FeverStory

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す

第7話 氷の繭、涙の温度

大広間から戻ったエリアナは、リゼットが灯した燭台の炎を見つめながら、浅く息を吐いた。

「お嬢様、やはり医師を」

「いいえ、少し休めば治るわ。あなたも下がって」

リゼットは何かを言いたげに口を開きかけたが、エリアナの視線の先にある窓の外の闇に気づき、黙って一礼する。その瞳に映るのは、エリアナではなく黒い霧の名残だった。扉が閉まる音のあと、部屋に静寂が満ちる。

窓の外では、遠くの広場から祭りのざわめきが潮騒のように届いていた。

燭台の火が不意に揺れた。

風はない。窓は閉まっている。

エリアナは左手の指輪に手を伸ばした。祖母の形見の銀が、いつもより冷たく感じられる。その瞬間、こめかみが灼熱に襲われた。左手の指輪に触れた指先が硬直し、痣から広がる痛みが視界を白く染める。声にならない悲鳴が喉の奥で凍りついた。

窓硝子の向こうに、影が立っている。

いや、違う。すでに影は室内に溶け込んでいた。

漆黒のローブを纏った痩身の男が、右手を差し伸べている。手のひらから放たれた紫黒色の霧が、細い蛇のようにうねりながらエリアナのこめかみへと吸い込まれていく。男の唇が、昆虫の羽音のような低い呪文を紡いでいた。

イヴォだ。カミラが差し向けた毒魔術師。

エリアナは逃れようとベッドの縁に手を突いたが、身体が言うことをきかない。指先がシーツを掴み、かすかな布擦れの音を立てるだけだ。痣は燃えるような熱を帯び、その熱が頭蓋の内側を這い回る。

「大人しくしていれば痛みは一瞬だ」

イヴォの声は無機質だった。虫を観察するような目がローブの奥で細められる。

「あの女が何を約束したか知らないけれど」

エリアナは歯を食いしばり、震える右手で布に包んだ短剣の破片を探ろうとする。指先が枕の下の布の端に触れたが、そこまでだった。痣の疼きが全身を貫き、背中からベッドに倒れ込む。天蓋の布地が視界いっぱいに広がり、その皺の一本一本が異様に鮮明に見えた。痣はすでに黒紫色に変色し、星型の輪郭が溶けるように滲み始めている。

イヴォは一歩近づき、エリアナの痣を覗き込む。呪毒の侵食を確認する、手慣れた目つきだった。霧はまだ彼女のこめかみに絡みつき、細い触手のように脈打っている。

執務室の机に伏せっていたアルヴィンは、自分の叫び声で目を覚ました。

書類の束が腕の下でくしゃくしゃに潰れている。悪夢の残滓が、まだ瞼の裏でちらついていた。銀色の髪の女が床に倒れ、青白い手が血の海に沈んでいく光景——顔は見えない。しかしそれが誰かは、骨の髄までわかっていた。

背筋を冷たいものが走る。

アルヴィンは椅子を蹴るように立ち上がった。左手の甲に埋め込まれた青白い魔石が、これまでにない激しさで明滅している。一拍ごとに光が強まり、やがて脈打つような輝きが部屋の壁に影を躍らせた。この反応は彼が知る限り、ただ一つの意味しか持たない。

エリアナの生命の危機だ。

考えるより先に身体が動いた。冷気が足裏から噴き出し、床に薄氷の軌跡を刻む。執務室の扉を開く手間すら惜しみ、窓を突き破って廊下へ出た。硝子の砕ける音が深夜の静寂を切り裂く。氷の推進力で廊下を滑走しながら、彼は左手の魔石に意識を集中させた。光が彼方の——廊下の反対翼の先にある寝室の扉を指し示すように、指向性を持ち始める。

扉の前でアルヴィンは立ち止まらなかった。

左手をかざし、氷の魔力を解放する。分厚い樫の扉が内側から凍りつき、次の瞬間には氷柱の爆発で粉々に砕け散った。木片と氷の破片が室内に雪崩れ込む。彼が目にしたのは、ベッドに倒れ伏すエリアナの姿と、そのこめかみに向けて第二の呪文を紡ごうとしているローブの男の後ろ姿だった。

「──ッ!」

アルヴィンは言葉を発さなかった。代わりに左手を突き出し、魔石の輝きを極限まで高める。青白い光が閃光のように室内を満たし、エリアナの痣に絡みついていた紫黒色の霧が一瞬で凍りついた。

