破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第1話 藍色の契約
首の後ろで、刃が空気を裂く音がした。
リリアンは跳ね起きた。心臓が耳の裏で拳のように打ち、喉からは掠れた息が漏れる。シーツは汗でぐっしょりと濡れ、指先はまだ首の傷を確かめるように震えていた。
(……違う)
ここは処刑台じゃない。自室のベッドだ。
カーテンの隙間から差し込む夕陽が、見慣れた天蓋の紋様をオレンジに染めている。窓の外では馬車の車輪が石畳を叩く音。使用人たちの遠い笑声。すべてが、三年前に何度も聞いた日常の音だった。
夢じゃない。
リリアンは震える指で首筋をなぞった。刃の痕はない。傷ひとつない、滑らかな肌。
「戻ったのね」
自分の声はひどく低く、掠れていた。
断頭台の冷たい感触、群衆の蔑みの視線、そして王太后の凍りつくような笑み——すべてがまだ、まぶたの裏に張りついている。
だが今は星暦三百十七年、水の月の十五日。これから始まる夜会で、彼女は王太子ユリウスの婚約者候補として紹介されるはずだった。いや——紹介されてしまった。前世では。
同じ道を辿るわけにはいかない。
「ソフィア」
呼びかけると、控えの間から侍女が小走りに現れた。鳶色の髪をきっちりと結い上げた、有能な側近だ。
「お目覚めですか、お嬢様。夜会まであと二時間ほど——」
「ドレスを変えるわ。藍色のを出して」
「藍色、でございますか? 本日は王太子殿下がお好みの白をと、旦那様が」
「いいえ」
リリアンはきっぱりと言い放った。鏡台の前に座り、自分の顔を見据える。アイスブルーの瞳が、硝子の向こうで冷たく光っていた。
「今日の夜会で、わたくしは婚約者候補にはならない。そのための藍よ」
ソフィアの指が一瞬止まった。が、彼女はそれ以上問わず、黙って衣装部屋へ向かう。
リリアンは鏡の中の自分と対峙した。プラチナブロンドの巻き毛は寝乱れ、頬はまだ悪夢の熱を帯びている。けれど瞳だけは違う。これは三年前の無垢な公爵令嬢の目じゃない。
二度と、あの断頭台には立たない。
そのために必要なのは、王太子の寵愛でもなければ、家名の威光でもない——冷酷無情と噂されるあの男との、打算に満ちた契約だけだ。
馬車が王宮の敷石を踏む音が、かすかに車内まで響いてくる。
リリアンは向かいの座席で息を整えた。藍色のドレスは銀糸の刺繍が星のように散りばめられ、動くたびに深海の煌めきを纏う。首元には真珠のチョーカー。左のこめかみの黒子が隠れるよう、髪は低めのハーフアップに結い上げていた。
「宰相閣下との面会の手配は?」
「すでに。閣下の側近セバスチャン殿が、夜会開始から一時間後、大広間の西柱のあたりでお待ちいただけると」
「西柱……」
リリアンは微かに口元を緩めた。社交界の中心から最も遠い、誰も近づかない場所だ。宰相らしい人選びと言える。
「ですがお嬢様、宰相閣下はあの——」
「冷酷で、血も涙もなく、政敵を躊躇なく破滅させる男。知っているわ」
「それなのに、なぜ」
ソフィアの声には隠しきれない困惑があった。無理もない。前世のリリアンも、あの男には近づきもしなかったのだから。
「ちょうどいいのよ」
リリアンは馬車の窓から、徐々に近づく王宮の灯りを見つめた。
「わたくしが欲しいのは愛でも保護でもない。取引のできる相手。感情に流されず、条件を守り、価値のある情報に正当な対価を払う——そういう人」
大広間はすでに熱気に満ちていた。
百を超える蝋燭が黄金の燭台で煌々と燃え、楽団の弦の音が優雅に流れる中、色とりどりのドレスを纏った貴族たちがグラスを傾け合う。リリアンが一歩を踏み入れると、いくつもの視線が彼女に注がれ、そして嘲笑を含んだ囁きに変わった。
