前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す
第10話 青薔薇の間の失言
翌朝、エリアナは青薔薇の間へ通された。壁面を覆う青い薔薇の浮き彫りが、朝日を受けて鈍く輝いている。王妃セレナは窓辺の椅子に腰かけ、手にしたワイングラスを揺らめかせていた。
「おかけになって、ヴェルデ公爵令嬢」
エリアナは勧められた椅子に背筋を伸ばして座る。王妃の視線が、彼女の左こめかみに張りついた。
「辺境伯との旅は、さぞ疲れたでしょう」
「ご心配には及びません」
セレナはグラスを傾け、一口含んだ。その動作のあいだも、目だけは離さない。星型の痣をなぞるような、ねっとりとした凝視だった。
「して、レナードの様子はどうでしたか。幼い頃から魔力が強すぎて、わたくしも手を焼いておりましたの」
エリアナは膝の上で指を組んだ。前世の記憶が、かすかに警鐘を打つ。この部屋で、王妃がこんな質問をしたことはなかった。
「殿下はご立派に務めを果たしておられます」
「魔力の方は? 以前、高熱の折に暴走なさったと聞き及んでおりますが」
嘘だった。そんな話は聞いたこともない。けれど王妃の小指が、グラスの縁でかすかに震えている。
「殿下は幼い頃、高熱の度に魔力が暴走なさったとか。ご存じありませんか」
セレナの指から、ワイングラスが滑り落ちた。
深紅の染みが絨毯に広がる。王妃はそれを拭おうともせず、ただエリアナを見つめた。唇がわななく。
「……記録にはないはずです。あの記録は、もう」
言葉が途切れる。セレナははっとして口を閉ざし、侍従を呼び寄せた。震える声で「片付けなさい」と命じる。
エリアナは立ち上がった。
(記録——改竄されたのか)
胸の奥で、確信が固まる。王妃の恐怖はレナードの出生そのものに根ざしている。彼女は一礼し、静かに青薔薇の間を辞した。
控えの間へ戻ると、窓際の椅子に腰を下ろした。祖母の指輪を指先でなぞる。冷たい銀の感触が、思考を整えてくれた。
足音が近づく。重く、早足で、けれど乱れていない。
扉が開いた。
アルヴィンが立っている。左手で右のこめかみを押さえ、脂汗が額に浮いていた。「どうなさったのです」
彼は答えず、大きく三歩で距離を詰める。右手がエリアナの肘をつかんだ。
「この部屋には死の匂いが染みついている」
「……死の、匂い」
アルヴィンは息を整えるように、深く肩で呼吸した。左手の甲の魔石が、不規則に明滅している。
「視えた。ここではない——けれど同じ調度品の前で、おまえが倒れる光景だ」
エリアナは息をのんだ。青薔薇の浮き彫り。窓辺の椅子。王妃が座っていたあの場所。
「それは、前世の……」
「毒だ」
アルヴィンは絞り出すように言った。魔石の光が強まり、彼の指から冷気が走る。
「おまえはこの部屋で毒を盛られた。誰の手でかは見えなかったが——この石が、覚えている」
エリアナは彼の魔石に指先を触れた。青白い光が、ふっと鎮まる。冷気が引いていくのを肌で感じながら、彼女は顔を上げた。
「王妃が失言なさいました。殿下の幼少期の魔力記録は、もう存在しないはずだと」
アルヴィンの銀色の瞳が、細められた。
「改竄か」
「ええ。出生に関わる何かが」
「記録を探す。今夜だ」
彼の声に迷いはなかった。エリアナはうなずき、アルヴィンの手を握り返す。魔石がもう一度、淡く光った。
深夜、王宮の回廊は静寂に沈んでいた。松明の灯りだけが揺らめき、柱の影を長く伸ばす。エリアナはアルヴィンの半歩後ろを歩いた。足音を殺し、前世の記憶をたどる。
旧図書館棟の入り口は、塵をかぶった鎖で封じられていた。アルヴィンが手をかざす。氷の魔力が鎖を包み、凍結が軋む音のあと、ぱきんと砕け散った。
「ここです、地下への階段は」
螺旋階段を下りる。かび臭い空気が濃くなり、壁に埋め込まれた魔石がかすかな青で足元を照らした。突き当たりの鉄扉には、複雑な魔法錠が嵌め込まれている。
