FeverStory

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す

第3話 凍てつく誓い

星夜の間——王宮大広間をそう呼ぶ理由は、天井に散りばめられた無数の魔石が本物の星空のように瞬くからだ。今夜は特に晴れた夜空と相まって、天上と屋内の星が呼応し合うかのように、青白く、そして黄金に煌めいている。大広間を埋め尽くす貴族たちのささやきが、遠い潮騒のように響いていた。

エリアナはアルヴィンの半歩後ろに立ち、左手の指輪が微かに熱を帯びているのを感じていた。婚姻管理局で刻まれた魔力印の残滓が、まだ彼女の身体に馴染んでいないのだろう。時折、指先に針を刺すような痛みが走り、そのたびに心臓が早鐘を打った。けれど、彼女は表情を崩さない。顔を上げ、背筋を伸ばし、ただ前だけを見据える。

夜会は恙なく進んでいた。

少なくとも、表向きは。

給仕たちが掲げる銀の盆の上で、クリスタルのグラスが星明かりを反射する。弦楽器の調べが、どこか現実離れした優雅さで空間を満たしていた。しかし、エリアナは知っていた。この滑らかな音楽と、はちみつ色の酒の香りに満ちた空気が、一瞬で張り詰めることを。まるで無風の湖面が、見えない水底のうねりを隠しているように。

「グレイヴ辺境伯」

その声が響いた時、周囲の空気が凍りついた。

まるで目に見えない手が、大広間じゅうの音という音を押さえつけたかのようだ。音楽は止み、談笑は途切れ、グラスを口元に運んでいた老侯爵が、その手を止めてしまう。エリアナの背筋を、冷たいものが駆け抜けた。

レナード王子が、二人の従騎士を従えて近づいてくる。白い礼服に金の刺繍。その刺繍は一針一針が魔力を帯びており、歩くたびに鈍く輝いては消える。完璧な笑みを浮かべながら、その瞳だけが冷たく輝いている。口元は弧を描いているのに、目は笑っていない——獲物を見つけた獣の目だった。

エリアナの指先に力が入った。ドレスの布を握りしめる。祖母のかたち見の指輪だけが、変わらぬ温度で彼女の肌に触れていた。

「これはこれは、レナード殿下」

アルヴィンが一歩前に出る。彼の声には、まるで感情というものが存在しないかのような静けさがあった。凍りついた湖面を思わせる、凪いだ声。しかしエリアナにはわかる。その静けさこそが、彼の警戒の形なのだと。

レナードはわざとらしく首を傾げ、周囲の来賓たちに聞こえるよう声を張り上げる。その声は、よく響くように計算され尽くしていた。

「貴公が“氷の騎士”と呼ばれていることは存じている。だが……北の辺境では、その異名は別の意味を持つそうだな」

アルヴィンは黙っている。微動だにしない。

「戦場でただ一度も剣を抜かなかった男。凍土に閉じこもり、敵を前にしてただ睨むだけの——軟弱な氷の騎士」

来賓たちの間で、息を呑む気配が広がった。誰かがグラスを落とし、大理石の床に砕ける甲高い音が静寂を裂く。

エリアナの心臓が跳ねる。違う、これはただの侮辱じゃない。レナードはアルヴィンを挑発している。この場で剣を交えれば、どちらが勝っても怪我をしても、それは国を揺るがす醜聞となる。レナードにとっては、それでいいのだ。むしろ、それこそが狙い。ここで決闘を受けさせれば、どんな形にせよアルヴィンの名誉は傷つく。

「殿下」

エリアナは半歩踏み出した。指先が、アルヴィンの右腕に触れる。

冷たい布地の感触。礼服の上からでも伝わる、鍛え上げられた筋肉の強張り。その硬さが、彼の感情を雄弁に物語っていた。怒りでも、恐怖でもない。もっと深い場所で、何かが静かに燃えている。

「……下がっていろ」

アルヴィンは彼女を見ずに言った。だがその声には、さっきまでの無機質さとは違う何かが混じっている。深い水底から、ようやく人の温度が浮かび上がってきたような、そんな響きだった。

レナードは口元を歪めた。

「おや、婚約者殿のお許しがなければ決断できぬか? それとも——」

「殿下」

アルヴィンが遮った。たった一言。それだけで、大広間の温度が下がったように感じる。エリアナは二の腕に鳥肌が立つのを自覚した。天井の魔石が、一瞬だけ不自然に瞬く。

「私の名誉についてのご意見は承った。だが決闘はお断りする」

「ほう。怖じ気づいたか」

「違うな」

アルヴィンの左手が、ゆっくりと上がった。節くれだった指が、右手の甲に嵌められた魔石にかざされる。その指の一本一本が、まるで別の意志を持っているかのように静かで、無駄がなかった。

