FeverStory

雨の降る商店街で、初恋のあなたと十年ぶりに再会したけれど、互いに知らないふりをしている

第5話 十年越しの返事

夕方の光がアパートの窓をオレンジに染めている。

鏡の前で、私は三つのバングルを左手首に通した。細い銀の輪が、かちり、と小さく鳴く。祖母がいつもつけていた音だ。今度は、手紙をバッグに入れる。一度も出さなかった封筒。十七歳の私が、桐嶋旭に宛てて書いたもの。

バッグの口を閉じると、深呼吸を一つ。遠くから祭りの太鼓の音が聞こえ始めていた。

星見祭りの夜だった。

外に出ると、雨はもう上がっている。アスファルトが濡れて、提灯の光をぼんやりと映していた。私は歩き出す。商店街へと続く道を、一度も振り返らずに。

旭はノートパソコンの画面を見つめていた。

仮設オフィスの窓から、祭りの喧騒がかすかに届く。メールの件名には『五十嵐直樹による不正な空き店舗買収に関する内部告発』とある。添付ファイルは三つ。証拠のスキャンデータと、時系列の詳細なメモ。

送信ボタンを押すまでに、三十秒かかった。

指が、一瞬だけ止まる。この先、会社にいられなくなるかもしれない。業界から追われるかもしれない。けれど、それよりも。

咲良の顔が浮かんだ。

クリック音。画面に「送信完了」の文字。

旭はスマートフォンを取り出し、上司の番号を呼び出す。コール音が三回。出た相手に、簡潔に告げた。

「五十嵐の件、証拠をメールで送りました。ご確認ください」

電話を切ると、パソコンを閉じる。

立ち上がり、ジャケットを手に取った。机の上に置きっぱなしだった傘は、もう持たない。今夜は、雨は降らない。

「陽だまり」の店内はしんと静まり返っていた。

祭りの賑わいは遠く、ここだけ時間が止まったようだ。私はカウンターの前に立ち、旭が来るのを待っている。バッグから取り出した封筒が、手の中でかさりと鳴った。

ドアが開く。

旭だ。スーツのジャケットはなく、白いシャツの袖をまくっている。傘も持っていない。少し息が上がっているのは、走ってきたからだろうか。

「遅くなりました」

敬語だった。前回と同じ、心に壁を作る響き。

「いえ」

旭はカウンターの前に立ったまま、私を見つめる。私は、正面のテーブル席を指さした。

「座ろ」

向かい合って腰を下ろす。コーヒーも出さずに、二人きり。旭の左眉の傷が、店内のかすかな明かりの中で濃く見える。

旭が両手を膝の上で握りしめた。

「十年前のことです」

声が低い。まるで、ずっと用意していた言葉を読み上げるようだった。

「何も言わずにいなくなって、すみませんでした」

私は黙って聞いている。バングルが、そっと手首で揺れた。

「説明する資格なんてないって、ずっと思ってました。でも」

旭は一度、言葉を切る。

「知らないふりを続けるのは、もうできそうにない」

私はバッグから封筒を取り出した。旭の視線が、それに吸い寄せられる。

「私も」

声が少し震える。喉の奥で、何かがつかえている。

「ずっと言えなかったことがあるの」

封筒をテーブルの上に置く。黄ばんだ紙。何も書かれていない表。それでも旭には、もうわかっているようだった。

「昨日、見つけた。ずっと引き出しの奥にしまってた」

私は封筒の中から便箋を取り出し、そっと広げる。十七歳の文字が、そこに並んでいた。

「読んでいい、かな」 旭の声が、かすかに掠れる。 私は頷いた。

旭は便箋を手に取る。指先が、かすかに震えているのが見えた。彼はゆっくりと、一行一行を目で追っていく。

時間が、溶けていくようだった。

読み終えた旭は、しばらく顔を上げなかった。便箋をテーブルに置き、両の手のひらで目を覆う。

「……俺もだ」

絞り出すような声。

「俺も、咲良のことが好きだった。ずっと」

私の目から、涙がこぼれた。十年分の重さが、一粒になって落ちていく。

「でも、言えなかった」

旭は顔を上げる。その目が赤い。

「咲良のお父さんに言われたんだ。お前にうちの娘を任せられないって。あの頃の俺は、何も持ってなかった。学歴も、金も、将来の約束も」

私は息を呑む。父が、そんなことを。

「それで、俺は逃げた。何も言わずに町を出れば、咲良が俺を忘れて幸せになると思った」

「そんなこと」

私の声が鋭くなる。

「あるわけない」

旭は黙って私を見つめる。その眉の傷が、幼い日の記憶を呼び覚ます。私が石を投げてできた傷。あの日も、旭は何も言わなかった。

「あの朝も」

私は涙をぬぐわずに続ける。

「うちの前に、ずっといたんでしょ。一晩中」

旭の目が大きく見開かれる。

「幸恵さんが教えてくれた。あんた、ずっと立ってたんだってね」

「……気づいて、たのか」

「知らなかった。だから、ずっと」

私は封筒を見つめる。

「私のほうこそ、ちゃんと伝えればよかった。好きだって、ただの一度も言えなかった」

旭が立ち上がる。ゆっくりと、私の隣に来て、しゃがみ込んだ。視線が同じ高さになる。

「もう一度」

旭の声は、もう敬語じゃなかった。

「咲良を知りたい。知らないふりをやめて、初めから」

私は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、笑った。

「うん。私も」

旭の手が、テーブルの上で私の手に触れる。そっと、指を重ねた。体温が伝わる。十年ぶりの温かさだった。

私は空いている方の手を持ち上げ、旭の左眉にそっと触れる。指先が、古い傷の跡をなぞる。

「ごめんね」

小さな声だった。ずっと言えなかった言葉。

旭は静かに首を振る。

「気にしてない」

その目が、優しく細められた。

バングルが、かちり、と鳴った。

祭りの終わりが近づき、提灯が一つ、また一つと消えていく。私は「陽だまり」の戸を閉め、鍵をかけた。旭が隣で待っている。

「まずは」

旭が言う。

「明日の朝、ここでコーヒーを」

私は小さく笑った。

「いつものブレンドでいい?」

「ああ」

二人で歩き出す。雨上がりのアーケードには誰もいない。濡れた路面が、遠くの提灯の名残を映して、ゆらゆらと揺れている。

肩を並べて、ゆっくりと。

商店街の向こうで、星見祭りの最後の灯りが静かに消えていった。

遠くから祭りの片付けの物音が聞こえる中で、幸恵は「陽だまり」の方角をそっと振り返った。明かりの消えた喫茶店の前を、並んで歩く二人の影が遠ざかっていく。幸恵は小さく微笑み、手にした提灯を下ろして、星見祭りの会場へと歩き出した。

雨の降る商店街で、初恋のあなたと十年ぶりに再会したけれど、互いに知らないふりをしている第5話 十年越しの返事