前世で毒殺された公爵令嬢が、今度は氷の騎士を味方に運命を覆す
第9話 雪解けの誓い
夜明けの庭園は、雪解けの気配で満ちていた。
凍てついていた土がゆるみ、冬の間に閉じ込められていた草の匂いが、かすかに立ちのぼっている。遠くの森からは、氷の割れる音が時折ひびき、それが朝の静けさをいっそう澄んだものにしていた。エリアナは石碑の前に立ち、刻まれた自分の名を指でなぞる。冷たい石の感触が、昨夜の熱をまだ覚えている肌に沁みた。指先がたどる一字一字は、死者の名录に刻まれたものだというのに、今朝はなぜか、脈を打っているように感じられる。
あの言葉を、まだ返していない。
「君を失う未来だけは耐えられない」——アルヴィンはそう言った。月明かりの下で、まるで刃物を突きつけられたかのような真剣さで。そして彼女は答えられなかった。答えるには、自分の中のすべてを決めなければならなかったからだ。前世の記憶も、毒の苦しみも、裏切りの痛みも、そのすべてを抱えたまま進む覚悟を。
冬薔薇の白い花弁が、朝風に一枚だけ散って石碑の縁にとどまる。まだ堅く閉じた蕾もあるなかで、その一枚だけがなぜか、今この瞬間を待っていたかのように離れた。エリアナは祖母の指輪にそっと触れた。銀の冷たさは変わらないのに、今朝はわずかに脈を打つようだった。指に沿って、かすかな温もりが這いあがってくる。それはまるで、祖母の手がまだこの指輪を通して自分を支えようとしているかのようで、彼女はそっと息を呑んだ。
「ここにいたのか」
振り返ると、アルヴィンが庭園の入口に立っていた。外套の襟に霜を残したまま。どれほど長く外にいたのか、銀色の髪にも細かな氷の粒が光っている。その立ち姿は夜明けの青い空気に溶け込むように静かで、けれど彼の左手の魔石だけが、かすかに瞬いていた。
「早起きなのですね」
「寝られなかった」
アルヴィンは短く答え、それからゆっくりとまばたきをした。その目許に、昨夜の問いかけをまだ手放していない者の翳りが浮かんでいる。彼は石碑の傍らまで歩み寄り、刻まれた文字に視線を落とした。古代語で綴られたエリアナの名——それは先代の公爵夫人の名でもあるという。死者と同じ名を持つ生者。その奇妙な符合に、彼は何を思っているのだろうか。
「私は」
エリアナは冬薔薇の茂みに目を向けたまま口を開いた。白い花弁の奥で、朝露がかすかにきらめいている。
「王都に戻ります。あなたと共に」
「危険だとわかっているのか」
「わかっています。だからこそ、一人では行けない」
彼女は指輪を握りしめた。昨夜まではただの形見だった銀の輪が、今は小さく脈打っている。祖母が遺したものが、今になって目を覚ましたかのようだった。
「今度こそ運命を変えるんです。あなたという盾も得た今なら」
「盾か」
アルヴィンの口元がほんのわずかに緩む。それは笑みと呼ぶにはあまりにかすかで、けれど彼の銀色の瞳から、張り詰めていたものが一瞬だけ溶けたのがわかった。
「それでいい。俺は君を失わないための障壁であれば十分だ」
エリアナは首を振ろうとして、こめかみのあたりに奇妙な熱を感じた。星型の痣が疼く。それは前世で毒が沁みた位置。あの時は焼けつくような痛みだった。なのに今は、痛みではなかった。温かくて、でも切なくて、何かがほどけていくような感覚が、痣の奥から滲み出している。
指輪が青白い光を一瞬だけ放つ。
二人の間の冷たい空気が波立った。冬薔薇の茂みがざわりと揺れ、霜がはらはらと落ちる。
「痣が」