「不毛だからだ」

その瞬間、魔石が青白く輝いた。

大広間の空気が震える。エリアナは息を呑んだ。指輪が、燃えるように熱い。それだけじゃない。祖母から受け継いだ銀の指輪が、呼応するかのように脈打っている。かつて感じたことのない熱だった。肌が焼けるような熱さではなく、魂の奥底から温められるような、不思議な感覚。

レナードの背後で、二人の従騎士が動いた。

一人が剣の柄に手をかける。ただそれだけの動作だった。革手袋が金具に触れる、かすかな擦過音。だがアルヴィンの目が、そちらを捉えた。その視線には刃物のような鋭さがあり、見ているだけで切り裂かれそうだった。

次の瞬間——。

アルヴィンの左手から放たれた凍気が、従騎士の足元を一瞬で覆った。解放された魔力が空気を裂く音は、かすかな悲鳴にも似ている。大理石の床が白く染まり、氷の結晶が足首まで伸び上がる。結晶は枝分かれしながら成長し、床石の目地をなぞり、まるで意思を持つ蔦のように絡みついた。

従騎士が悲鳴を上げて倒れ込んだ。

「なっ……!」

レナードの顔から血の気が引く。それは一瞬の出来事だった。顔面から表情というものが剥がれ落ち、その下から剥き出しの動揺が覗く。

氷は従騎士の足を固めただけで、それ以上は広がらない。だがその冷気は、周囲の来賓たちの吐息を白く染め上げるほど濃密だった。あちこちから上がる短い悲鳴。だれかが後ずさり、別の誰かが隣の者にしがみつく。けれど、誰も目を逸らせずにいた。

アルヴィンはまだ、左手をかざしたままだ。

凍気が渦を巻き、彼の周囲で氷の壁がせり上がっていく。それはエリアナの目前で止まり、二人を囲む盾となった。壁の表面には、細かな氷の結晶が咲き乱れ、まるで無数の白い花が一瞬で開花したかのようだった。空気は澄み切り、呼吸をするたびに肺の奥がきりりと冷える。

「——っ」

エリアナの視界が、ぐにゃりと歪んだ。

違う。今の光景——青白い輝き、肌を刺す冷気、誰かが倒れる気配。前世で、最期の夜に見たものと、あまりにも似ている。あの夜も、こんなふうに目の前のすべてが歪んだ。杯に盛られた毒が、蝋燭の灯りを反射して青白く煌めいたのだ。

違う。あの時は毒だった。これは氷だ。

舌の奥に広がる苦味。息をできずに喘いだ感覚。喉が灼け、胃が焼け、それでも必死に何かを叫ぼうとした記憶。今はそんなもの、どこにもない。ただ冷たい空気が頬を撫でているだけだ。

なのに、どうして。

「エリアナ嬢?」

アルヴィンの声が、遠くに聞こえる。水中から誰かが呼んでいるような、鈍く歪んだ音。

膝が折れた。床が迫る。このまま倒れてしまえば楽になる——そんな誘惑が脳裏をよぎった瞬間、誰かの腕が、彼女の身体を抱き止めた。

冷たい手だ。けれど、その冷たさが現実に引き戻してくれる。遠のきかけた意識が、その冷たさを起点に引き寄せられ、形を取り戻していった。

息を吸う。吐く。心臓が早鐘を打っている。こめかみの血管が脈打ち、指先が痺れている。けれど、もう目の前の光景は歪んでいない。

(この記憶は——)

エリアナはくちびるを噛んだ。鉄の味が舌に広がる。

(私だけのものじゃない)

アルヴィンが今見せた力。あれはただの魔力じゃない。彼自身も理解していない何か——前世で私を救えなかった後悔が、無意識のうちに形を変えたものだ。

だって、あの氷の輝きは。

まるで、彼がずっと誰かを守ろうとしてきたかのように、見えたから。

「下がっていろと言ったはずだ」

アルヴィンの声が、今度は近くで響いた。顔を上げると、彼は片腕で彼女を支えながら、もう一方の腕をレナードに向けている。魔石の輝きはまだ消えていない。青白い光が、彼の横顔を幽玄に照らし出していた。

