時を刻む。その音だけが、停電の静けさの中でやけに大きく響いた。
雨音は、まだ続いている。
昨夜の台風は明け方に過ぎ去り、街は重たい雲の下で静まり返っていた。まだ風の名残があちこちに残っていて、折れた小枝や千切れた葉っぱがアスファルトに張りついている。
航平は始発に近い電車に乗り、誰よりも早く星見開発本社の執務室に着いた。濡れたアスファルトの匂いが、まだスーツの袖に染みついている。彼は一枚の書類を机の上に置いた。離脱願い。たったそれだけの紙切れが、十年分の決断を凝縮していた。署名の墨はまだ乾きたてで、蛍光灯の下で鈍く光っている。
「どういうこと?」
美咲の声は静かだった。いつもの飄々とした調子ではない。彼女は書類を手に取り、目を走らせてから顔をあげた。その視線は、書類に書かれた文字よりも、航平の顔を探るように向けられていた。
朝、九時。
航平は窓の外を見ていた。昨夜の台風が過ぎ去った街には、まだ重たい雲が張りついている。ガラスに映る自分の顔は、ひどく無表情だった。まるで他人の顔を見ているようだ、と航平はぼんやり思った。一晩中起きていたせいで、目の下にうっすらと隈が浮かんでいる。
「昨夜、どこに行ってたの。あの雨の中で」 「……関係ありません」
美咲は書類を机に戻し、腕を組んだ。彼女の指先が、自分の二の腕をとんとんと叩いている。苛立ちを押し殺すときの癖だ。その指の動きには、プロジェクトをいくつも取りまとめてきたベテランの、冷静さと執念が同居していた。
「航平。あんたが自分からこのプロジェクトに志願した理由、私、知ってるつもりでいた」 「それはあなたの思い込みだ」
航平は振り返らずに答える。声は平坦で、感情の欠片も滲ませていない。窓ガラスに映る自分の顔が、まるで下手な肖像画のようにひどく無機質で、それが妙にしっくりきた。
「あの喫茶店の女の人でしょ」
美咲の言葉に、航平の背中がわずかに強張った。彼女はそれを見逃さない。ブラインド越しの曇り空の光が、彼の背広に薄い影を落としている。その影が、ほんの一瞬だけ濃くなったように見えた。
「違うとは言わないんだ」
航平はようやく振り返った。その顔を見た美咲が、わずかに息を呑む。航平の目は乾いていて、何かを押し殺したというより、すべてを燃やし尽くした後の灰のようだった。感情の燃え殻だけが、静かに積もっている。
「これは私の決断です。プロジェクトに迷惑はかけない」
彼は一礼し、執務室を出て行く。足音は規則正しく、迷いは微塵も感じられない。廊下にその足音が消えるまで、美咲は動かなかった。
彼女はしばらくその場に立ち尽くし、それから航平の机に近づいた。机の上には、使い込まれた万年筆と、整然と並べられたファイル。引き出しに手をかける。鍵はかかっていなかった。彼女の手が、整理されたファイルの奥にある一冊のノートに触れる。黒い表紙の、角が擦り切れたノートだ。
開くと、見慣れた文字が並んでいた。航平の万年筆のインクで、びっしりと。時に几帳面な箇条書きで、時に乱れた走り書きで、何ページにもわたって綴られている。それは、この街のために書かれた再開発の私案だった。数字と図面と、そして随所に差し挟まれた小さな喫茶店のスケッチ。カウンターの形、窓際の席の配置、そしてその隅に、いつも同じ横顔が鉛筆で描かれていた。
「……これ」
彼女はページを繰り、小声で呟いた。窓の外では、ようやく雲が切れ始めて、細い光が街に降り注ごうとしている。
「これで彼を引き戻せる」
美咲の指が、あるページで止まった。そこには、「祭り」という文字が大きく書かれ、その下に日付が記されていた。今日の日付だった。
珈琲庵ひだまりの店内は、いつもより二時間遅れて開店した。