アルヴィンが左手を触れた。魔石の冷気が錠前に流れ込み、内部の歯車を凍らせる。一度だけ深く息を吸い、力を込めた。氷結した金属が内側から膨張し、鈍い破砕音を立てて錠が外れる。
「開きました」
エリアナが先に滑り込む。棚には羊皮紙の束が並び、年代順に並べられた帳簿が壁一面を覆っていた。彼女は迷わず奥へ進んだ。前世で、王妃が密かに出入りしていたのを遠目に見た記憶がある。
一角の棚は、ほこりが薄かった。
「誰かが最近、触れています」
指でなぞると、手前の帳簿だけ背表紙の汚れが違う。引き出す。王家の出生記録簿——第三王子の頁に、不自然な切り口が残っていた。頁そのものが刃物で切り取られている。
エリアナはページを光にかざした。透かし模様の羊皮紙に、かすかな魔力の痕跡が浮かぶ。書き込みの圧力が、裏の頁にまで残っていたのだ。
「……父王の魔力紋様と、一致しない」
彼女の指が、透かしの一点を示す。通常なら王家の紋様と完全に重なるはずの魔力波長が、異なる波形を描いていた。
「出生記録が偽りなら、殿下には王位継承権が——」
アルヴィンが手を上げた。廊下の遠くで、衛兵の足音が近づいている。
「ここまでだ」
彼は破られた頁をそっと閉じ、帳簿をマントの裏地に差し込んだ。エリアナは透かし模様を瞳に刻みつけ、うなずく。
二人は物音を立てずに階段へ戻った。巡回の松明が、反対側の廊下を通過する。その光が消えるのを待ち、旧図書館棟を後にする。
マントの下で、アルヴィンの魔石がもう一度だけ静かに脈打った。
中庭へ続く石畳の小径は、昼間なら使用人たちが行き交う抜け道だ。今は足音を殺すために芝生を選んで歩く。アルヴィンは半歩後ろで、マントの内側に手を当てたまま進んでいた——あの帳簿がずれていないか、無意識に確かめているのだろう。
エリアナは息を整えながら、祖母の指輪を親指で回した。客室まではあと東翼を抜けるだけだ。そのとき、月桂樹の枝が不自然に揺れるのを視界の端が捉えた。
風は、さっき止んだはずだった。
月光の庭に差しかかったとき、風が止んだ。エリアナは足を止め、アルヴィンのマントの裾がかすかに揺れるのを視界の端で捉える。白い石畳に、三つ目の影が伸びていた。
「遅かったわね」
カミラが月桂樹の陰から歩み出る。右手が腹部に添えられ、指先はまだ平坦なその場所を守るように曲がっていた。侍女が一歩後ろで控え、銀の盆に乗せた湯気の立たない茶器を両手で支えている。
「こんな深夜に中庭とは、公爵家の令嬢にあるまじき振る舞いですこと」
「お互い様でしょう」
エリアナは肩の力を抜いた。心臓は早鐘を打っているが、指先は冷たく落ち着いたままだ。祖母の指輪が、夜気に冷えて肌に食い込む。
カミラは顎を上げた。月光が頬骨のあたりに影を落とす。
「お伝えしたいことがあったの。報告ではなく、宣言よ」
右手が腹の上で平らに広げられる。
「この子はレナード殿下の嫡子です」
侍女の盆がかすかに揺れて、茶器が乾いた音を立てた。
「それで?」
エリアナの声は自分でも意外なほど平坦だった。カミラの瞳が一瞬、揺れる。
「公爵家の恥さらしが。政略結婚に逃げたくせに」
「婚姻契約書の該当条項を確認なさるといいわ。婚約破棄の法的根拠は、両家の魔力印と王家の承認がなければ無効——ご存じなかった?」
カミラのこめかみに青い筋が浮く。
「それと」
エリアナは半歩、前に出た。月光が彼女の銀の髪を青白く染め、左こめかみの星型の痣を淡く浮かび上がらせる。痣はいま、疼いてはいない。ただ冷たく、そこに在った。
「その子の出生証明に、殿下の魔力紋様が記載されることを心から望むわ」
カミラの顔から血の気が引いた。唇が動き、声にならない息が漏れる。
「何を」
「なんでも。ただの祝福よ」
アルヴィンがエリアナの背後で半歩、位置を変えた。魔石の青い光が、彼のマントの裏から弱く滲む。
カミラは一歩後退した。ヒールが石畳を削る。
「何を知っているの」