「この方は私の婚約者だ」

声が、大広間に響き渡った。

氷の魔力を帯びた言葉が、空気を震わせ、天井の魔石を微かに共鳴させる。杯の中の酒が、小さなさざ波を立てた。

「手を出す者は、誰であろうと凍てつかせる」

その瞬間、レナードの顔に走った表情を、エリアナは見逃さなかった。

怒りでも、悔しさでもない。

恐怖だ。

生まれてこのかた、逆らわれたことのない者が初めて味わう、純粋な恐怖。唇が震え、目の焦点が合わず、こめかみに汗が浮かんでいる。

「……行くぞ」

レナードは震える声で言い捨てると、凍った床に這いつくばる従騎士を蹴り上げた。革靴の先端が、鎧に当たって鈍い音を立てる。

「立て! この無能が!」

もう一人の従騎士が慌てて仲間を引き起こす。足を凍らされた男は、まともに歩けずによろめきながら、それでも必死にレナードの後を追った。腫れ上がった足首を引きずり、冷や汗を流し、歯を食いしばって痛みに耐えている。

来賓たちが道を開ける。誰もが息を潜め、顔を見合わせている。口元を扇子で隠した貴婦人。眉をひそめる老将軍。事の成り行きを見守っていた者たちの表情は一様に強張り、誰ひとりとして言葉を発する者はいない。

大広間の扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

重厚な樫の扉が枠に収まる、その低い衝撃音が、静寂をいっそう際立たせる。

その時になって、エリアナは初めて自分がまだ息を止めていたことに気づいた。肺が酸素を求め、彼女は深く息を吸い込んだ。

「……失礼」

アルヴィンが腕をほどき、半歩離れる。魔石の輝きが、ようやく静まっていく。まるで燃え尽きた星が最期の光を放つように、魔石は何度か点滅し、そして静かな青に戻った。

いつの間にか、氷の壁は消えていた。あれだけの魔力を放った痕跡は、従騎士が倒れていた床の染みだけだ。氷は溶けて水に戻り、大理石の上に黒い染みを作っている。ただそれだけ。ついさっきまであれほどの力が渦巻いていたことが、嘘のように。

周囲から、ひそひそと囁く声が聞こえ始める。

「見たか、あの力……」「辺境伯があれほどの魔力を……」「王子殿下が逃げ出されたぞ」「あの魔石はただの装飾品ではないな」「いや、それよりも——」

エリアナは息を整えながら、ちらりと遠くを見た。

カミラが、柱の陰に立っている。桃色のドレスを着た彼女は、いつもの可憐な微笑みを失い、ただ蒼白な顔でこちらを見つめていた。華やかな頬紅も、いまはまるで病人のように浮いて見える。

視線が合う。

カミラの唇が、何かを言いたげに開きかけた。震える唇が、かすかに動く。けれど言葉は出ず、彼女はくるりと背を向け、レナードが去った扉へと小走りに消えていった。ヒールの音だけが、小刻みに響いて遠ざかっていく。

「……大丈夫か」

アルヴィンが問いかける。その声には、先ほどのような威圧感はなかった。ただ、少しだけ困惑したような響きがある。戦場で数多の修羅場をくぐり抜けてきた男が、たった一人の令嬢を前にして、どう声をかけるべきか迷っている。そんなぎこちなさがあった。

「ええ」

エリアナは頷いた。声は思ったよりしっかりと出る。

「人目が多すぎるわ。少し、空気を吸いたいのだけれど」

アルヴィンは一瞬躊躇したが、小さく頷いた。その目が、ほんの一瞬だけ彼女の顔をまっすぐに見つめ、それから逸らされる。

「バルコニーへ」

彼はエスコートの手を差し出した。その左手の甲で、魔石がかすかに、本当にかすかに、まだ青い残光を宿している。呼吸をするたびに光が揺らめき、まるで生き物のようだった。

エリアナはその手を取り、二人で来賓たちの好奇の視線をかわしながら大広間の端へと歩いた。ざわめきが、二人の背中にまとわりつく。好奇、畏怖、困惑、そして隠しきれない興奮。それらすべてが混ざり合い、重たい空気となって追いかけてくる。

バルコニーに出ると、夜風が顔を撫でた。

室内のこもった空気とは異なる、草と水の匂いを含んだ清冽な風。エリアナは知らず知らずのうちに詰めていた息を、ゆっくりと吐き出した。

王都の夜景が眼下に広がっている。無数の灯火が、まるで地上の星のように瞬いていた。民家の窓から漏れる橙の光、街灯の連なる道、遠くの港で揺れる船の灯り。それらすべてが、ここからは手の届かない絵画のように美しかった。

