前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す
第2話 氷の騎士との契約
朝食の席は、冷えきっていた。
ヴェルデ公爵家の食堂は東向きの大きな窓から朝日が差し込むはずなのに、今朝はどんよりとした雲が空を覆っている。エリアナが席に着くと、すでに父は新聞を広げ、継母はティーカップを手にしていた。カミラだけが、意味ありげな視線を送ってくる。
「おはようございます、お父様。お義母様」
エリアナの声に、公爵は新聞から顔も上げなかった。継母の返事は、カップがソーサーに当たる小さな音だけだった。
かまわずに席に着く。ナプキンを膝に広げ、銀器を手に取る手つきは、いつも通り。冷めたスープを一口すくったところで、カミラが口を開いた。
「お姉さま、昨晩はお早くお帰りになったのね。せっかくの夜会でしたのに」
「ええ。目的は果たしましたから」
「目的?」
カミラの声が、わずかに高くなる。
「レナード殿下の婚約破棄宣言を、法的に無効とすることです」
食堂の空気が変わった。公爵の新聞を持つ手が止まり、継母のティーカップがまた鳴る。
公爵がようやく顔を上げた。五十を過ぎてもなお整った顔立ちには、娘に向けるには冷たすぎる目があった。
「エリアナ。お前は昨夜、軽率な真似をしたそうだな」
「軽率、でございますか」
「レナード殿下のご意向に逆らうとは、ヴェルデ家の立場を考えていないのか」
エリアナはスプーンを置いた。銀器が白いテーブルクロスの上で、かすかに光る。
「お父様。あの場で殿下の言葉を黙って受け入れれば、ヴェルデ家の名は『王子に捨てられる家』として社交界に刻まれるところでした。私の対応は、家名を守るためのものでございます」
「お姉さまったら、殿下に恥をかかせておいて」
カミラの言葉に、エリアナは静かに妹を見つめた。
「恥をかかせたのは殿下ご自身です。公の場で無効な宣言をなさったのですから」
継母が口を挟む。
「カミラの将来に響いたらどうなさるおつもり?」
「お義母様。妹は妹で、ご自身の道をお進みになればよろしいかと」
それだけ言うと、エリアナはナプキンを畳み、席を立った。
「ごちそうさまでした」
背中に、カミラの視線が刺さるのを感じながら、食堂を後にする。
自室に戻ったエリアナは、扉に鍵をかけてから深く息を吐いた。窓辺に歩み寄り、庭を見下ろす。庭師がせっせと薔薇の手入れをしているのが見えた。何も変わらない、いつもの朝。
だが、何もかも変わったのだ。
化粧台の引き出しから小さな真鍮の鍵を取り出し、ベッドの柱に彫られた葡萄模様の一部に差し込む。回すと、壁の一部が音もなく開いた。
中から取り出したのは、一冊の分厚い書類だった。
羊皮紙の表紙は年を経て飴色に変わり、端には「ヴェルデ家婚姻権限に関する魔術契約書」と銀の箔押しがある。祖母が生前、エリアナだけに託したものだ。
ページを開く。最初の数枚は家系図と財産目録だが、目的の条文はすぐに見つかった。
『ヴェルデ公爵家の令嬢は、公爵位継承者と同等の婚姻決定権を有するものとする。この権利は、当主といえども一方的に剥奪することはできず、王族との婚約においても優先される——』
条文をなぞっていた指が止まった。
余白に、走り書きがあった。かすれたインク。震えるような筆跡。
『真実の愛を見つけなさい。それが、あなたの——』
続きは読み取れない。祖母がいつ書いたものかもわからない。
エリアナは小さく首を振り、ページをめくった。感情に浸っている暇はなかった。
机に向かい、契約書の必要な部分だけを筆写していく。条文の文言を一字一句間違えずに、しかし魔力印の部分は外して。これは複製であり、原本の魔力は宿らない。だが、証拠としては十分だ。
書き終えた紙を封筒に収め、エリアナは立ち上がった。
運命は、待ってはくれない。
王宮の婚姻管理局は、本館から少し離れた東翼の一角にあった。
石造りの廊下を抜けると、高い天井に魔石の灯りが浮かび、淡い青白い光を落としている。窓口は三つあり、左端の「貴族婚姻申請」と書かれた札の前に、エリアナは立った。
「お待ちしておりました、ヴェルデ公爵令嬢」
四十代半ばの女性官吏が、眼鏡の奥の目を細める。名札には「婚姻管理局・主席官 マーガレット・ロウ」とある。
「グレイヴ辺境伯との婚姻許可申請を、正式に提出いたします」
