梅雨の商店街で、初恋のあなたが再開発を告げに来る
第5話 彼が去る前に、淹れたかったもの
朝一番の来客は、守谷さんだった。
ドアベルが鳴って顔を上げる。まだ開店前の「陽だまり」に、灰色の作業着姿が入ってきた。外は小雨だ。傘をたたみながら、彼は一瞬だけ口を開きかけて、やめる。
「守谷さん」
「すまないね、朝から」
いつもの調子ではない。カウンターに近づく足取りが重い。
「伊勢くんがね」
その名前で、私の手が止まった。
「今日の午前中、桜木駅から発つそうだ」
守谷さんはそれだけ言うと、皺の深い手でカウンターを二度、軽く叩いた。
「……そうですか」
声は自分で思ったよりずっと静かだった。昨日の廊下で聞いた「ありがとうございました」が、まだ耳の奥に残っている。
「伝えるべきか迷ったんだが」 「教えてくれて、ありがとうございます」
私はカウンターの下に手を伸ばした。昨夜遅くまでかかって書いた封筒が、まだそこにある。祖母が遺したコーヒー豆の在庫も、隣の棚に半分だけ残っていた。鮮度が命の豆だ。淹れるなら、豆の状態がいい今のうちだ。
左膝が、ずきんと疼く。今日はまだ雨が降っている。気圧のせいか、それとも。
「行くのかね」
守谷さんの問いに、私は封筒をエプロンのポケットに入れた。
「祖母のコーヒーを、まだ一度も淹せていませんから」
それだけ言って、店の鍵を手に取る。
守谷さんは小さく頷いた。その口元が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。
「ああ、そうだ。千景さん」
店を出ようとした私に、守谷さんが声をかける。
「トキさんが生きてたら、きっと同じことをしたよ」
私は一瞬息を止めてから、頷いた。
雨はまだぱらついている。傘は取らずに、私は走り出した。左膝が踏み出すたびに痛む。でも走らないと間に合わない。また何も言わずに、彼が行ってしまう。
桜木駅までは商店街を抜けて、短い坂を下りて、アーケードのない通りを五分。私鉄の小さな駅で、改札は一つしかない。朝の電車は一時間に二本。守谷さんの話からすると、おそらくあと十分ほどで発車のはずだ。
雨に濡れたアスファルトを蹴る。膝の痛みが、昔を思い出させる。高校二年の冬、商店街の階段で転んだあの日。駆けつけてくれたのは伊勢だった。それなのに。
息が切れる。でも立ち止まれない。
駅の入り口が見えた時、ホームに停車中の二両編成の電車が目に入った。発車ベルが鳴っている。
「伊勢さん」
声が出た。自分でも驚くほど大きな声だった。
「伊勢さん」
ホームに立つ背中が、ぴたりと止まる。
濃紺のジャケットに、小さなボストンバッグ一つ。振り返った顔には一瞬、驚きの色が浮かび、それからすぐに、何かを飲み込むような表情に変わった。
「……千景さん」
私は息を整えながら、彼に近づく。左膝が軋む。雨に濡れた前髪を手で払って、顔を上げた。
「また、何も言わずに行くんですか」
敬語だった。感情が高ぶると、単語のひとつひとつを区切るように話すのは昔からの癖だ。
伊勢は何も言わない。ただ、少しだけうつむいた。
「せめて」
私はエプロンのポケットから封筒を差し出した。ほんのりと、コーヒー豆の香りが立ちのぼる。便箋の間に、挽きたての粉の匂いが染みついていた。
「これだけは、受け取ってください」
伊勢の視線が封筒に落ちる。彼はバッグを足元に置き、両手でそれを受け取った。
「開けても」
「そのために書きました」
雨音だけがホームに響く中、伊勢は封を切った。白い便箋を取り出し、目を落とす。
私の手は無意識に、左手首を握っていた。書いた内容は覚えている。昨夜、カウンターの灯りの下で、何度も書き直した。
もっと短くするつもりだった。でも結局、余計な言い訳を全部削って、最後に一行だけ願いを書いた。
——祖母のコーヒーを、もう一度あなたに淹れさせてほしい。
伊勢の手が、便箋の端で少し震えていた。左手首に巻かれた古い時計が、雨に濡れて鈍く光っている。文字盤に細かい傷があるのは、この前の総会で机に置いた時から変わっていない。いつの間にか、また彼の手首に戻っていたのだ。
発車ベルがもう一度鳴る。ドアが閉まる合図だ。
伊勢が顔を上げた。その目は少し潤んでいて、でも口元は十年ぶりに見る、ごく自然な形をしていた。
「千景」
敬語が消えた。
「ありがとう」
たった一言だった。でもそれで十分だった。彼の声に、言い訳も、謝罪も、余計な説明もなかった。ただ、それだけ。
私は笑おうとした。でも上手くいかなくて、代わりに涙がひとつ、頬を伝った。
「……私、泣いてますか」 「ああ」 「変ですね」 「変じゃない」
伊勢は一歩、私に近づいた。電車のドアが、音を立てて閉まる。
発車のベルが鳴り終わり、車輪がゆっくりと動き始めた。窓ガラスの向こうで、車掌が私たちを一瞥して、そのままホームを過ぎていく。
伊勢は動かなかった。
電車が完全に行ってしまうまで、私たちは黙って立ち尽くしていた。雨が少しだけ弱まり、ホームの屋根を叩く音が和らいでいく。
「バッグの中、ほとんど何も入ってないんです」 「……そうですか」 「本当は、迷ってた」
伊勢は便箋を大事そうに折りたたむと、ジャケットの内ポケットにしまった。
「俺、この町で何ができるんだろうな」
それは問いかけのような、独り言のような調子だった。私はゆっくりと息を吸って、吐く。
「とりあえず、コーヒーの淹れ方からですね」
伊勢が少しだけ目を見開いて、それから静かに笑った。どこかぎこちなくて、でもたしかに笑顔だった。
数週間後。
梅雨明けの陽射しが、商店街のアーケードをくっきりと照らしている。
「陽だまり」の窓際の席で、守谷さんが折衷案の実行計画書を広げていた。保存が決まった南側の区画では、古い外装を直すだけの軽い改装が始まっている。
「じゃあ、あとは組合のほうで詰めておくよ」
守谷さんは計画書を脇に抱えて立ち上がる。
「伊勢くん、コーヒーはまた今度な」 「ええ、いつでも」
伊勢がカウンターの奥から顔を上げた。エプロン姿がもう板についている。
ドアベルが鳴り、守谷さんが出ていく。外はすっかり夏の空気だ。
伊勢がサイフォンに火を入れる。ロートの中で、お湯がゆっくりと上り始めるのを、彼はじっと見つめていた。その左手首には、あの古い時計が変わらず巻かれている。
キッチンタイマーが、カチリと鳴った。三分三十秒。
私はカウンター越しにカップを受け取る。立ちのぼる湯気が、懐かしい香りを運んできた。祖母のコーヒー。何百回と嗅いできた匂いだ。
でも、今度は少しだけ違う。
一口含む。苦味が舌の奥でゆっくりと広がり、それからふわりと消えた。
「苦い」
思わず笑った。全然完璧じゃない。祖母の味には、まだ遠い。
伊勢がカップを手にしたまま、私を見ていた。
「ああ」
それだけ言って、彼もまた笑った。
窓の外では、保存の決まった商店街のアーケードに、梅雨明けの光が満ちている。