FeverStory

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す

第1話 氷の騎士の銀眼

王宮大広間「星夜の間」の天井には、無数の魔石が星座のように散りばめられていた。オリオン、カシオペア、白鳥――夜空を模した配置の一粒一粒が、今はひときわ強く瞬いている。

柔らかな青白い光が、貴族たちの華やかな衣装を淡く照らしている。十二の円柱には蔦を模した金細工が絡み、壁面には歴代の王と后の肖像画がずらりと並ぶ。どの顔も、どこか値踏みするような目つきで、いまこの場に集う者たちを見下ろしていた。

その壇上で、レナード王子が高らかに声を上げた。

「諸君、今夜は我が人生における新たな門出を祝う夜である」

葡萄酒の杯を掲げ、黄金の髪を優雅にかきあげる。白い手袋に包まれた指先が、天井の魔石の光を反射してきらめいた。となりには桃色のドレスをまとったカミラ・ヴェルデが、可憐な微笑みを浮かべて立っている。ドレスの裾には真珠の刺繍が施され、彼女が呼吸をするたびに、それは波のように揺れた。

エリアナは壇下の中央で、その光景をじっと見つめている。

銀色の髪が魔石の光に照らされて真珠のように輝き、エメラルドの瞳は静かな湖面のようだった。細い指には祖母譲りの銀の指輪がひかっている。指輪の内側には、今はもう誰も読めない古い銘が刻まれていた。心臓が早鐘を打っていたが、表情は変えない。変わってはいけない。前世では、ここですべてを失った。

——前世と同じだ。

あの夜も、このようにして始まった。葡萄酒の甘い香りが漂う中で、金の髪の王子が笑い、桃色のドレスが揺れ、そして自分だけが一人、取り残された。

「私はここに宣言する。エリアナ・ヴェルデとの婚約を破棄し——」

会場がざわめいた。

扇の陰で囁きが飛び交い、老宰相が眉をひそめる。隣国の大使夫妻が困惑したように顔を見合わせた。誰かがグラスを落とし、かすかな割れる音が響く。すぐに給仕が駆け寄り、破片を拾い集めた。

レナードは得意げに続ける。声には、あらかじめ用意しておいた演説を読むような、わずかな抑揚があった。

「——真に我が心に適う、カミラ・ヴェルデを新たな婚約者として迎えることを」

カミラがうつむき加減に一歩進み出た。長いまつげを震わせ、まるで祝いの言葉を待つかのように手を胸の前で組む。桃色の唇がかすかに開き、息をのむような仕草。計算され尽くした、完璧な「可憐」だった。

前世のエリアナは、この場で声もなく立ち尽くした。

足が震え、指先は冷たくなり、衆目の前で涙をこぼした。こぼれ落ちた涙は大理石の床に小さな染みを作り、その染みを見つめながら、自分という存在そのものが染みのように扱われているのだと思った。それがレナードの思惑通りだったと知ったのは、ずっと後のことだ。毒杯をあおった夜、カミラの嘲笑を聞きながら。

——今回は違う。

エリアナはゆっくりと息を吸った。

冷たい空気が肺を満たし、前世の苦い記憶を押し流していく。指先がかすかに震えているのを感じ、それを隠すように両手を背中で組んだ。祖母の指輪が、冷たい感触を肌に伝える。彼女は一歩、壇に向かって踏み出した。かかとが石床を打つ音が、やけに大きく響いた。

「レナード殿下」

凜とした声が広間のざわめきを切り裂く。声は震えていなかった。少なくとも、自分にはそう聞こえた。

来賓たちの視線が一斉にエリアナへと集まった。百を超える瞳が、好奇と困惑と、ほんのわずかな期待を宿して彼女を見つめている。

「ただいまのご宣言は、法的に無効でございます」

レナードの手にあった杯が、かすかに揺れた。葡萄酒の液面が波打ち、杯の縁に赤いしずくがひとつ、伝う。

「……何?」

「婚約の破棄には、両家の魔力印を付した正式な契約書と、王家の承認が必須と定められております。口頭での宣告だけでは、いかなる法的効力も持ちません」

広間の空気が一変した。

若い子爵令嬢が息を呑み、胸元の扇をぎゅっと握りしめる。近くにいた老騎士が「ほう」と顎を撫でた。軍服の徽章が、わずかに揺れている。レナードの顔から笑みが消え、カミラの指がドレスの裾をぎゅっと握りしめた。真珠の刺繍が、一本の糸ごと引きつれた。

「エリアナ、おまえ……」

「これは私情ではございません。三百年前に制定された『婚約の不可逆性に関する王令付属魔術契約書』に明記された規定です。王族であれば、ご存じないはずはないかと存じますが」

