前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す
第4話 氷の約束
馬車が王都の門を抜けてから、すでに一時間が過ぎていた。石畳の継ぎ目が刻む規則的な振動だけが、車内の沈黙を測る時計代わりだ。窓の外では麦畑が黄金色に波打ち、遠くの丘に風車がゆっくりと羽根を回している。
エリアナは隣に座るアルヴィンを横目で盗み見た。彼は窓枠に肘をつき、流れる景色を無表情で追っている。左手の甲の魔石は外套の袖に隠れ、時折馬車が揺れるたびに布地の奥でかすかな青光が点滅した。
(この沈黙、あと何時間もつのかしら)
彼女は膝の上で組んだ指をそっと解いた。
「グレイヴ公領は、今の季節はもう雪が」
問いは形式的だった。社交の場で交わすような、当たり障りのない会話の糸口。アルヴィンは一呼吸置いてから窓から視線を外した。
「ああ。山間部はすでに積もり始めている。城のある盆地はまだ雪には早いが、朝晩は氷点下まで下がる」
「夏は短いのでしょうね」
「二か月ほどだ。ただ、その短い間に領地中の花が一斉に咲く」
彼の声が、ほんのわずかに和らいだ。エリアナはその変化を聞き逃さず、次の問いを急がなかった。アルヴィンは外套の襟を直す仕草のあと、続ける。
「特に冬薔薇は、雪解けと同時に蕾をつける。凍った地面を割って出てくる白い花だ」
「冬薔薇」
「北の民は、あの花を『氷の約束』と呼ぶ。厳しい冬を耐えた者にだけ、春を告げる権利があると言われている」
彼の左手が、無意識に甲を覆う外套の布を押さえた。エリアナはそれを見て、バルコニーでの会話を思い出す。魔石の光が消える瞬間を、二人で見守ったあの夜。彼の魂の奥底には、言葉にできない何かが眠っている。
「見てみたいわ。その冬薔薇を」
エリアナの声が、ほんの少しだけ形式を脱いだ。アルヴィンは彼女の横顔を一瞥し、すぐに窓の外へ視線を戻す。
「……城の中庭に群生している。領地に着いたら案内しよう」
それは約束だった。社交辞令ではない、氷の騎士からの初めての自発的な提案。エリアナは膝の上で指を組み直した。指輪がほんのわずかに温かい。
馬車は街道を北へ進み、日差しが角度を変えていく。
夕暮れ前、エリアナは馬車の揺れに身を任せ、いつの間にか浅い眠りに落ちていた。
夢は見ない。ただ暖かな闇だけが、身体を包んでいる。祖母の書斎でうたた寝したときのような、懐かしい静けさ。
それが、不意に破れた。
低く、絞り出すような声が耳に入る。
「……死ぬな」
エリアナは目を開けた。隣でアルヴィンが窓にもたれかかり、眉を寄せて眠っている。左手の甲を覆っていた外套の袖がまくれ上がり、むき出しの魔石が青白く明滅を繰り返していた。
光は一定の周期を失い、まるで溺れる者の心臓のように不規則だ。
「死ぬな……お前まで……」
彼の右手が、無造作に宙を掴んだ。指先がエリアナの手首に触れ、次の瞬間、強い力で握りしめる。
痛いほどの力だった。
それでもエリアナは手を引かなかった。
(この人は、夢の中で誰を呼んでいるの)
バルコニーで聞いた言葉が蘇る。『分からない、としか言えん』——あのときアルヴィンは、自分の力がなぜ彼女に反応したのか答えを持たなかった。だが、この悪夢は違う。声は明確に誰かへ向けられている。失うまいとする者へ。
魔石が、ひときわ強く輝いた。車内が一瞬、真昼のように青く照らされる。
エリアナは右手を伸ばした。掴まれた手首の上から、そっと彼の指に自分の指を重ねる。力任せではなく、包み込むように。
(ここにいるわ)