アルヴィンが半歩近づく。左手の魔石が応えるように明滅していた。彼の顔に浮かんでいるのは警戒か、それとも別の感情か。少なくとも、ただの観察者ではなかった。
「光っている」
エリアナは指先でこめかみに触れた。熱い。脈拍と共に、何かがほどける感覚が広がる。まるで鍵が錠前に差し込まれる瞬間のように、自分の内側で何かがかちりと音を立てた気がした。祖母が遺した手記にあった文言が脳裏をよぎる——「星は約束を留める器」。あの言葉の意味が、今ようやく骨の髄まで届いたように思う。
「これは」
彼女はゆっくりと息を吐いた。白い吐息が空に溶けていく。
「私の覚悟の証です」
アルヴィンは痣をじっと見つめた。何かを尋ねかけて、口を閉じる。その沈黙が答えだった。彼は問わないと決めたのだ。問う権利など自分にはないと、そう線を引くようにして。その不器用な遠慮が、エリアナにはたまらなくもどかしく、けれど今はその距離がありがたくもあった。
氷の騎士は、ただ魔石の輝きを抑えながら彼女の前に立っていた。
「わかった」
短い返事だけが、冬薔薇の庭に落ちる。
石碑の上の花弁がもう一枚、風に運ばれて舞い上がった。エリアナはそれを目で追いながら、守護の契約がもはや単なる言葉ではないことを知る。痣と指輪と魔石——三つの輝きは、誰の目にも見えるわけではない鎖で繋がれていた。目に見えないそれは、けれど鋼よりも強く、三人の運命——祖母と、彼女と、彼と——を結んでいる。
「行こう」
アルヴィンが背を向ける。外套の裾が、まだ凍った草の上をかすかに擦った。
「馬車は準備できている」
エリアナは碑に背を向ける前に、もう一度だけ自分の名を視界の隅に収めた。今度は恐怖ではなかった。ただ、ここに戻るための目印のように映る。死者の名ではなく、生きてここに立つ者の証として、その文字は朝陽を受けていた。
彼女は指輪をそっと離し、庭園の石畳を踏みしめて歩き出した。
アルヴィンとエリアナは、冬薔薇の庭園をあとにした。砂利を踏む靴音だけが、しばらく二人の間にあった。その音は規則正しく、けれどどちらの歩調に合わせるでもなく、奇妙な均衡を保っている。館へ続く石畳の小径を歩きながら、エリアナは先ほどの痣の疼きが、いまは静かな凪に変わっていることに気づく。嵐のあとの海のような、深く沈んだ静けさだ。アルヴィンは終始無言だったが、歩調を彼女に合わせ、魔石のはめられた左手が微かに輝くたび、さりげなく外套の裾で隠した。重厚な木扉をくぐると、玄関ホールの冷気とは違う、蝋燭と乾燥ハーブの匂いが二人を包む。
庭園から屋内へ戻ると、石造りの玄関ホールにはすでにマルタが待っていた。皺の深い手が、卓上の小さな革袋を整えている。老女の指は節くれ立ち、長年の奉公が刻み込まれていた。
「お戻りで」
「準備は」
エリアナが訊くより早く、老女は深く頷いた。
「馬車の用意は整いました。乾燥食料と水、毛布も積んであります。王都までの道のりは二日、山道に雪が降る前に抜けられます」
「ありがとう、マルタ」
「それと」
マルタは一歩近づき、声を潜めた。ローズマリーと煙草の匂いが、彼女の衣服からほのかに漂う。
「王都から報せが届いております。アッシュフォード子爵家のカミラ様が、懐妊の兆しがあると——まだ正式な発表ではございませんが、侍女たちの口から広まっておる噂で」
エリアナの指先が、とっさにドレスの布を掴んだ。アルヴィンは無言で彼女の横顔を見つめる。彼の視線は熱を帯びていないのに、肌の上で重みを持った。