エリアナは静かに続ける。口の中が乾いていた。舌が上顎に張りつく感覚をこらえながら、それでも声は途切れさせない。

「現行の婚約は、陛下の御前で両家が正式に取り交わした魔術契約によって成立しております。一方的な口頭破棄は、その契約違反に該当いたします」

レナードのこめかみに青い血管が浮いた。握りしめた拳が、白い手袋の上からもわかるほど強張っている。隣でカミラが何か囁こうとしたが、彼はそれを手で制した。

来賓たちの囁きが大きくなる。誰かが「確かにそうだ」と呟き、別の誰かが「これは面白いことになってきた」と扇の陰で笑った。老宰相は、無言で顎鬚を撫でている。その瞳は開かれた法典をめくるような冷静さでエリアナを見つめていた。

「そんなもの、後からいくらでも作成できる!」

「殿下」

エリアナは首をかしげた。銀の髪が肩から滑り落ち、魔石の光を受けて一瞬だけ青く光る。

「契約書の魔力印には発行日時が刻まれます。魔法時計による公式記録との照合も可能です。後付けが不可能であることは、王立魔法院の記録にもございます」

「黙れ!」

レナードが杯を床に叩きつけた。葡萄酒が白い大理石に飛び散り、近くの貴族たちが慌てて後ずさる。赤い飛沫は驚くほど遠くまで飛び、ある夫人のドレスの裾にまで届いた。悲鳴に近い声が上がり、給仕たちが再び駆け寄る。

「おまえは私を愚弄するのか! この場で、公衆の面前で!」

「殿下」

カミラがそっとレナードの腕に触れた。白い指が、震えている――それは本物の震えか、それとも演技か。前世でさえ、最後まで見抜けなかった。

「お姉さま、そんな言い方はないのではなくて? 殿下がお決めになったことですのに……」

潤んだ瞳でエリアナを見上げる。まつげの先に、涙の膜が張っていた。前世で何度も見た表情だった。可憐で、無垢で、だからこそ信用を落とすのに効果的な。誰もが妹を守りたくなり、姉を悪者にしたくなった。

だが今のエリアナには、それが逆に心地よかった。胸の奥で、何かが静かに燃えている。怒りではない。もっと冷たく、もっと確かなものだ。

「妹よ」

エリアナの声は変わらず穏やかだった。自分でも驚くほど、声は凪いでいる。

「あなたには、まだこの場で発言する資格がありません」

カミラの顔が凍りつく。頬の血色が引いていくのが、遠目にもはっきりと分かった。

「なんですって……?」

「婚約破棄の法的な成立を確認するまでは、あなたは依然として婚約者候補ですらありません。ヴェルデ家の次女として、公的な場において、発言権を持たない者が口を挟むのは……控えめに申し上げても、品位に欠ける行為かと」

カミラの頬が一瞬で紅潮した。口を開き、閉じ、指が震える。桃色の唇が言葉を探してわななくが、何も出てこない。隣に立つレナードすら、その剣幕に圧倒されたように一歩引いた。婚約者を守るべき王子が、その責務を忘れている。

来賓たちの間から、かすかな笑い声が漏れる。

「聞いたか、いまの」

「妹には資格がない、か。確かにその通りだ」

「ヴェルデ公爵が聞いたらなんとおっしゃるか……」

「しかしエリアナ嬢は見事だ。これほどの胆力とは」

歓声とも嘲笑ともつかない囁きが、さざ波のように広間を満たしていく。天井の魔石が、そのざわめきに呼応するように一瞬強く輝き、また静まった。レナードは歯を食いしばり、カミラは屈辱に唇を噛んだまま硬直していた。噛みしめた下唇が、白くなっている。

エリアナは背筋を伸ばしたまま、壇上の二人を見上げている。

指先がかすかに震えていたが、それを誰も気づかない。背中に薄く汗をかいていることも、膝の裏が震えていることも、誰にも見えていない。ただ、祖母の指輪だけが、その震えを知っていた。

——これで第一の壁は越えた。

前世ではこの夜会のあと、彼女は社交界から消えた。婚約破棄の恥辱に耐えられず、館に引きこもり、そこからすべてが転がり落ちていった。訪問者を拒み、食事もろくに取らず、窓も開けない部屋で、ただベッドに横たわり続けた。そして二年後、毒杯をあおった。

今回は違う。

法的な盾を使って時間を稼ぎ、その間に次の手を打つ。氷の騎士、アルヴィン・グレイヴとの政略結婚を成立させる。そうすれば、この国の王都にいる必要はなくなる。北のグレイヴ領は、ここから馬で一ヶ月。十分に遠い。

そこまで考えたときだった。

ふと、背中に奇妙な感覚が走った。首筋の産毛が逆立つような、肌を刺すような冷たさ。

誰かが見ている。

それも、ただの視線ではない。針のような鋭さで、それでいて凍りつくほど冷たい何か。まるで北の凍土から吹きつける風のような、無機質で、しかし確かな圧力。

エリアナは振り返った。

星夜の間の隅、十二本目の円柱の陰に、ひとりの騎士が立っていた。

長身で、漆黒の礼服に身を包み、左胸には氷をかたどった紋章が光っている。グレイヴ公爵家の家紋だ。氷の結晶を象ったそれは、見る角度によって青にも銀にも変わった。黒髪は無造作に後ろへ流され、切れ長の銀色の瞳が、まっすぐにエリアナを捉えていた。