エリアナは封筒を差し出した。マーガレットは中身を検め、祖母の契約書の複製に目を留める。
「これは……初代ヴェルデ公爵夫人の魔術契約書」
「条文にございます通り、私には婚姻の決定権がございます。公爵家当主の同意がなくとも、法的に有効かと存じますが」
「ええ、その通りです」
マーガレットがうなずきかけた、その時だった。
「お姉さま!」
廊下から、よく知った声が響いた。カミラが小走りに近づいてくる。水色のドレスをひるがえし、目にはうっすらと涙をためて。
「まさか、本当にこんなことを……お姉さま、どうか正気に戻ってください」
「カミラ。なぜここに」
「お姉さまが心配で。グレイヴ辺境伯と言えば、『氷の騎士』と呼ばれるお方。血も涙もないと噂のあの方と婚姻など、自殺行為です」
涙声で訴えながら、カミラはマーガレットに向き直った。
「お願いです。姉は何かに取り憑かれているのです。この申請、どうかお取り消しください」
マーガレットは眉をひそめた。
「お気持ちはわかりますが……申請者は有効な法的権限を提示されています」
「ですが!」
「カミラ」
エリアナの声は、氷のように冷たかった。
「あなたには、この場で口を挟む権利がありません。これは私の婚姻であり、私の人生です」
「そんな……お姉さま、私のことをそこまでお嫌いなの?」
「嫌いではありません。ただ、もはやあなたの姉ではないのです」
「え……?」
「昨夜、殿下が宣言なさったでしょう。『真に心に適うはカミラ・ヴェルデ』と。でしたらあなたは、殿下との未来をお考えになるべき。私に構っている暇などないはずです」
カミラの顔色が変わった。涙が引っ込み、口元が引きつる。
「ずいぶんと……お強くなられたのね、お姉さま」
「ええ。おかげさまで」
二人の視線が交錯する。カミラの瞳の奥に、前世で見たあの暗い光がちらついた気がした。毒杯を差し出した夜と同じ、静かな悪意。
だが今のエリアナは、それを見返すだけの強さを持っている。
「マーガレット様。手続きをお願いいたします」
「かしこまりました」
カミラは唇を噛みしめ、踵を返した。小走りに去るうしろ姿からは、もはや涙の気配は消えている。あの足取りは、レナードのもとへ向かっているに違いない。
婚姻管理局の待合室は、窓口から少し奥まった場所にあった。
正面の暖炉には火が入り、その上には先代国王の肖像画がかかっている。窓辺には観葉植物が置かれ、来客用の椅子が六脚、壁に沿って並んでいた。
エリアナは窓際の椅子に腰を下ろし、手続きが進むのを待っていた。マーガレットが隣室で書類を確認する物音が、かすかに聞こえてくる。
約一時間後、扉が開いた。
入ってきたのは、長身の男。
漆黒の礼服に身を包み、左胸にグレイヴ家の氷の紋章が銀糸で刺繍されている。左手の甲にはめ込まれた青白い魔石が、歩くたびにかすかに瞬いた。
アルヴィン・グレイヴ。
エリアナは立ち上がり、頭を下げる。
「お待たせして申し訳ありません、グレイヴ辺境伯」
「いや」
声は、思ったより低かった。けれど冷たさより先に、どこか探るような響きがある。
彼はエリアナの三歩手前で立ち止まった。銀色の瞳が、彼女の顔をじっと見つめる。
「……先日の夜会では、見事な対応だった」
「恐れ入ります。あなたにそう言っていただけて、光栄です」
「敬意は不要だ。俺は辺境伯とはいえ、王国の騎士に過ぎない。侯爵家以上の令嬢に敬語を使われる立場ではない」
そう言いながら、彼は自分から椅子に座ろうとはしなかった。
エリアナも、あえて立ったまま口を開く。
「では、本題に入りましょう。あなたと私の婚姻——これは打算の同盟だと、私は考えております」
「同感だ」
アルヴィンの返事は即座だった。
「私はレナード王子の干渉から逃れ、グレイヴ公領での自由を得たい。一方、あなたは——」
「ヴェルデ家との縁戚関係により、北の国境守備への王国からの援助を確実にする」
アルヴィンが言葉を継いだ。
「理解が早くて助かります。私はあなたを愛してはいない」
「私もだ」
その言葉に、エリアナはわずかに口元を緩めた。
「では、合意ですね」
アルヴィンはうなずき、左手を差し出した。
「婚約契約書に、魔力印を刻む」
彼の左手の甲の魔石が、青白く輝きを増す。エリアナは祖母の指輪にそっと触れ、自身の魔力をわずかに流し込んだ。銀の指輪が、淡い風の色を帯びて輝く。