「王宮の空気が、貴方様方には毒となるやもしれません」
マルタの濁った瞳が、エリアナをまっすぐに射抜いた。その瞳は年老いてなお、宮廷の毒も裏切りも見抜いてきた者の鋭さを湛えている。
「噂の出所は」
「王妃陛下付きの侍女頭だそうです」
エリアナはゆっくりと息を吐いた。心臓は跳ねているのに、思考だけが妙に冷えていく。幼い頃からこの感覚は知っていた。恐怖のさなかで、むしろ頭だけが凪いでいく瞬間を。
(妊娠のほのめかし——まだ確証もない段階で。つまり、私の不在を利用して婚約を無効化する布石ね)
「王妃が動いているのなら、婚約の早期承認を狙っているのでしょう」
マルタは答えず、ただ深く頭を下げた。その白い髪が、蝋燭の灯りを受けて銀色に光る。
「姫様」
ホールの奥からリゼットが小走りに現れた。旅装束に着替え、肩には小さな行李を提げている。頬は上気し、息はかすかに乱れていた。どれほど急いで支度を整えたのか、その襟元はまだきちんと留められていない。
「私もご一緒します。姫様を一人で——お一人でなど行かせられません」
エリアナはリゼットの顔を見て、ほんの少し口元を緩めた。この侍女はいつもそうだ。遠慮も計算もなく、ただ自分のために駆けてくる。
「助かるわ。でも、向こうはあなたにも危険が及ぶ」
「覚悟の上です」
リゼットは行李をぎゅっと抱え直し、唇を引き結んだ。その目には、かつて幼いエリアナが夜泣きした夜に見せたのと同じ、小さな決意が灯っている。
エリアナはマルタに向き直る。老女の顔には、すでに別れの表情が浮かんでいた。
「カミラが懐妊をほのめかしているなら、あちらは時間との勝負に出ている。まだ確証がないということは、それが隙になる」
「策がおありですか」
「これから考えるのよ」
エリアナは口元に手を当て、ほんの一瞬息を止めた。声にはすでに、何かを掴みかけた者の静かな昂りが滲んでいた。マルタはそれを見て、深くは訊かなかった。
玄関ホールを抜けると、正門の外に黒塗りの馬車が停まっていた。御者は手綱を握ったまま微動だにしない。その肩には霜が降り、おそらく夜明け前から待っていたのだろう。灰色の空気が頬を刺し、遠くの山肌には白い筋が走り始めている。冬がまだ終わっていないことを、あの山は知っているようだった。リゼットが先に乗り込み、座席の位置を整えた。彼女の細い指が、毛布を畳み直し、窓枠の結露を布で拭う。
エリアナが踏み台に足をかけたとき、背後でアルヴィンの外套が衣擦れの音を立てた。
「エリアナ」
呼び捨てに、彼女は振り返る。風が二人の間を吹き抜け、冬薔薇の花弁を一枚、どこかから運んできた。
アルヴィンは左手の甲を見下ろしていた。青白い魔石が、外套の隙間からかすかに瞬いている。その光は、朝の薄明かりのなかでは、ほとんど幻のように頼りなかった。
「この石が、君に触れた時だけ光る理由を——王都で必ず突き止める」
声は低く、けれど刃のように鋭かった。誓いというより、彼自身に課した命令のように響く。
エリアナの胸の奥で、何かがはぜた。言葉ではない。前世の断片——誰かに手を伸ばされ、掴み損ねた指先の冷たさ。あの時も、こんな風に誰かが言っただろうか。言えずに終わった言葉が、今、別の人の声で自分に届いている。
「……そう」
彼女は踏み台から降りると、アルヴィンの左手にそっと自分の指を重ねた。手袋越しではない、生の指先で。
魔石が淡く青ざめて光る。
「その答えが何であれ、私はもう逃げたりしない」