心の中でだけ、そう告げる。口に出せば彼は目覚める。今はまだ、この悪夢の意味を知るべきではない。彼自身が言葉にできないものを、無理に引きずり出してはいけない。
アルヴィンの呼吸が、少しずつ落ち着いていく。魔石の明滅が間隔を広げ、やがて淡い常夜灯のような一定の輝きに戻った。
それでも、彼は手を離さなかった。エリアナもまた、手を離さなかった。
アルヴィンが目を開けたのは、馬車が小さな橋を渡る車輪の音に揺れた瞬間だった。
彼はまず天井を見つめ、それから自分の右手に視線を落とした。エリアナの手首を握ったままの指。彼女の細い指が、その上に重なっている。
アルヴィンは弾かれたように手を離した。
「……すまない」
顔を背け、外套の袖で魔石を隠す。その動作が、バルコニーで見せた弱々しい声の主と、今の氷の騎士とを結びつけた。エリアナは動揺を悟られないよう、ゆっくりと手を膝に戻す。
「どのような夢を」
アルヴィンは答えない。窓の外に視線を逃がし、しばらく沈黙したあと、絞り出すように言った。
「……覚えていない。ただ、嫌な夢だった」
嘘だと分かった。けれど彼の横顔には、これ以上踏み込ませまいとする硬い線が浮かんでいる。左の手の甲が、外套の下でまだかすかに脈打っていた。
エリアナはすぐに追及しなかった。指輪にそっと触れ、静かに息を吐く。
(確かにある。彼の中に、前世の断片が)
それが何かはまだ分からない。アルヴィン自身も理解していない。だが夢の中で誰かの死を嘆き、目覚めてなおその手を離せない——それは彼の魂が、記憶よりもずっと深い場所で、何かを覚えている証拠だ。
「到着まで、まだ少しかかります。もう少し休まれては」
エリアナは穏やかな声で言った。アルヴィンは短くうなずき、今度は窓ではなく正面を向いて目を閉じる。
馬車は北へ向けて走り続ける。傾いた日差しが車内に差し込み、二人の間の座席に細長い影を落とした。影の境界ははっきりと分かれていたが、馬車が揺れるたびに少しずつ混ざり合い、また離れていく。
エリアナは窓の外に視線を移した。遠くの山々の頂に、白いものが見え始めている。
あの雪の向こうに、グレイヴ公領がある。冬薔薇が咲く中庭と、氷の騎士が領主として立つ城。そこに足を踏み入れるとき、彼女はまた新たな問いと向き合うことになるだろう。
だが今は、追及の時ではない。
手首に残る彼の指の感触が、まだ熱を持っている。それは悪夢の残滓ではなく、確かな約束の予感だった。
夜の冷気が馬車の扉を開けた瞬間に流れ込み、エリアナは思わず肩をすくめた。山の空気は街のそれとはまったく異質で、肺の奥まで凍らせるような透明さを持っている。
アルヴィンの手を借りて石畳に降り立つ。足の裏に伝わる冷たさは、何世紀もかけて磨かれた石の記憶そのものだ。彼女が顔を上げると、氷霧城の黒いシルエットが星明かりを背負って立ちはだかっていた。塔の先端だけが月の光を受けて青白く輝き、まるで城そのものが氷でできているかのようだ。
(ここが)
馬車の車輪が石畳を噛む音が止み、静寂が夜の帳を裂くように周囲を包んだ。エリアナは窓の外を見やる。黒い山塊を背負ってそびえる氷霧城——その門前に立つ女のシルエットが、手に掲げたランプの揺らめきに浮かび上がった。
「お待ちしておりました、アルヴィン様」
マルタは深々と頭を下げる。年の頃は四十半ば、灰色の髪を後ろで固く束ね、染みひとつない白いエプロンを着けている。その動作は機械のように正確で、一分の隙もない。
