再開発で揺れる商店街の片隅、古い喫茶店を守る彼女は、十年ぶりの再会とともに眠っていた手紙を見つける
第2話 十年目の雨、開かぬ手紙
商店街の集会所は、午後二時を過ぎてもまだ薄暗かった。窓という窓に雨が打ちつけ、蛍光灯の白い光だけが室内を照らしている。折りたたみ椅子が並べられただけの殺風景な空間に、あやめ通りの店主たちが三々五々に集まっていた。
栞は後方の席に座り、膝の上で両手を組んでいた。祖母の形見の指輪が、蛍光灯の下で鈍く光る。正面のホワイトボードには再開発計画の概要図が貼られ、東雲建設の社員が説明を始めようとしている。
開発事業部の部長が、計画の骨子を淡々と読み上げた。商業施設の誘致、歩道の拡張、耐震補強。十年以上も凍結と再始動を繰り返してきた計画は、今回こそ本格的に動き出すという。
反対派の乾物屋の主人が、声を張り上げた。
「立ち退きの補償はどうなるんだ。あんたたちの都合で店を畳めってのか」
「まだ正式な条件は——」
「まだじゃない、いつもそうだ」
賛成派の若い商店主が反論し、場がざわつき始める。部長が両手で制したが、声は収まらない。
その時だった。
栞は静かに立ち上がった。椅子の脚が床を擦る音が、やけに大きく響く。
「……少し、よろしいでしょうか」
声は震えなかった。不思議なくらいに。
部長が頷く。室内の視線が一斉に栞に集まる。前列の隅で、暁が微かに背筋を伸ばしたのが見えた。彼の隣には、若い女性社員が座っている。
「栞舍は、祖母が五十年前に始めました。この街で生きた人たちが、毎日のようにコーヒーを飲みに来てくれた店です」
栞は指輪にそっと触れた。
「私が守りたいのは、建物じゃありません。誰かが誰かの話を聞いて、時には泣いて、笑って——そうやって積み重なった時間そのものなんです。それはきっと、他のお店でも同じだと思います」
乾物屋の主人が、深く息を吐いた。反論していた若い店主も、腕を組んだまま押し黙る。
「計画に反対だと言っているのではありません。ただ、そこにあるものが何かを、知っておいていただきたいだけです」
栞は深く頭を下げ、再び席に着いた。誰も拍手はしなかった。けれど、ざわつきは嘘のように消えている。
暁はスーツの内ポケットに手をやった。
それは無意識の仕草だった。布越しに感じる封筒の感触。十年間、一度も手放せなかった紙の硬さが、指先に確かにある。
栞の声が、まだ耳の奥に残っていた。あの静かな語り口は、高校時代と何も変わっていない。
「課長代理?」
隣の美織が、怪訝そうに彼の横顔を見つめている。暁は慌てて手を下ろし、資料に視線を落とした。
「……いや、なんでもない」
「手、胸に当ててましたよ。どちらか痛められたんですか」
「気のせいだ」
暁は短く答えたが、美織の目はまだこちらを向いている。彼は顔を上げ、正面のホワイトボードを睨むように見据えた。部長が質疑応答の時間を告げ、何人かの店主が挙手する。そのやり取りを、暁は一言も聞き取れなかった。
説明会が終わり、参加者たちが席を立ち始める。
栞が廊下に出ると、後ろから早足の足音が追いかけてきた。
「小野寺さん」
振り返ると、青果店の岡部哲也が立っている。四十を過ぎたばかりの彼は、いつもと同じ紺の作業着姿だった。前は開けたまま、下のTシャツが汗で首元に張りついている。
「さっきの、よかったです。俺も同じことを考えてた」
岡部は少し照れたように頭をかいた。
「でも俺なんかより、ずっとちゃんと言葉になってた。小野寺さんて、すごいんですね」
「そんなことは……ただ、思ったことを」
「俺たちで守りましょう。ここにある店、このまま終わらせるわけにはいかない」
岡部の声は熱を帯びていた。けれどその目は、商店街の未来だけを見ているようには見えなかった。栞はわずかに口元を緩めたが、それ以上は何も言わなかった。
「……ありがとうございます、岡部さん」
曖昧な笑み。岡部は一瞬息を詰め、それから「じゃあ、また」と背を向けた。廊下を歩き去る後ろ姿の肩が、心なしか落ちている。
雨が少し弱まっていた。
暁は集会所を出ると、一人であやめ通りを歩いた。瓦屋根の商店が軒を連ねるこの通りも、今はシャッターを下ろした店が目立つ。かつてこの場所で過ごした日々が、雨に滲んだ景色の向こうに重なる。
「東雲さん」
振り返るより早く、美織が傘も差さずに追いついてきた。肩に水滴が光っている。
「この街に、何か思い入れでもおありなんですか」
暁は足を止めなかった。
「仕事ですから」
「目が、あの喫茶店の方を追ってました」
暁の歩調がわずかに乱れる。美織はさらに一歩、距離を詰めた。
「……余計な詮索は不要です」
声の調子を落とした暁に、美織は一瞬ひるんだ。けれどすぐに顔を上げ、正面から彼を見据える。
「このプロジェクト、あなたが自ら志願したと伺いました。東京からわざわざ、こんな地方都市の案件に——なぜこの街を?」
雨音だけが、ふたりの間を満たした。
暁は数秒の沈黙の後、ようやく口を開く。
「個人的な理由です。これ以上は」
背を向け、歩き出す。今度は美織も追いかけなかった。
通りを曲がり、彼女の姿が見えなくなったところで、暁は立ち止まった。雨はまた強さを増している。スーツの肩が濡れ、水滴が袖を伝って落ちた。
彼は内ポケットに手を差し入れた。指先が封筒の角に触れる。取り出そうとして——やめる。
路地の向こうから、買い物袋を提げた小柄な老女が歩いてくる。田中梅子だ。彼女は暁の姿を認めると、足を止めて首を傾げた。
「あの……東雲くん?」