前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す
第5話 凍てつく館の沈黙
霧はまだ深かった。御者が手綱を緩め、馬の歩みがとろりと遅くなる。枝の一本が車輪に踏まれて砕ける音だけが、やけに近く聞こえた。
エリアナが窓の外に目をやった瞬間、馬車が急停止した。馬が嘶き、御者の短い悲鳴。前方に影——倒木が道を塞いでいる。
「伏せろ」
アルヴィンの手がエリアナの肩を押さえつけるより早く、空気を裂く音がした。矢だ。一本目が外壁を貫き、エリアナの髪をかすめて反対側の座席に突き立つ。続けざまに二本。三本。
「決して動くな」
アルヴィンは左手を握りしめた。青白い光が指の隙間から漏れ、馬車の中が一瞬、深海の底のように染まる。彼は扉を蹴り開け、霧の中へ飛び出した。
エリアナは床に伏せたまま、心臓が喉を叩くのを感じていた。馬車の外で何が起きているかは見えない。ただ、金属のぶつかる音、短い叫び、そして——かすかな氷の砕けるような音が断続的に響く。
窓の隙間から、わずかに外が見えた。
アルヴィンは五人の黒装束に囲まれていた。しかし数で押されている様子は微塵もない。彼の右手には、氷で形作られた剣が握られている。左手の魔石から流れ出る冷気が刃を生み出したのだ。彼が一歩踏み出すたび、霧が凍って白い結晶となり、地面に落ちる。
刺客の一人が背後から斬りかかった。アルヴィンは振り返らず、左手をかざす。空気が凍った。刺客の喉元から白い霜が広がり、一瞬で全身を覆う。男は動きを止め、そのまま横倒しになる。
(あれは——)
エリアナの呼吸が止まった。
前世の最後の瞬間。毒杯を口にした後、視界が白く霞み、遠くで誰かが自分の名を叫んでいた。姿は見えなかった。けれどあの時、部屋の空気がこれと同じ冷たさを帯びていたことを、今、思い出す。
喉の奥が震えた。毒の苦さを、舌が覚えている。
外では、アルヴィンが二人目の刺客の剣を氷の刃で砕いていた。砕けた破片が飛び散るより早く、彼は相手の腕を凍らせる。三人目、四人目——まるで冬の嵐そのものが意思を持って動いているかのようだった。
五人目の刺客がよろめきながら口を開いた。
「カ、カミラ様の——」
「必要ない」
アルヴィンの声は静かだった。それでいて、森の空気すべてを凍てつかせるような響きがあった。刺客の口が白く覆われ、言葉が氷の中に閉じ込められる。男は声を失い、その場に崩れ落ちた。
静寂が戻る。霧だけが、変わらずに漂っている。
アルヴィンは剣を消した。魔石の光がゆっくりと弱まり、森はまた灰色を取り戻す。彼は倒れた刺客たちを一瞥し、次に御者台の方へ歩いていった。
「無事か」
「は、はい……申し訳ありませぬ、旦那様」
「下がっていろ」
アルヴィンは馬車に戻り、扉を開けた。エリアナはまだ床に伏せていたが、その肩は細かく震えている。
「怪我はないか」
声に、先ほどの冷たさはなかった。エリアナは顔を上げる。彼の左手の魔石が、まだ微かに青白く瞬いていた。闇の中で、星が一つだけ残っているように。
「……大丈夫です」
自分の声が遠く聞こえた。指先に力を入れて立ち上がろうとするが、膝がうまく動かない。エリアナは深く息を吸い、アルヴィンの左手を見つめたまま口を開く。
「あなたは……いつもこうやって戦ってきたの?」
アルヴィンは少しだけ視線を外した。答えないのではなく、答えることに意味を見出せないような間だった。
「そうだ」
短い返事。けれどエリアナは、その一言に彼の半生が詰まっている気がした。誰に守られるでもなく、誰かと肩を並べるでもなく。ただ一人で、この冷たい力を振るい続けてきた日々を。
アルヴィンは馬車の損傷を見回した。外壁には三本の矢が刺さり、車輪の一つが倒木にぶつかって歪んでいる。
「歩くぞ。館までそう遠くない」
彼は自分の外套を脱ぐと、エリアナの肩にかけた。まだ彼の体温が残っている。遠くの山々の稜線が、霧の切れ間からわずかに白く浮かび上がった。
「御者は馬を落ち着かせてから後続の者を呼ぶ。我々は先に行く」
エリアナは外套の襟を合わせながら立ち上がった。足元はまだ震えていたが、倒れはしない。氷の冷気と血の匂いが混ざった森の空気の中で、彼女は顔を上げる。
「わかりました」
アルヴィンはすでに歩き始めていた。凍った落ち葉を踏む音が、規則正しく続く。エリアナはその背中を追い、霧の中へ足を踏み出した。
霧にけぶる小道の凍土を踏みしめながら、エリアナは前を行くアルヴィンの背を追い続けた。外套の下で冷えきった指を何度か握りしめているうちに、木々の切れ間から鈍色の石壁がにじみ出るように近づいてくる。館の門柱に刻まれた氷の紋章が、薄明のなかでかすかに光を返した。
館の玄関は、石段を上がった先に重い鉄鋲の扉を構えていた。エリアナが最後の一段を踏みしめたとき、扉が内側から開く。
現れたのは、白髪を後ろに撫でつけた老執事だった。黒の上着は糊がきいていて、襟元にはグレイヴ家の氷の紋章が銀糸で刺繍されている。
「お待ちしておりました、エリアナ様。私は当家の執事を務めております、バルタザールと申します」
深々とした礼。声には長年の勤めに裏打ちされた落ち着きがあった。エリアナはわずかに頭を下げ、館の敷居をまたぐ。
