FeverStory

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す

第8話 契約守護の誓い

アルヴィンは椅子から立ち上がりかけた体を止め、エリアナの手を握ったままバルタザールを見た。

「共犯者の特徴は」

「煙幕が濃く、姿までは。ただ、イヴォより体格が大きい影だったと門番が」

警鐘がもう一度鳴る。遠くで犬が吠え、松明の灯りが窓の外をかすめた。

「追跡隊に伝えろ。捕縛より情報を優先しろ。それと氷の結界を領境に三重に張れ。俺が起動する」

「はっ」

バルタザールの足音が廊下を遠ざかる。アルヴィンはエリアナに向き直った。左手の甲で魔石が青白く脈打っている。

「医師を呼ぶ。それまでリゼット、彼女を」

「旦那様こそ、その頬の傷を」

リゼットが遮った。アルヴィンは初めて自分の左頬に手をやる。凍った血が指先で砕けた。

「後でいい」

「いいえ、よくありません」

エリアナの声はかすれていたが、まっすぐに彼を射抜いた。

「あなたが動けなくなれば、この領地は終わりです。リゼット、包帯と清潔な布を」

リゼットが小走りに部屋を出る。室内に二人きりになった。

アルヴィンは寝台の脇の椅子に腰を下ろした。背もたれに寄りかからず、膝に肘をつく。エリアナの手はまだ彼の手の中にあった。

「眠れ」

「眠れません」

エリアナは小さく首を振った。まぶたが鉛のように重い。だが目を閉じれば、黒紫色の霧が待っている気がした。

「話を」

アルヴィンは短く言い、ランプの灯りを絞った。

「何を」

「何でもいい。声が聞こえていれば、うなされない」

エリアナは天井を見上げた。霜の溶けた跡が染みになり、古い地図のように広がっている。

「……私の母は、私が六つの年に亡くなりました。熱病でした」

アルヴィンは黙って聞いていた。彼の親指がエリアナの手の甲をゆっくりとなぞる。

「覚えているのは、白い手でした。氷枕を替えてくれた手が、とても冷たくて。その手を握ると熱が下がる気がして」

声が途切れた。アルヴィンの手がわずかに力を込める。

「続けて」

「数年後、父がカミラの母と再婚しました。カミラは三つ年下で、最初は私を本当の姉のように慕って。今思えば、それも計算だったのでしょうが」

ランプの灯りが揺れた。窓の外で警鐘が一つ、また一つと遠ざかる。

「殿下との婚約が決まったのは、私が社交界に出た年です。政治的な縁組でした。それでも私は……」

エリアナはそこで口を閉ざした。アルヴィンの手が止まる。

「無理に話すな」

「いいえ」

彼女は息を整えた。

「私を毒したのは、カミラです」

アルヴィンの指がぴくりと動いた。彼は顔を上げず、エリアナの手を見つめている。

「毒の症状を調べ、証拠を集めているうちに、殿下も共犯だと確信しました。婚約を破棄する前に、私は倒れた。そして目が覚めたら……」

「過去に戻っていた」

アルヴィンの声は低く、静かだった。

エリアナは目を見開いた。アルヴィンは淡々と続ける。

「俺は悪夢を見る。何年も前からだ。女が一人、石造りの部屋で息絶える夢だ。顔は見えない。ただ、彼女の左のこめかみに星の痣があった」

エリアナは無意識に自分のこめかみに手をやった。

「あなたも」

「何もわかっていなかった。お前に会うまでは」

アルヴィンは顔を上げた。青白い魔石の光が、彼の左頬の古傷を浮かび上がらせる。

「バルコニーで初めてお前を見た瞬間、この石が光った。理由はわからなかった。だが今なら」

言葉の途中で、アルヴィンの左手の魔石が一際強く輝いた。同時にエリアナのこめかみの痣が熱を帯びる。

アルヴィンの視界が白く弾けた。

冷たい石の床。倒れた女の銀の髪が血に濡れている。けれど傍らにいるのは、見守るだけの無力な影ではない。氷の壁が女を包み、毒の霧を外へと押し返している。

「アルヴィン……お願い、今度は置いていかないで」

エリアナのうわ言が、ヴィジョンの声と重なる。過去と現在が、彼の中で一本の線に繋がった。

ヴィジョンが引く。アルヴィンはゆっくりとエリアナの手を持ち上げ、自分の額に触れさせた。

「二度と離さない」

彼は低く、短く、誓いを刻みつけるように言った。