「エーデルシュタイン公爵家のご令嬢ですって」 「王太子殿下の婚約者候補だとか。随分と大胆な——」 「でもあの宰相閣下がいらっしゃる夜会で、よくもまあ……」
リリアンはすべてを聞き流しながら、まず王族への礼を済ませるべく奥へ進んだ。
王太后は玉座に近い上座で、数人の取り巻きを従えて談笑している。紫紺のドレスに身を包み、年の頃は四十半ばにして肌にはまだ艶がある。が、その瞳だけは凍った湖のように底知れない。
リリアンは胸の奥で脈が速まるのを感じた。
(あの笑み)
断頭台の上で、彼女が見せたのと同じ冷たい弧。けれどリリアンは完璧な礼を捧げ、王太后の挨拶を「お言葉痛み入ります」の一言で受け流した。
王太子ユリウスはと言えば、数人の若い令嬢に囲まれ、困惑した笑みを浮かべている。優しげな美貌は前世と変わらない。だがその優しさが誰も救わなかったことも、リリアンは知っていた。
「エーデルシュタイン公爵令嬢」
ユリウスが彼女に気づき、一歩を踏み出そうとした。
その瞬間を狙って、リリアンは深く礼をし、そのまま人の波に紛れて身を翻した。
西柱は大広間の端にあり、灯りさえも少ない。
宰相クロード・ヴィンセントはそこにいた。深紅の裏地が覗く漆黒の長衣をまとい、片手にワイングラスを持ちながら、壁にもたれて一人、会場を見渡している。蜂蜜色の髪は無造作に後ろへ流され、切れ長の蒼い瞳は温度を持たず、ただ観察していた。
彼の周囲だけがぽっかりと空間になっている。誰も近づきたがらないのだ。
リリアンはまっすぐにその空白へ踏み込んだ。
クロードの視線がゆっくりと動き、彼女を捉える。品定めするような、あるいは虫けらでも見るような無機質な眼差し。
「宰相閣下」
リリアンは背を伸ばし、彼の二歩手前で立ち止まった。
「お時間をいただき、感謝いたします」
「……聞いている。婚約者候補の令嬢が、よりにもよって私に話があると」
声は低く、平坦で、感情の欠片もない。
「手短に。ここにいること自体が、すでに貴女の不利益になる」
「存じております」
リリアンは息を吸い込んだ。指先がドレスの布を握りしめているのを、必死に意識の外へ追いやる。
「わたくしと——契約結婚を結んでいただきたいのです」
一拍の沈黙。
クロードの眉が微かに動いた。興味ではない、単なる計算のための間合いだとリリアンにはわかった。
「聞き間違いかと思ったが、そうではないらしい」
彼はワイングラスを脇の給仕台に置き、初めてリリアンを正面から見据えた。蒼い瞳の奥で、何かが冷徹に光る。
「公爵令嬢が、よりによって私に。理由は」
「王太子殿下の婚約者候補から外れるためです」
「王太子妃を望まぬと?」
「望みません」
即答したリリアンに、クロードはわずかに目を細めた。
「面白いな。たいていの令嬢は、その席を奪い合って醜態を晒す」
「わたくしは違います」
「ようだな」
クロードは柱に背を預けたまま、わずかに首を傾げた。
「だが私に益はない。婚約者候補から外れるだけなら、他の男でもできる」
「代わりに、あなたの政敵を排除する情報を提供します」
リリアンの声は震えなかった。
「王太后一派が近く、星霊祭を利用してあなたを陥れる計画を進めています。詳細な証拠と計画書の在り処を、わたくしは知っている」
クロードの視線が一瞬で研ぎ澄まされた。温度のない蒼が、刃の光を宿す。
「貴女が、それを」
「信じられないならば、契約の場に真実の口を用意してくださって構いません」
ここで引くわけにはいかない。リリアンは拳を握りしめ、心臓が肋骨を叩くのを無視した。
「提案です、宰相閣下。結婚の形を取り、わたくしをあなたの管理下に置いてください。その代わり、王太子の婚約者候補という立場から、合法的に離脱させていただきたい」