イヴォが振り返る。

「何者だ」

「彼女の夫だ」

凍結した呪毒の霧が、微かな鈴の音のような響きを立てて粉々に砕ける。光の粒子がエリアナの顔に降りかかり、黒紫色に変色していた痣がゆっくりと元の色を取り戻していく。アルヴィンはさらに魔力を押し広げ、部屋全体を極寒の結界で包み込んだ。壁に霜が走り、燭台の炎が青白く凍りつく。

「毒魔術師か」

イヴォは後退しながら両手を広げた。呪いの残滓が黒い塵となって指先から溢れ出るが、それらは空中でアルヴィンの結界に触れるそばから結晶化し、床に落ちて砕ける。

「カミラの飼い犬が、ずいぶんと忠実だな」

「違うな。俺は誰の犬でもない」

アルヴィンは冷たく言い放ち、右腕を持ち上げた。空気中の水分が凝縮し、鋭い氷の槍が形を成す。その切っ先がイヴォの右肩を狙い定める。同時に、アルヴィンの左頬にある古傷が内側から凍りつき、ひび割れた皮膚から一筋の血が滴り落ちた。魔力の過剰使用が、かつて負った傷口を開かせているのだ。

「俺の妻に二度と触れるな」

宣言と同時に槍が放たれた。

イヴォは回避しようと身を捻ったが、部屋を満たす結界が動きを鈍らせている。氷の槍は彼の右腕を正確に貫き、肉を裂き骨を砕いて窓枠に突き刺さった。悲鳴が上がる。イヴォは貫かれた腕を引き抜くこともできず、左手で懐から何かを取り出し床に叩きつけた。紫色の煙が炸裂し、結界に一瞬の綻びが生じる。

その隙に、イヴォは窓硝子を体当たりで割り、夜の闇へと飛び降りた。

アルヴィンは窓辺まで走ったが、追撃はしなかった。結界の綻びを塞ぎ、背後を振り返る。エリアナが、ゆっくりとまぶたを持ち上げる。その瞳はまだ焦点を結んでいないが、明確な意識の光が戻っている。

「……アル」

「喋るな」

彼はベッドの傍らに膝をつき、彼女の手を取る。エリアナの痣とアルヴィンの魔石が、静かなリズムで同調して明滅を繰り返していた。二つの光が呼応し合い、部屋の極寒の空気の中でかすかな温もりを交換している。左頬の血が一滴、シーツに落ちて赤い花を咲かせた。

「冷たい」

エリアナは彼の手を握り返しながら、かすかに笑った。

「でも、生きてる」

氷の結界が部屋を守る繭のように包み込み、割れた窓の向こうでは黒い霧がまだ領地の境界を覆っていた。しかしその霧は、もはやこれ以上は近づけずにいる。冬薔薇の白い花弁だけが、砕けた硝子の間から吹き込む風に舞い、二人の足元に静かに降り積もった。

結界が解けるにつれ、凍てついていた空気がゆるやかに動き出す。窓から流れ込む夜風はまだ冷たいが、もはや肌を刺すような鋭さはない。家具の表面で溶けた霜が水滴となり、床に散った氷の破片を濡らしていた。カーテンが膨らんでは戻り、破れたレースの縁が静かに波打つ。

アルヴィンは毛布をエリアナの肩にかけると、その縁を無言で合わせた。

「傷」

彼女の視線が彼の左頬に止まる。血はもう固まり始めているが、凍傷の兆候が傷口の周囲に白く広がっていた。エリアナは右手を持ち上げようとして、自分の指がまだ麻痺していることに気づく。

結界が解け始めていた。空気を刺すような冷気がゆるみ、家具の表面を覆っていた霜が水滴に変わる。窓から吹き込む夜風がカーテンを揺らし、床に散った氷の破片をかすかに鳴らした。

エリアナはまぶたの裏に感じる淡い光に導かれるように、ゆっくりと目を開く。視界はまだぼやけ、部屋の輪郭が白くにじむ。最初に捉えたのは、自分の体を半円に囲む氷の壁だった。透明度の高い結晶が幾重にも重なり、外の闇を遮っている。

次に、その結界の向こうに立つ男の姿を認めた。

アルヴィンは左頬から血を流し、右手をかざしたまま動かない。滴る血が顎を伝い、床に小さな染みを作っていた。左手の甲の魔石はまだ青白く脈打っている。彼の周囲だけ空気が冷え、息が白く凍るのが見えた。

「アル……」

声はかすれ、喉が張りつくように痛んだ。それでも彼女は上半身を起こす。腕に力が入らず、肘がシーツの上で滑る。

アルヴィンはエリアナの声に反応し、かざした手を下ろした。結界が音もなく砕け、無数の光の粒子となって消える。彼は二歩で寝台に近づくと、足元に落ちていた毛布を無造作に拾い上げた。