「俺の全てをかけて、お前を守る」

エリアナの返事はなかった。その代わり、彼女のこめかみの痣が淡く輝き、魔石の光と溶け合う。指輪の銀も呼応するように一瞬だけ光を帯び、そして静かに収まった。

リゼットが包帯を抱えて戻ってきたのは、それから間もなくだった。彼女は部屋の空気が変わっていることに気づき、足を止める。

「……旦那様、包帯を」

「ああ」

アルヴィンはエリアナの手をそっと毛布の下に戻し、立ち上がった。リゼットが清潔な布を差し出す。

「自分でやる」

「お嬢様がお許しになりません」

リゼットは有無を言わさず布を広げた。アルヴィンはしばらく彼女を見下ろし、それから小さく息を吐いて椅子に座る。

「手早く頼む」

リゼットは手際よく彼の左頬に布を当てた。凍傷でひび割れた皮膚から、ようやく赤い血がにじみ始める。

エリアナはその光景を、まぶたの重みに逆らいながら見ていた。アルヴィンの横顔からは、もう能面のような冷たさは消えている。ただ一人の男として、傷をさらけ出し、侍女に手当てを任せている。

氷の騎士は、もういなかった。

夜明け前、医師が到着した。白髪の小柄な老人で、重そうな鞄を抱えている。マルタが案内し、息を切らせて寝室に入ってきた。

「ホレイス医師です。三十年前から公領の医務を」

「よい、紹介は後だ」

医師は手をひらひらと振り、寝台に歩み寄った。エリアナの手首を取り、目を閉じる。しわだらけの指が脈を探り、それからそっと彼女のまぶたを持ち上げた。

「ふむ」

医師は鞄から小さなレンズを取り出し、エリアナの左こめかみに近づけた。

「氷の魔力で呪毒を中和したな。誰が」

「俺だ」

アルヴィンが答えると、医師はくるりと振り返った。

「旦那様が? 意識的にか」

「無意識だ。魔石が勝手に反応した」

医師はしばらくアルヴィンの左手を見つめ、それから深くうなずいた。

「なるほど。奥方のこの痣と、旦那様の魔石が共鳴したのでしょう。魔力的な保護反応です。珍しいが、例がないわけではない。古い文献では『契約守護』と呼ばれる現象だ」

「契約守護」

エリアナが繰り返した。

「互いの魔力が無意識に相手の危機を察知し、防御する。通常は数十年連れ添った夫婦でも稀な現象です。婚約したばかりの二人に起きた例は、私は寡聞にして知りません」

医師はレンズをしまい、鞄から小さな瓶を取り出した。

「解毒薬です。呪毒の残滓はほとんど消えていますが、念のため三日間、朝夕に一さじずつ。熱は明朝には下がるでしょう」

「ありがとうございます」

エリアナが礼を言うと、医師は穏やかに微笑んだ。

「奥方こそ、よく耐えられました。大抵の者は呪毒に触れただけで心が砕けます。あなたは違う」

医師は鞄を閉じ、アルヴィンに向き直った。

「旦那様、一言」

二人は部屋の隅に移動した。医師は声を潜める。

「先ほどは寡聞にして知らないと言いましたが、一つだけ気になる点が」

「何だ」

「契約守護が発動するには、双方に強力な魔力の素養がなければなりません。奥方からは微弱な魔力しか感じませんでしたが、痣の反応は明らかに高位の血筋を示していました。何か封印じみたものが働いている可能性があります」

アルヴィンはエリアナを一瞥した。彼女はリゼットに支えられて薬を飲んでいる。

「彼女には話すな」

「もちろんです。まだ仮説にすぎませんから」

医師は一礼し、寝室を後にした。廊下でマルタが待っており、客間へと案内していく。

アルヴィンは寝台に戻った。エリアナのまぶたはもう半分閉じている。

「眠れ。朝までここにいる」

「……約束、ですよ」

エリアナはかすかに微笑み、そのまま眠りに落ちた。今度はうなされていない。安らかな寝息が、静かな部屋に満ちていく。

アルヴィンは椅子に腰を下ろし、エリアナの手を握ったまま目を閉じた。魔石の光が、ゆっくりと呼吸するように明滅を繰り返す。

夜明けの光が窓辺を薄く染め始めた頃、エリアナは目を覚ました。

最初に見たのは、自分の手を握ったまま椅子で眠るアルヴィンの姿だった。左頬の包帯がわずかにずれ、その下の古傷が露わになっている。彼の手は冷たいはずなのに、彼女の手のひらには温もりが伝わっていた。