長い沈黙が流れた。
楽団の遠い調べだけが、柱の陰にまで届いている。クロードはまるで初めて見るものを検分するように、リリアンの顔をじっと見ていた。
「条件次第では、検討する」
ようやく発せられた言葉は、それでも一切の感情を含まなかった。
「明朝、詳細を執務室で提示しろ。今日はそれで引き取れ」
「……承知いたしました」
リリアンは深く礼をした。額にうっすらと浮いた汗を、彼に見られなかっただろうか。
背を向けて歩き出すと、膝がかすかに震えているのがわかった。だが同時に、胸の奥で何かが熱く脈打っているのも感じる。
一歩を踏み出したのだ。二度目の人生で、絶対にできなかった一歩を。
宰相控え室に戻ったクロードは、窓際に立ち、眼下の庭園を無表情で見下ろしていた。夜会の喧騒は遠く、ここには静寂だけがある。
控えめなノックの音が響き、初老の執事が入室した。
「閣下、お呼びで」
「エーデルシュタイン公爵令嬢リリアンについて、至急全調査を」
クロードは振り返らずに命じた。
「家門の財政状況、王太后派との接点、過去三年の社交界での動向、そして——あの令嬢自身の素行と交友関係を。明朝の交渉までに」
セバスチャンは一礼したが、動かなかった。
「何か」
「閣下があのような——契約結婚の提案を、検討なさるとは思っておりませんでした」
クロードはゆっくりと振り返った。その口元が、かすかに歪む。
「奴らが焦っているのは確かだ。王太后が星霊祭で何かを仕掛けるなら、こちらも駒を増やす必要がある」
「駒、でございますか」
「あの令嬢は面白い」
クロードの蒼い瞳が、冷たく細められた。
「王太后を炙り出す餌にはちょうどいい。身分もあり、婚約者候補という立場も持つ。そして何より——」
彼は窓の外の闇に視線を戻した。
「あの令嬢は何かを知っている。そして必死だ。必死な人間は、使いようによっては鋭い刃になる」
セバスチャンは黙って頭を下げた。主の判断に異を唱える立場ではないことを、長年の付き合いで知っている。
「明朝の条件交渉の準備を。契約書の雛形、監視網の配置案、情報提供のスケジュール——すべてだ」
「かしこまりました」
扉が閉まり、クロードは一人になった。
彼はワイングラスを手に取り、深紅の液体を蝋燭の灯りに透かす。
「面白い駒だ」
呟きは誰に届くでもなく、闇に溶けた。グラスの中でワインが小さく揺れ、彼の口元に張りついた冷たい笑みを映し出している。
王太后の陰謀を炙り出し、この国を内側から腐らせる膿を一掃する——そのための手段として、あの令嬢はあまりに都合が良すぎるほどだった。
馬車の揺れが規則的に体を揺らす中、リリアンは窓にもたれて目を閉じていた。
断頭台の悪夢、王太后の嘲笑、そして宰相の冷徹な瞳。一日のうちにあまりに多くのことがありすぎて、頭の芯がじんと痛む。
だが、やったのだ。
「お嬢様」
ソフィアが小声で呼びかけた。
「本当によろしかったのですか。宰相閣下は——」
「ええ。これでいいの」
リリアンは目を開けずに答えた。声はもう震えていない。
「今のわたくしに必要なのは安全でも庇護でもない。交渉できる相手と、裏切られない契約だけよ」
前世で彼女を陥れた者たち——偽証の証人を仕立てた子爵令嬢、婚約破棄の場を演出した王太后、そしてそれを見て見ぬふりをした王太子。
そのすべての罪を、今度こそ法と証拠で断罪する。そのための土台が、今日、ようやく築けた。
「明日からが本番ね」
リリアンは静かに呟き、右手の薬指に輝く銀の指輪をそっと撫でた。
指輪の下には、前世で断頭台に連行される際に負った古い傷が、今も消えずに残っている。