叫び声は中庭の壁に跳ね返り、月桂樹の葉を震わせた。侍女が盆を抱え直し、茶器が滑って倒れる。
「知る必要があることだけを」
エリアナはそれ以上、口を開かなかった。沈黙が答えの代わりになることを、前世で学んでいた。
カミラは踵を返す。侍女が小走りに追い、二人分の足音が回廊に吸い込まれるまで、十秒もかからなかった。
「策を思いついた」
エリアナは月を見上げたまま言った。
「彼女の懐妊、王妃への揺さぶりに使える。出生の秘密を握る者がいるとなれば、王妃も動かざるを得ない」
アルヴィンが横に並ぶ。彼のマントの裏で、保管庫から持ち出した証拠の紙がかすかに擦れる音がした。
「客室へ戻ろう。ここは開けすぎている」
グレイヴ家の客室は、暖炉の火が落ちて炭だけが赤く息づいていた。エリアナが閂を下ろす。金属の噛み合う音が、ようやく彼女の肩から力を抜いた。
「マントを」
アルヴィンが言い、裏地から文書を取り出す。破られた頁が机の上で広げられ、透かし模様の歪んだ魔力紋様が蝋燭の光に浮かんだ。
「王妃への手札には十分だ」
「ええ」
エリアナは椅子に腰を下ろした。旅の疲れが背骨に溜まり、膝の上の指がわずかに震えている。だが、震えは疲労のせいだけではなかった。
いま、話さなければ。
「アルヴィン」
名を呼ぶと、彼は文書から顔を上げた。銀色の瞳が、まっすぐに彼女を捉える。
「伝えなければならないことがあるわ」
短い沈黙。暖炉の炭が弾けた。
「私には、前世の記憶がある。この命ではない、前の人生でどう死んだかも、誰に毒を盛られたかも——すべて覚えている」
アルヴィンの左手が、無意識に魔石を覆った。指の隙間から青い光が漏れる。
「ずっと、だろうか」
「物心ついたときから。だからレナードのことも、カミラのことも、誰より知っていた。婚約の真実も、毒のことも」
彼は机に手をつき、ゆっくりと息を吐いた。指の関節が白くなる。
「悪夢を見ていた」
低い声が、炭の熱に揺れる。
「何度も、同じ夢だ。誰かが床に倒れていて——銀の髪が、毒で濡れている」
エリアナは息を呑んだ。左こめかみの痣が、脈打つように熱を帯び始める。
「それは私だ」
「知っていた。夢の中ではわからなかった。ただ、君を失う未来だけは耐えられないと」
彼は左手を差し出した。甲の魔石が、いまははっきりと青白く輝き、その光がエリアナの祖母の指輪に反射して、部屋に星を散らしたようだった。
「この石が君に触れたときだけ光る。共鳴じゃない——誓いだ。君を守るための」
「前世では守れなかったの」
エリアナは立ち上がった。涙が一筋、頬を伝う。拭わなかった。
「あのとき私は、誰も信じられなかった。あなたもいなかった。でも——」
彼女はアルヴィンの左手に、自分の右手を重ねた。魔石の光が指の隙間から溢れ、指輪が呼応して温もりを帯びる。痣がじんと疼き、その熱が涙の筋に溶けた。
「今度こそ、私が運命を変える」
アルヴィンは重ねられた手を、静かに握り返した。魔石はもう、手の甲で落ち着いた光を放っている。
「カミラの件で王妃は揺らぐ。それとこの改竄記録——」
窓の外で、かすかな羽音がした。伝書鳩が客室の窓辺に降り、くちばしで硝子を叩く。
アルヴィンが窓を開けると、鳩は迷わずエリアナの指先に止まった。右脚に、王妃の印章が押された封筒が結ばれている。蝋はまだ柔らかく、封を切ったばかりの熱を帯びていた。
中の紙を取り出す。走り書きだった。文字は震え、インクの掠れた箇所がある。
『明朝、二人きりでお話があります。レナードの出生について、真実をお伝えします』
エリアナは紙をアルヴィンに渡した。
「罠か、保身か」
「どちらにせよ、答え合わせの時期が来た」
彼は紙を蝋燭の火に近づけかけて、やめた。証拠として残すため、机の端に置く。
二人は並んで窓辺に立った。夜明けまではまだ遠い。王都の空は雲がかかり、星ひとつ見えなかったが、彼女の指輪と彼の魔石だけが、部屋の中で互いの光を確かめ合うように明滅を繰り返していた。