アルヴィン・グレイヴ。

前世では、一度も関わらなかった男。

社交界でも常に孤立し、誰も近づけず、氷のように冷たい態度から「氷の騎士」と呼ばれていた。ダンスの誘いも、夜会の招待も、すべて断る。ただ北の国境を守ることだけに生きている、と誰もが噂した。レナードの婚約破棄騒動にも一切干渉せず、エリアナが毒殺された半年後、北の国境で戦死したと聞いた。遺体は見つからず、鎧の一部だけが雪原から回収されたという。

それが何故、いまここに。

エリアナの胸が、理由もなく高鳴る。心臓が肋骨を内側から叩いている。指先の震えが、さっきとは違う種類のものに変わった。

そのとき。

アルヴィンの左手の甲が、かすかに光を放った。

青白い燐光。彼の手の甲に埋め込まれた魔石が脈動している。光は規則正しく明滅し、まるで二つめの心臓のように、ゆっくりと、確かに。呼応するように、エリアナの指先の銀の指輪が微かに震えた。

視線が交錯する。

ほんの一瞬だった。時計の針がひとつ進むか進まないかの、ほんの短い間。

だがその瞬間、エリアナの脳裏に見たことのない光景がよぎった——吹雪の荒野、折れた剣、倒れる影、そして誰かの名前を叫ぶ声。その声は掠れ、風にかき消され、最後まで聞き取れない。

それは記憶ではない。こんな景色を見たことはない。だが、ただの幻覚でもなかった。雪の冷たさを、肌が覚えている。

既視感。

説明のつかない、けれど確かな何かが、エリアナの胸の奥に熱く灯る。それは痛みに似ていて、それでいて懐かしかった。

アルヴィンは一歩、こちらへ踏み出そうとした。黒い革靴が、石床の上でわずかに動く。

けれどその直前で、彼は立ち止まる。銀色の瞳がエリアナから外され、代わりに壇上のレナードへと向けられた。冷徹な、温度のない視線。それは一瞬で、先ほどまでエリアナに向けられていたものとはまったく異質のまなざしだった。

そして彼は、再び円柱の陰へと身を引いた。影が、彼の長身を包み込む。左手の光も、ゆっくりと消えていった。

エリアナは息を吐く。肺にたまっていた空気が、震えながら唇から漏れる。

心臓の高鳴りが、まだ耳の奥で響いている。鼓動が速い。指輪の震えも、まだ収まらない。

——あの騎士は、誰かに似ている気がする。

誰に、とは思い出せない。そもそも前世で会ったことすらないのに、似ているも何もないはずだった。けれど、その銀色の瞳を見たとき、自分の中の何かが確かに反応した。

「エリアナ!」

背後でレナードが叫んだ。声は怒りに震え、ほとんど金切り声に近かった。広間のざわめきが、その声で一瞬静まる。

「この場は一旦おさめるが、これは終わりではないぞ! いずれ必ず、正式な手続きをもって婚約を破棄する!」

エリアナは振り返らなかった。振り返る必要はなかった。レナードの顔など、見なくてもわかる。真っ赤になり、目を吊り上げ、拳を震わせているに違いない。

代わりに、わずかに口元を緩める。それは笑みだったのか、それとも単なる筋肉の動きだったのか、自分でも判断がつかなかった。

「ご随意に。ただし」

彼女は歩き出す。来賓たちが左右に分かれ、道を開けた。誰もが言葉を失い、ただ彼女の足音だけが広間に響く。かかとが大理石を打つ、規則正しい音。

「法は殿下の感情では動きません」

ざわめきが、波のように広がった。誰かの拍手が聞こえた気がしたが、それは気のせいかもしれない。

星夜の間を出る直前、エリアナはもう一度だけ振り返った。

十二本目の柱の陰。

そこにいた騎士の左手が、まだかすかに光っている。さっきよりも弱く、しかし確かに。彼の銀色の瞳は、今度こそ間違いなく、エリアナだけを見ていた。

そして彼は、今度こそエリアナに向かって、確かに一歩を踏み出した。柱の影から、魔石の光の下へ。漆黒の礼服が青白く縁取られ、左胸の氷の紋章がきらめく。

銀色の瞳が細められ、魔石の輝きが強くなる。エリアナの足が、その場に縫い付けられたように動かなくなる。スカートの裾が、風もないのに揺れた気がした。

胸の奥で、声にならない記憶がざわめいている。吹雪の声、折れた剣の響き、凍りついた地面に倒れる影。すべてが断片的で、しかし一つの線でつながっている。

——私は、あの男を知っている。

理由はなかった。理屈も、証拠も、何もかも。前世の記憶にも、今世の記録にも、彼との接点はどこにも存在しない。

だがその確信だけが、氷のように冷たく、炎のように熱く、エリアナの全身を貫いていた。

指輪が、もう一度だけ震える。

アルヴィンが、もう一歩踏み出す。

エリアナは、その場で息を呑んだまま、動けずにいた。

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す第1話 氷の騎士の銀眼