二人は同時に、机の上の契約書に手をかざした。
青い光と風の色が絡み合い、羊皮紙の上に二つの紋様を刻んでいく。マーガレットが立ち会いのもと、それは確かに法的効力を持つ婚姻の証として完成した。
だが、その瞬間だった。
アルヴィンの手が、かすかに震えた。彼の銀色の瞳が、驚いたようにエリアナを見つめる。
「……お前は」
声が、詰まる。
「どうかなさいましたか」
「いや」
彼は即座に手を引き、背を向けた。だがエリアナは見逃さなかった。あの一瞬、彼の瞳の奥に浮かんだもの——困惑と、そして既視感。
それは、エリアナ自身が夜会で感じたものと、まったく同じ種類の動揺だった。
王宮前の馬車寄せには、公爵家とグレイヴ家、二台の馬車が並んで停められていた。
石畳の上に、午後の日差しが傾きかけた影を落としている。従僕がそれぞれの馬車の扉を開けて待っていた。
「では、ここで」
エリアナが告げると、アルヴィンは短くうなずいた。
「何かあれば連絡を」
「ええ。そちらも」
簡潔な別れの挨拶を交わし、二人は別々の馬車に乗り込んだ。
エリアナは窓際に座り、馬車が走り出すのを待ってから、婚約契約書の複製を取り出す。羊皮紙に刻まれた二つの魔力印は、今もかすかに温かかった。
前世では、こんな選択肢さえ存在しなかった。
レナードに捨てられ、館に閉じこもり、毒杯をあおって死んだ。誰かに選ばれるのを待つだけの、かわいそうな公爵令嬢。
——今度は違う。
自分で選んだ。たとえそれが打算の同盟でも、誰かに与えられた運命ではない。祖母が残してくれたこの道を、エリアナは信じることができた。
馬車が公爵邸へ向けて走り出す。窓の外を、王都の街並みが流れていった。市場の喧騒、花売りの少女、噴水広場を走る子どもたち。何も変わらない日常。けれどその風景が、今は違って見える。
エリアナは契約書を胸に抱きしめた。
一方、グレイヴ家の馬車の中。
アルヴィンは目を閉じ、深く息を吐いていた。馬車の揺れが規則的に身体に伝わる。なのに、心臓のあたりがざわついてならなかった。
——あの声。
婚姻管理局で聞いた、エリアナの声。あの響きが、耳の奥から離れない。初めて聞いたはずなのに、ずっと昔から知っていたような気がする。
違和感の正体はわからない。
ただ、エリアナが契約書に魔力を流した瞬間、指輪が共鳴したあの時、視界の端に何かがよぎった気がした。白い吐息、凍りついた廊下、誰かのすすり泣き。
——すべて、見たことのない光景だった。
アルヴィンは左手の甲をさすった。魔石は静かに沈黙しているのに、皮膚の下で何かが疼いている。
「……馬鹿な」
呟いて、目を開ける。窓の外は、まだ見慣れた王都の街並みだ。
なのに、どうしてか。
あの女の声だけが、ずっと尾を引いている。
夜。
公爵邸の自室で、エリアナは契約書をもう一度広げていた。蝋燭の灯りが羊皮紙の上を揺らめき、青と風の紋様を浮かび上がらせる。鍵は閉めている。廊下を歩く使用人の足音も、もう聞こえない。
静かな夜だった。
レナード王子は、この婚約を黙って見過ごさない。それは確かだ。彼のプライドは、公衆の面前で二度も打ち砕かれた。報復は必ず来る。
いつ、どんな形で——。
そこまで考えた時だった。
扉が、勢いよく開いた。
「お嬢様!」
飛び込んできたのは、侍女のリゼットだった。肩で息をし、顔からは血の気が引いている。彼女はそのままエリアナに駆け寄ると、声を潜めて告げた。
「お嬢様……大変です」
「落ち着いて、何があったの」
リゼットは震える声で続ける。
「レナード殿下が、明晩の星夜の間の夜会で……グレイヴ様に、決闘を申し込むおつもりだと」
エリアナの手の中で、契約書の魔力印が一瞬、青く光った。
指先に、冷たい感覚が走る。
「……そう。来るべきものが来たのね」
エリアナの声は、自分でも驚くほど静かだった。
けれど胸の奥で、何かが熱く脈打っている。恐れではない。もっと別の——覚悟にも似た、確かな予感。
運命の歯車は、もう止まらない。
リゼットが青ざめた顔で見守る中、エリアナは契約書をそっと胸に抱きしめた。窓の外では、雲の切れ間から星がひとつ、冷たく光っている。
明晩、すべてが動き出す。
それは、エリアナが初めてアルヴィンの本当の力を見る夜になる。そして前世の因縁が、ついに二人を結びつける夜になるだろう。
だが、それを知る者は、まだいなかった。