「動くな」

その声にはいつもの冷たさがなかった。ただ乱れ、急いている。

彼はエリアナの肩に毛布をかけた。指先がかすかに震えている。左頬の傷は凍りついたまま血を止めていたが、凍傷で周囲の皮膚が青白く変色し始めている。

エリアナは自分の右手を持ち上げ、彼の左頬に触れようとした。指が途中で止まる。

「傷が……」

「かすり傷だ」

アルヴィンは彼女の手をそっと押し戻し、毛布の端を胸の前で合わせた。

「もう大丈夫だ」

その言葉を、彼はもう一度繰り返した。まるで自分自身に言い聞かせるように。エリアナの視界が突然ゆがみ、熱いものがこみ上げる。彼女は声を押し殺し、両手で顔を覆った。肩が小刻みに震え、指の隙間から息が漏れる。

守られた。誰かに、心から。

その実感が胸の奥で弾け、言葉にならない涙となってあふれ出る。前世では誰も手を差し伸べなかった。毒杯を前に、皆が目をそらした。今ここで、傷つきながらも自分を囲った氷の壁は、あの孤独な死とは正反対のものだった。

アルヴィンは黙って彼女の前に立ち、何かを言おうとして口を開き、結局なにも口にしなかった。彼の右手がためらいながら持ち上がり、エリアナの背中にそっと置かれる。氷の魔力を宿すその手は、冷たいどころか熱を帯びているように感じられた。

エリアナは顔を上げ、涙でぬれた頬のまま彼の胸に額を押し当てる。

「ありがとう」

震える声は、ほとんど息だった。魔石の輝きが徐々に収まっていくのを、彼女は閉じたまぶたの裏で感じていた。

廊下を複数の足音が駆けてくる。

「お嬢様!」

リゼットの叫び声と同時に、扉が勢いよく開かれた。侍女は部屋の惨状を見て一瞬息を呑み、それから寝台の二人に駆け寄る。

「ご無事ですか、どこか怪我は」

「私は大丈夫よ」

エリアナはアルヴィンの胸から体を離し、リゼットにうなずいた。侍女の目がアルヴィンの左頬に留まり、次に床に散った呪毒の痕跡を見下ろす。

老執事バルタザールが息を切らせて入ってきた。手に提げたランプの灯りが、霜の溶けた家具や破損した窓を照らし出す。

「これは……」

「毒魔術師だ」

アルヴィンは短く言い、床に残る黒紫色の残留物を指さした。右手をかざすと、彼の周囲の空気が再び冷える。呪毒の痕跡は瞬く間に白く凍り、小さな霜の箱がその場に形成された。蓋が閉じるように氷が盛り上がり、中に呪毒を完全に封じ込める。

「証拠として保存する」

バルタザールは深くうなずくと、くるりと廊下に向き直った。

「領内の全ての門を封鎖せよ。侵入者の追跡を開始する」

老執事の号令に、廊下で控えていた使用人たちが走り出す。複数の足音が遠ざかり、階下で警鐘が打ち鳴らされた。

エリアナはリゼットに肩を支えられながら寝台の端に腰掛け、封印された氷の小箱を見つめていた。それから顔を上げ、アルヴィンと視線を交わす。

「この呪いは……前世で私が受けた毒に、とてもよく似ている」

言葉を選びながら、彼女はそれだけを口にした。それ以上はまだ話せない。けれど信頼の証として、この推測だけは共有したかった。

アルヴィンはしばらく彼女の目を見つめ、それから短くうなずいた。

「わかった」

ただそれだけだった。追及もなければ疑いもない。彼の目には、彼女の言葉を受け止める静かな決意だけが浮かんでいる。エリアナの胸の奥で、氷のように冷たかった何かがわずかに溶け始めた。

リゼットが毛布をかけ直しながら、アルヴィンに向かって一礼する。

「旦那様、お怪我の手当てを」

「後でいい」

エリアナはその言葉を遮るように、そっと彼の手に触れた。

「今夜は傍にいてほしい」

アルヴィンは一瞬、言葉を失ったように彼女を見下ろした。それから椅子を引き寄せ、寝台の脇に座る。彼の手がエリアナの手を握り返した。魔石の光はもう消えている。

窓の外で、警鐘が一際高く鳴り響いた。

廊下をバルタザールが血相を変えて戻ってくる。老執事は息を整える間もなく、寝室の入り口で声を張り上げた。

「イヴォが境界の森で煙幕を使い、もう一人の共犯者らしき影と合流しました。領内にまだ敵が潜んでいます」

アルヴィンは椅子から立ち上がる。左手の甲で、魔石が再び青白く光り始めていた。

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す第7話 氷の繭、涙の温度