玄関ホールの空気が、肌に冷たく貼りついた。外の寒さとは違う——建物の石壁そのものが長い年月をかけて溜め込んだ冷気が、足元から這い上がってくる。
ホールの両脇には、六人の使用人が整列していた。女中が三人、下男が二人、給仕が一人。全員が黒ずくめの屋敷服を着て、両手を前で組んでいる。
誰も口を開かない。視線すら動かさない。まるで並べられた石像のように、エリアナの存在そのものを透明な壁で阻んでいた。
指先がかすかに冷える。祖母の指輪だけが、変わらぬ温度で肌に触れていた。
バルタザールが一歩前に進み、手を広げる。
「旦那様の花嫁をお迎えする準備は整っております」
その瞬間、ホールの空気が変わった。音はない。誰も動いていない。けれど使用人たちの間に、目に見えない氷の刃が走ったような静けさが横たわる。
エリアナはアルヴィンに視線を送った。
彼は正面を向いたまま、ホールの奥——大階段のたもとを見つめている。まつげ一本動かさない。エリアナの視線に気づいているはずなのに、その横顔は能面のように閉じていた。
「部屋へ案内しろ」
アルヴィンの声は、ホールの冷気より乾いていた。
「私は執務室にいる。ヴェルデ辺境伯との書簡の続きがある」
エリアナの唇がわずかに開いた。馬上で肩を貸した男と、今この場に立つ領主とが、同じ人間だとは思えない。彼女は開きかけた唇をそっと閉じ、背筋を伸ばす。
バルタザールがもう一度礼をした。
「かしこまりました。エリアナ様、こちらへ」
老執事の足音だけが、石の床を規則正しく叩いてゆく。エリアナはその後ろに続きながら、背後で凍りついたままの六人の体温を、背中で感じていた。
客間の扉を閉めると、リゼットが息を吐いた。
「なんなんです、あの使用人たちは。まるで葬儀にでも参列してるみたいに」
「声が大きいわ」
エリアナは窓辺に歩み寄り、カーテンを引く。昼下がりの光が差し込み、部屋の埃が金色に舞った。天蓋付きの寝台、書き物机、小さな鏡台——昨晩と変わらぬ調度品がそこにある。
彼女の視線は自然と窓の外へ滑り落ちた。冬薔薇の庭園が、正午の光の下で静かに揺れている。白と淡い青の花弁は、夜にあれほど発光していたのに、今はただ慎ましく咲いていた。
中央の石碑までは、ここからでも見通せる。古代文字の刻まれた黒い石。昨夜は月明かりに浮かび上がっていたそれが、今は灰色の空を背にして立っている。
(あれは、誰のための名前なのか)
森での襲撃。動きそのものに見覚えがあったわけではない。それなのに、刃が自分の喉元を狙ったあの瞬間——体がひとりでに反応した。
まるで、一度経験した道をなぞるように。
冬薔薇の花弁が風に揺れ、石碑をかすめる。彼女は右手の指で、左のこめかみの星型の痣をなぞった。
「お嬢様」
リゼットが衣装箱の蓋を閉め、振り返る。
「今日の夕食の用意について、誰かに聞いて——」
その言葉を遮って、扉が開いた。
ノックはなかった。蝶番の軋む音だけが先に届き、次いで若い女中がひとり、盆を持って入ってくる。年の頃はリゼットと同じくらい。けれど目は驚くほど無表情で、エリアナの姿を捉えても眉ひとつ動かさなかった。
「夕食は、旦那様はご一緒にはなりません」
盆の上には湯気を立てた茶器が一式。彼女は書き物机の端にそれを置くと、エリアナの返事を待たずに向きを変える。
「おい、ちょっと」
リゼットが一歩踏み出した。
「ノックもなしに入ってきて、それだけですか。この方はグレイヴ家の未来の夫人ですよ」
女中は足を止めた。けれど振り返らない。背中越しに、短く言葉を落とす。
「承知しております」
それだけだった。扉が閉まり、靴音が廊下を遠ざかる。
リゼットはしばらく扉を睨んでいたが、やがて深いため息をついた。
「信じられない」
「いいのよ」
エリアナは窓辺から離れ、机の上の茶器に手を伸ばした。白磁のカップに注がれた茶からは、かすかに薬草の香りが立っている。温かい。少なくとも、毒見くらいはしたのかもしれない。
彼女は一口含み、ゆっくりと飲み下した。喉を熱が落ちていく。
「これがこの領地のやり方なのね」
声は静かだった。棘も毒もない。ただ、事実を受け入れただけの口調。
リゼットは何か言おうとして、やめた。代わりに衣装箱の留め金をひとつ、丁寧に外す。
窓の外で、冬薔薇がまた揺れた。
執務室の暖炉は、朝から一度も火を入れられていなかった。
アルヴィンは机の前に立ち、左手の甲をじっと見下ろしている。青白い魔石は静かに眠っている——いや、眠ってはいない。かすかな光の粒が、石の内部をゆっくりと旋回していた。
「明日から領内の警備を二倍にしろ」
背後で書類を整理していたバルタザールの手が止まる。
「それと……彼女の食事には必ず毒見を」
「すでに手配しております」
老執事の返事は、驚くほどに淀みがなかった。
アルヴィンは頷き、窓へ歩み寄る。中庭が見える。冬薔薇の庭園と、その中心の石碑。あの客間からも、この風景は見えているはずだ。
魔石がまたひとつ、ひときわ強く瞬いた。エリアナの顔が頭をよぎる。馬上で肩を寄せた温もり。抱きかかえたときの、細すぎる体の感触。
彼は左手をもう一方の手で押さえつける。
「俺は、二度と失わない」
誰に言うでもない声が、冷たい窓ガラスに吸い込まれて、消えた。