アルヴィンが先に降り、エリアナに手を差し伸べた。彼女が馬車を降りると、マルタの視線が素早く全身を撫でるように走る。銀の髪、エメラルドの瞳、祖母の指輪——値踏みするような、しかし決して無礼ではない一瞥だった。
「ヴェルデ公爵令嬢エリアナ様でいらっしゃいますね」 「ええ」
マルタはもう一度だけ礼をした。その目が、今度はエリアナの指輪に一瞬留まり、すぐに逸らされる。
「マルタ」 アルヴィンの声に、侍女の背筋がさらに伸びた。 「エリアナ様はグレイヴ家の未来の夫人だ。最高の礼をもって接しろ」
「承知しております」
マルタはランプを掲げ直し、城門へと歩き出す。その足音は石畳に吸い込まれ、ほとんど聞こえない。エリアナはアルヴィンの横顔を盗み見た。月明かりの下で、彼の左手の甲にある魔石はすでに光を失っている。あの夜会の熱が嘘のように、冷たく澄んだ石の色に戻っていた。
「領地の案件が溜まっている。私は執務室へ向かう」 アルヴィンはエリアナに向き直り、ほんの少しだけ声音を和らげた。 「何かあればマルタに。明日、城の中を案内させる」
「ありがとうございます」
エリアナが微笑むと、彼は一瞬だけ目を伏せ、それからくるりと背を向けて廊下の奥へ消えた。軍靴の硬い足音が三歩、四歩と遠ざかり、すぐに静寂が戻る。
マルタが先導する廊下は石造りで、壁に掛けられた燭台が等間隔に揺れている。外気とは違う寒さ——建物そのものが帯びた冷気が、足元から這い上がってくる。暖炉くらいはあるのだろうが、この廊下にはない。
「お疲れでしょう。客間を整えてございます」 「助かるわ」
階段を上がり、二階の角を曲がった突き当たり。マルタが重いオークの扉を押し開く。部屋の中は意外なほど暖かく、暖炉の火が橙色に揺れていた。天蓋付きの寝台、書き物机、小さな鏡台。質素だが品の良い調度品が並んでいる。
エリアナが部屋に足を踏み入れた瞬間、壁にかかった一枚の肖像画が目に飛び込んだ。金箔の額縁に収められた、若い女性の半身像。銀灰色の髪を結い上げ、深い青のドレスを纏っている。口元は微笑んでいるが、目だけがどこか遠くを見ていた。
「……どなた?」 「先代のグレイヴ公爵夫人でございます」 マルタはエリアナの背後で足を止め、ランプの光を肖像画に向けた。 「この方は——この城で、孤独のうちに亡くなられました」
静かな声だった。棘も毒も含んでいない。ただ、事実をそのまま差し出すような口調。それだけに、言葉の重みが異様に際立つ。
「とてもお美しい方だったのですよ」 マルタはそう付け加えると、一歩下がった。 「ご夕食はもうすぐお持ちいたします。ごゆっくり」
エリアナが振り返るより早く、侍女は廊下へ消えていた。踵の低い靴の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。部屋に一人残された彼女は、改めて肖像画を見上げた。
(孤独のうちに) (この城で)
それは警告か、それとも単なる世間話か。マルタの目は最後まで、値踏みする鋭さを失わなかった。初対面の令嬢に、わざわざ先代夫人の孤独死を伝える意味。
エリアナは窓辺に歩み寄り、重いカーテンを引いた。鍵はかかっていない。両開きの窓を押し開くと、冷たい夜気が一気に流れ込む。
眼下に広がるのは、月明かりだけを頼りに咲く冬薔薇の庭園だった。白と淡い青の花弁が、闇の中でぼんやりと発光しているように見える。その中央——幾何学的に刈り込まれた生垣が円を描く中心に、黒い石碑が立っていた。
石碑には文字が刻まれている。遠目にも古い書体だとわかるが、不思議と読めた。月の光が、まるでその文字だけを選んで照らしているかのようだ。
エリアナ。
自分の名前。