指先が彼の手の甲をなぞり、それから離れた。ほんの一瞬の接触なのに、離れたあとの冷たさがやけに際立つ。エリアナは振り向かずに馬車へ乗り込む。振り返ったら、何かを言いすぎてしまいそうだったから。
アルヴィンは一瞬だけ自分の手を見つめ、それから外套で魔石を覆い隠した。覆い隠すその仕草が、何かを守るようでありながら、何かを閉じ込めるようでもあった。
馬車が動き出す。車輪が凍りかけた泥を噛み、グレイヴ城の鉄門が背後で軋みながら閉じた。朝陽がようやく城の塔を照らし始め、窓ガラスが一斉に光を反射する。
窓の外は、もう麦畑ではない。褐色に枯れた荒野が広がり、遠くの丘に風車の羽根が止まっている。風はあるのに羽根は回らず、ただ冬の終わりを待っているようだった。エリアナは額を窓枠に寄せ、流れる景色を目で追っていた。ガラス越しの冷たさが、痣の残り熱を心地よく冷やしていく。
隣の座席で、アルヴィンは目を閉じている。眠っているのか、ただ瞑目しているのかはわからない。けれどその背筋は微塵も弛んでおらず、いつでも動ける者の静けさがあった。対面のリゼットは毛布を膝に掛け、浅い寝息を立てている。旅の疲れが、少女の頬をほんのりと染めていた。
(カミラの懐妊。王妃の動き。あの二人が結べば、ヴェルデ家の資産は王家のものになる)
エリアナは膝の上で指を組んだ。祖母の指輪が、冷たいまま肌に馴染んでいる。窓から差し込む弱い日差しを受けて、銀の表面が鈍く光った。
(でも、まだ確証はない。そこだ)
彼女は目を細めた。前世では、こんな風に策を練る余裕すらなかった。ただ無垢に婚約を信じ、毒を盛られ、倒れた。あの時の自分は、何も知らなかった。けれど今は違う。知っているからこそ、動ける。
馬車の揺れが、石畳の規則的な音に変わった。荒野を抜け、街道に出た証拠だ。窓の外に家並みが増え始め、夕陽がオレンジ色の筋を屋根の向こうへ落とす。煙突からは細く煙が立ちのぼり、夕餉の支度をする家々の気配が、馬車の中にまで届くようだった。
「……着く」
アルヴィンが目を開けた。彼の左手の甲で、魔石がひとつ明滅する。まるで王都の空気を察知したかのように。
エリアナは背筋を伸ばした。長い旅路の疲れが、背骨のあたりに溜まっている。けれどそれを振り払うように、深く息を吸い込んだ。
「グレイヴ辺境伯」
「なんだ」
「今回の王都入りは——私にとって単なる帰還ではありません。前世からの決着をつける戦いの始まりです」
アルヴィンは彼女を見つめ、右手を差し出した。その手は大きく、節くれ立ち、剣を握る者の手だった。
「私は君の盾となり剣となる。その誓いは、あの夜から変わっていない」
エリアナはその手を握り返した。骨張った指の硬さが、かえって胸の奥を熱くする。氷の騎士と呼ばれる男の手は、氷などではなかった。
彼女の左こめかみが、じんと疼いた。星型の痣が淡く輝き——アルヴィンの魔石が、呼応するように青白く光を返す。馬車の中で、ふたつの光が混ざり合い、リゼットの毛布の上に淡い影を落とした。
馬車が止まった。
窓の外で、衛兵の声が響く。その声は硬く、無機質で、王宮という装置の一部のように響いた。
「ヴェルデ公爵令嬢とグレイヴ辺境伯——王宮からの通達により、到着次第ただちに王妃殿下の元へ参上せよとの仰せです」
エリアナはアルヴィンと視線を交わした。
彼の銀色の瞳が、問うよりも先に、肯定を返す。
馬車がゆっくりと、王都の門をくぐっていく。鉄扉が背後で閉まる重い音が、かつて毒に倒れた場所への帰還を、容赦なく知らしめていた。