再開発で揺れる商店街の片隅、古い喫茶店を守る彼女は、十年ぶりの再会とともに眠っていた手紙を見つける
第3話 ふたつの手紙、雨の栞舍
梅雨の雨は夕方になってもやむ気配がなかった。
再開発事務所の給湯室で、美織は湯呑みを手にしたまま暁を待っていた。説明会から三日。あれから暁は必要最低限しか口を開かず、商店街の地図を眺めてばかりいる。そして今日もまた、スーツの内ポケットに無意識に手をやる仕草を三度も見せた。
給湯室のドアが開く。暁が足を止めた。
「佐伯さん」
「東雲さん、少しだけ」
美織は湯呑みをカウンターに置いた。水道の滴る音だけが、ふたりの間に落ちる。
「この街の再開発、東雲さんが志願されたと伺いました」 「情報が早いですね」
暁は給湯室の入り口に立ったまま動かない。
「東京でいくつも案件を手がけられた方が、わざわざこんな地方都市に。理由をお聞きしても」 「仕事の一環です。理由はそれだけだ」
美織は暁の胸元に視線を走らせた。ネクタイの結び目、スーツの襟、そして内ポケットのあたり。
「そのスーツ、ずっと同じものですね」 「……何が言いたいんですか」
暁の声が一段低くなる。美織は一瞬息を詰めた。
「胸のあたり、いつも気にされていらっしゃる。何か大切なものが」
暁は答えなかった。代わりにドアノブに手をかけ、背を向ける。
「これ以上は」
給湯室を出る足音が廊下に消えるまで、美織はその場を動けなかった。
雨脚が強まっていた。
暁は無意識のうちにあやめ通りを歩いていた。瓦屋根から落ちる水がアーケードのひさしを叩き、通りには人気がない。シャッターを下ろした店が続く中で、喫茶店「栞舍」の窓だけがオレンジ色の灯りを漏らしている。
ドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
栞がカウンターから顔を上げる。暁の姿を認めた瞬間、その手が布巾を握りしめた。
「……いらっしゃい。今日はおひとり?」
暁は窓際のベンチ席に腰を下ろした。かつていつも座っていた席だ。
「説明会のときは、ありがとうございました」 「礼を言われることじゃないわ。ただの店主の独り言よ」
栞はカウンターの向こうでコーヒーを淹れ始めた。湯気が立ち、店内に苦い香りが広がる。
「それで、今日は」 「通りかかっただけだ」
会話が途切れた。雨音だけが満たす沈黙。
栞がカップを運んでくる。受け皿を置く指が、ほんの少しだけ震えていた。
「ブレンド。ずっと同じレシピよ」
暁がカップに手を伸ばしたその時だった。
ドアベルが激しく鳴り、美織が傘も差さずに飛び込んできた。肩が濡れ、前髪が額に張りついている。
「東雲さん」
美織の声は雨に濡れているのに熱を帯びていた。
「どうしてここまでするのか、説明してください」
栞が一歩後ろに下がる。美織の剣幕に、状況を飲み込めずにいる目。
「佐伯さん、ここは」 「あなたがこのプロジェクトを志願した理由です。言えないことなんですか」
暁は立ち上がった。スーツの肩に雨水がまだ残っている。
「仕事の話は事務所で」 「仕事の話なら、なおさらここでしていただきたい」
美織の視線が暁の胸元に釘付けになる。内ポケットから、ほんのわずかにはみ出した封筒の端。
「それは、なんですか」
暁が腕を動かすより早く、美織の手が封筒を引き抜いていた。
「お返し願えますか」
暁の声が変わった。低く、静かで、そして完全な敬語だった。給湯室で聞いた声よりずっと冷たい。
美織はたじろいだ。手にした封筒は古びて、角がすれている。十年という歳月を封じ込めたように、紙の色が変わっていた。
「これは……」
「お返し願えますか」
同じ言葉を繰り返した暁の目に、美織はそれ以上なにも言えなくなった。封筒が暁の手に戻る。
栞はその封筒を見つめていた。目が離せなかった。高校の制服、放課後の教室、書きかけては破り捨てた便箋の束。自分の筆跡を覚えている。あれは。
「……栞」
暁が顔を上げた。美織の前で、そして栞の前で、掠れた声を絞り出す。
「俺がこの街に戻ってきたのは」
雨音だけが店内を満たしていた。カウンターのコーヒーがゆっくりと冷めていく。
「お前に、会いたかったからだ」
美織の肩が震えた。唇を噛みしめ、一度だけ暁を見て、それからドアに向かって駆け出した。ベルの音が激しく鳴り、雨の音が一瞬だけ店内に流れ込む。
残されたふたりの間に、十年分の沈黙が横たわった。
栞はカウンターに手をついた。割烹着の胸元がしわになるほど握りしめる。唇が動いたが、声にならない。
「……いま、なんて」
暁は封筒をもとの場所にしまいこんだ。
「聞こえた通りだ」
それだけを言い残し、彼は雨の中へ出ていった。ドアベルが再び鳴り、今度は静かに扉が閉まる。
閉店作業の手が止まったのは、それから一時間ほど経ってからだった。
栞は窓際のベンチ席に座りこんでいた。外はもう暗く、雨はやむどころか強さを増している。暁が座っていた席の向かい側。高校生の頃、毎日のようにここで話をした。
「……会いたかったから」
声に出して繰り返しても、言葉はただ空気に溶けるだけだった。
カウンターの上には洗いかけのカップが残ったままだ。明日の仕込みもできていない。けれど身体が動かなかった。
雨音だけが響く店内。
栞はゆっくりと腰を落とした。ベンチの下、床板の隅。指先が触れた場所は、ほんのわずかに軋む。
ここだ。
十年前、祖母が入院した日。暁が東京に行くと聞いた日。書き上げた手紙を渡せず、この床下に差し込んだ。
指をかける。板が浮いた。
中から現れたのは、封筒だった。自分の筆跡。栞舍のロゴすらない、ただの白い封筒。
開けることはできなかった。代わりに胸に抱える。
雨音が遠くなった。目尻からこぼれた雫が、封筒の上に落ちて染みを作る。
どれだけそうしていただろう。
顔を上げると、窓ガラスの向こうに人影があった。
暁だった。
彼は店のすぐ外の路上に立っていた。傘も差さず、スーツはずぶ濡れで、右手には封筒を握りしめている。街灯の光が雨に滲んで、彼の輪郭をぼやけさせていた。
目が合った。
暁は店内の灯りを見上げ、栞の姿を認めると、ほんの小さくうなずいた。手にした封筒をかばうように胸に寄せる。
栞は胸の手紙を抱えたまま、窓辺に歩み寄った。ガラス越しの距離。雨がふたりの間を流れ落ちる。
暁はもう一度うなずくと、背を向けた。雨の中を静かに歩き去っていく。街灯がつくる影が、ゆっくりと伸びて消えた。
栞は窓辺に立ち尽くした。右手には十年前の自分の手紙。左手の薬指には祖母の金の指輪。どちらも、まだここにある。
雨はまだ、やみそうになかった。