アルヴィンは手すりに手を置き、じっと遠くを見つめている。

エリアナは彼の横顔を盗み見た。月明かりに照らされた頬は、まるで彫刻のように整っている。額から鼻梁へと続く線、引き締まった顎、長い睫毛が落とす影。けれどその目は、何かを探すように揺れていた。視線の先にあるのは夜景ではなく、もっと遠く、あるいはもっと深い場所なのだろう。

しばらく、沈黙が続く。

風が二人の間を通り抜け、エリアナの髪の毛先をそっと持ち上げた。遠くで、夜警の鐘が一つ鳴る。

先に口を開いたのはエリアナだった。

「あなたの力は」

アルヴィンの肩が、かすかに震えた。夜風のせいではない。それは目に見えない何かに、そっと触れられた者の反応だった。

「何故あの時、私に反応したの?」

質問の意味を、彼が理解したかどうかはわからない。だがアルヴィンは答えなかった。ただ、自分の左手を持ち上げ、その甲を見下ろした。

魔石はもう、ほとんど光を失っている。けれど完全には消えていない。ほんのわずか、星の欠片のように青く瞬いている。呼吸するたびに、心臓が鼓動するたびに、それに合わせて光が脈打つ。

「……わからない」

その声は、先ほど大広間で響かせた威厳ある宣言とはまるで別人のようだった。覇気もなければ、冷徹さもない。夜の闇に吸い込まれそうな、細くかすかな声。

アルヴィンは魔石を見つめたまま続ける。

「あの時、お前の声が聞こえた気がした。婚姻管理局で、契約書に魔力を流した時と、同じ響きだった」

「声……?」

「叫んでいた。助けを求めていた。違うか」

エリアナは何も言わなかった。言えなかった。喉の奥が熱くなり、言葉にならない感情がせり上がってくる。けれどそれを、唇を結んで押し留める。

「俺は……知っているはずなんだ。だが思い出せない」

アルヴィンが顔を上げ、エリアナをまっすぐに見つめた。

その目に浮かんでいるのは、氷の騎士の仮面でも、辺境伯の威厳でもない。

ただ、途方に暮れた一人の男の、剥き出しの困惑だった。誰かにすがりたいのに、すがる術を知らない。そんな孤独が、月明かりの下で静かに横たわっている。

「……分からない、としか言えん。すまない」

エリアナはゆっくりと息を吸った。

心臓が静かに、しかし確かに鼓動を刻んでいる。

(この人は、何も覚えていない)

(それでも——私の声に、私の死に、魂の奥底で反応している)

それは前世の絆の証明だった。まだ言葉にならない、お互いに理解できない、それでも確かにそこにある繋がり。輪廻の環のどこかで結ばれた、見えない糸の手応え。

夜空を見上げる。雲が切れ、満天の星が現れた。無数の光点が、過去と現在をつなぐように瞬いている。前世でも、こんな星空を見上げた夜があったかもしれない。何もかもを失ったあの夜も、きっと星は変わらず輝いていたのだろう。

「いいえ」

エリアナは静かに微笑んだ。心の底からではなく、でも計算でもなく。ただ、この瞬間にふさわしいと思った表情だった。口元にほんの少し力を込めて、目は逸らさずに。

「それで十分よ。今は」

アルヴィンはまだ、何か言いたげに彼女を見つめている。その瞳の奥で、魔石の青い光と、月の白い光が混ざり合い、静かに揺れている。

エリアナは左手の指輪にそっと触れた。祖母の形見は、もう熱くはない。冷たくもない。ただ、彼女の体温と同じ温度で、そこにあった。金属と肌が同じ温度になる——それは、これから長い時間をともに歩むという約束にも似ていた。

(探さなければならない)

(私と、この人を結ぶものの正体を。前世であなたが何を見て、何を感じたのかを)

バルコニーの外で、夜風がささやく。

それは運命のうねりのような、大きな流れの音だった。前世で毒杯をあおった夜も、婚姻管理局で契約書を広げた朝も、ずっとこの風は吹いていたのかもしれない。ただ彼女が気づかなかっただけで。

だが今は違う。

今は一人じゃない。

エリアナは隣に立つ男の横顔を見上げた。月明かりの中、左手の甲の魔石はまだ、消え入りそうな青い光を放っている。

その光が完全に消える瞬間を、彼女は静かに見守っていた。やがて青は淡くなり、呼吸のたびに細かく震え、そして——ふっと息を引き取るように、消えた。

それでもエリアナは、しばらく視線を外せなかった。

魔石が闇に溶けてなお、その残像が彼女の瞳の奥に焼きついている。温かな青。孤独な青。誰かを守るために生まれた、優しい氷の色だった。

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す第3話 凍てつく誓い