リゼットが部屋の隅の椅子から立ち上がり、音を立てずに近づいてくる。

「お嬢様、お加減は」

「……ずいぶん楽になったわ」

エリアナは声を潜めた。アルヴィンを起こしたくなかった。

「旦那様は一睡もなさらず、一晩中お嬢様の手を握っておられました」

「一晩中」

「お嬢様がうなされると、タオルを替えて、ずっと話しかけておられました。それで朝方、ようやく」

リゼットはそこで口をつぐんだ。エリアナがアルヴィンの手を、そっと握り返したからだ。

包帯の上からでも、指の節が固く張っているのがわかる。戦いと、魔力の酷使と、一晩の看病と。この手が、どれだけのものを支えてきたのか。

「ありがとう、アルヴィン」

エリアナは静かに言った。

「私も、あなたを信じる」

その言葉に応えるように、アルヴィンのまぶたがゆっくりと開いた。青灰色の瞳がエリアナを捉え、何かを確かめるように細められる。

彼は何も言わなかった。ただ、握られた手にわずかに力を返した。

無言のまま二人は視線を交わす。そこにはもう、政略結婚の距離も、前世の秘密の重さも、ただの婚約者同士のためらいもない。あるのは、互いの手を離さないという確かな意志だけだった。

リゼットは音を立てずに部屋を後にした。扉を閉める直前、彼女は一瞬だけ振り返り、それから静かに廊下へ消えた。

王都の離宮では、午後の陽射しが窓辺の帳を黄金に染めていた。レナード王子は執務机に肘をつき、届いたばかりの書簡の山を眺めている。開封された封蝋には、王妃の印章が押されていた。

扉がノックもなく開いた。

「殿下」

カミラ・ヴェルデが立っている。濃紺の乗馬服に身を包み、手には鞭も持たず、ただ微笑んでいた。

「人払いは」

「してある」

レナードは書簡を机の端に押しやった。カミラはゆっくりと歩み寄り、机の前に立つ。彼女は座らなかった。

「ご報告があります」

「グレイヴ公領からの報せか」

「いいえ」

カミラは右手をそっと自分の腹に当てた。

「私、殿下のお子を身籠ったようです」

レナードの顔から表情が消えた。彼は椅子の背にもたれかかり、カミラの腹と顔を交互に見る。

「……冗談だろう」

「医師にも診せました。まだ確証には早いそうですが、兆候は全て揃っていると」

カミラの声は甘く、しかし芯が通っていた。

「この子は必ず殿下の後継ぎになります」

「待て」

レナードは立ち上がった。

「まだ婚約も正式には破棄していない。エリアナは生きているし、グレイヴも健在だ。その状態で子ができたと公表すれば」

「公表はしません。まだ」

カミラは微笑を深めた。

「必要なのは、婚約の早期正式化です。エリアナが戻る前に、殿下と私の婚約を王家が承認すれば、何も問題はありません」

「父上が許すと?」

「王妃陛下が動いておられます」

カミラの言葉に、レナードの眉が動いた。

「王妃が?」

「エリアナの祖母が遺したものについて、陛下は以前から調査を進めておられると聞きます。詳細は存じませんが、少なくともエリアナを快く思っていないのは確かです」

カミラは机に手をつき、レナードに顔を近づけた。

「殿下が私を選べば、ヴェルデ公爵家の資産はすべて殿下のものになります。いえ、私たちの子のものです」

レナードは黙り込んだ。窓辺で帳が風に揺れ、午後の光がカミラの横顔をなでる。

「……子は、確かなのか」

「確かです」

カミラは即答した。彼女の目はまっすぐにレナードを見つめている。嘘も真実も、その瞳の奥では溶け合って見分けがつかない。

「わかりました。婚約の早期承認を、王妃に打診してみよう」

カミラは深く礼をし、背を向けて部屋を後にした。扉が閉まると、レナードは再び椅子に崩れ落ちる。彼の白い礼服の金の刺繍が、鈍く光を返していた。

カミラは馬車に揺られながら、窓の外の王都の街並みを眺めていた。ヴェルデ公爵邸へと向かう石畳の道を、馬の蹄が規則正しく叩く。

彼女は右手を腹から離し、そっと自分の唇に触れた。指先は冷たく、脈だけが速い。

「後継ぎ、ね」

小さく呟いた声は、誰にも聞こえなかった。

前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す第8話 契約守護の誓い