それでも栞は、麻のエプロンを結び、コーヒーミルを回していた。豆を挽く音だけが、静かな店内に規則正しく響く。ミルのハンドルを回す手に、昨夜の震えはもうない。祖母から教わった通りの手順を、体が覚えている。
手が覚えている。
それだけが、今の自分を支えていた。粗く挽かれた豆の香りが、湿った空気の中に広がっていく。深煎りの、少し苦い香りだ。この香りは、何があっても変わらない。停電が明けても、雨が降っても、人はコーヒーを飲む。
松葉杖の音がして、栞は顔をあげた。かすかにアスファルトを叩く、独特のリズム。
「よう、開いてるか」
富樫ヨシオが入口でにかっと笑っている。頭の包帯はまだ取れていないが、松葉杖をつく手つきはだいぶ板についてきた。包帯の下から覗く白髪が、煤けたような色をしている。
「ヨシオさん。まだ無理をしては」
「無理じゃねえよ。暇で暇でよ。それに」
彼はカウンター席にどっかと腰を下ろすと、松葉杖を器用に椅子の背に立てかけながら、いつもの調子で言った。
「ばあちゃんが言ってたんだ。この店はお前さんにしか守れねえって。俺も手伝うから、ほら、なんかさせろ」
栞は何か言おうとして、唇を噛んだ。返す言葉を探すけれど、胸の奥に詰まった感情が、喉をふさぐ。祖母の言葉を、ヨシオは今まで一度も口にしたことがなかった。それを今、なぜ。
「……大丈夫です」
やっとのことでそれだけ絞り出すと、ヨシオは鼻を鳴らした。皺だらけの大きな手が、カウンターの上で所在なさげに丸まっている。
「その『大丈夫』は大丈夫じゃねえやつだろ。何十年、あんたを見てると思ってんだ」
ガラス戸が開いて、常連の夫婦が顔を出す。開店を待っていたらしい。二人の傘はまだ濡れていて、水滴が玄関マットの上に小さな染みを作った。
「あら、今日は開いてるわね」 「ブレンドを二つ、頼めるかい」
栞は深呼吸を一つして、カウンターに立った。エプロンの紐を、きゅっと結び直す。
「はい。少々お待ちください」
湯を沸かし、フィルターをセットする。ケトルの口から立ちのぼる湯気が、朝の光を受けて白く輝いた。蒸らしの時間も、注ぎ方も、何も変わらない。この店のコーヒーは、十年前から変わらず四百八十円だ。祖母が決めた値段。誰にでも手の届く、一杯の値段。
カップを差し出すと、ご夫婦はいつもの席でそれを啜る。二人とも、まずは香りを楽しみ、それから一口ずつゆっくりと飲む。その仕草が、あまりにもいつも通りで、栞の胸がきゅっと締め付けられた。
「やっぱりここのコーヒーが一番ねえ」 「そうだな。落ち着く」
何気ない言葉だった。でもその一言が、栞の胸のどこかに、ほんの小さな灯りをともす。まだ蝋燭にも満たないような、かすかな灯り。それでも、昨夜の闇よりは確かに明るかった。
ヨシオがカウンター越しに栞をじっと見ていた。彼は何も訊かなかった。航平が来たことも、何があったかも、まるで最初から知っているような顔で、ただ栞の手元を見つめていた。彼は松葉杖を立て直すようにして、軽く咳払いをする。
「祭り、明日は雨が残るかもしれねえが」
栞は窓の外を見た。厚い雲の切れ間から、かすかな光が漏れている。その光は、濡れた街並みを少しずつ乾かしていくように、ゆっくりと広がっていた。アーケードの屋根から、まだ水滴が落ちている。その雫が、陽の光を受けて、瞬間だけ宝石のように光る。
「そうですね」
そう答えた自分の声が、昨日よりも少しだけ、まっすぐに聞こえた気がした。まだ震えは残っている。でも、その震えはもう、指先ではなく、もっと深い場所で、次に進むための震えのように思えた。
カウンターの引き出しの中の手紙のことを、栞はまだ思い出していた。でも、今はまだ開けない。開けるのは、きっと今日じゃない。そう感じていた。まずは、明日の祭りの準備を終わらせなければ。祖母が毎年欠かさなかった、この街の祭りを。
窓の外を見上げれば、雲の切れ間がさらに広がって、雨上がりの空が顔を覗かせていた。