FeverStory

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました

第2話 契約の毒と蜜

朝の光が執務室の窓を白く染めていた。

リリアンはクロードの正面に座り、背筋を伸ばしている。呼び出しから一時間——未だに条件の提示はない。クロードは書類をめくる手を止めず、彼女を待たせていた。

観察されている。試されている。

それはわかっていた。だからリリアンも口を開かず、ただ相手の動きを待つ。指先が冷たい。昨夜の疲労はまだ骨の奥に残っているが、表情には出さない。

「エーデルシュタイン公爵令嬢」

クロードがようやく顔を上げた。蒼い瞳は温度を持たぬまま、まっすぐに彼女を射抜く。

「単刀直入に言おう。お前の提案には興味がある。だが——」

彼は机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。

「条件がある」

リリアンは息を詰めた。羊皮紙にびっしりと並ぶ文字。項目は七つ。そのすべてが、彼女の自由を縛るものだった。

「宰相邸への居住。全行動の事前報告と許可。王太后一派に関するあらゆる情報の即時提供。単独外出の禁止。私的な書簡の検閲——」

クロードの声は淡々と続く。

「これが受け入れられないなら、交渉はここで終わりだ」

執務室に重い沈黙が落ちた。

リリアンは羊皮紙を見つめながら、心臓が早鐘を打つのを感じていた。監視下の生活。それは前世の牢獄と何が違うというのか。だが——

「二つ、条件を修正していただけますか」

彼女の声は驚くほど落ち着いていた。

クロードの眉がわずかに動く。

「聞こう」

「第一に、婚約者候補からの正式な離脱。これは今日中に済ませます。第二に、自由時間の確保です。週に二度、監視なしで行動できる時間をください」

クロードはしばらく彼女を見つめ、それから口元をかすかに歪めた。

「自由時間だと?」

「宰相閣下はご存じないかもしれませんが、令嬢には社交という仕事がありますの。監視付きでは入れない集まりも多い」

皮肉を込めた口調だった。クロードは一瞬だけ目を細め、それから短く息を吐く。

「……わかった。ただし監視魔道具を携帯しろ。行動記録は翌日に提出。拒否すれば自由時間は即座に消滅する」

「結構です」

リリアンは即答した。これ以上は望めない。クロードの譲歩は想定以上だった。

「では契約書を修正させる」

彼が手を叩くと、老執事のセバスチャンが音もなく現れた。クロードが短く指示を与え、修正された羊皮紙が改めて机に広げられる。

条項は十に増えていた。だがリリアンが求めた二点は、きちんと盛り込まれている。

「あとは——」

クロードが立ち上がり、執務室の奥にある黒檀の棚へ歩く。そこには銀色の台座があった。

「『真実の口』だ」

台座の中央に嵌め込まれた水晶が、薄く光を放っている。リリアンは息を呑んだ。噂には聞いていた。嘘を看破する魔法具。これに手を置いて偽りを口にすれば、社交界から永久に追放される。

「互いに契約意思があることを確認する。先にやれ」

クロードは無造作に促した。

リリアンは立ち上がり、水晶の前に立つ。ひんやりとした空気が肌を刺した。右手を水晶にかざし——一瞬息を止める。

「わたくし、リリアン・フォン・エーデルシュタインは、ここに記された契約を誠実に履行することを誓います」

水晶の輝きは変わらない。嘘はない。

クロードが彼女の横に立ち、同じように手をかざした。

「クロード・ヴィンセント。契約を履行する」

水晶は再び無言のまま輝き続けている。

「署名しろ」

羽根ペンが手渡される。リリアンは契約書に自分の名を走らせた。続いてクロードの署名が並ぶ。乾いた紙の擦れる音だけが、やけに大きく響いた。

これで契約は成立した。

リリアンは深く息を吐く。指先の震えを、ドレスの裾で隠した。

「これで君は私の所有物だ」

クロードの声は氷のように冷たかった。

「逃げるなよ」

「……逃げる理由がありません」

リリアンはまっすぐに彼を見返した。蒼い瞳と、アイスブルーの瞳が交差する。

「わたくしは自分の意志でここにいます。閣下こそ、契約を違えないでくださいませ」

クロードは何も答えなかった。ただ口元に貼りついた笑みを深めただけだ。

リリアンは一礼して執務室を辞した。扉が閉まる瞬間、背中に刺さる視線を感じたが、振り返らなかった。

王太子の私室は、ユリウスの優しさをそのまま映したような部屋だった。

淡いクリーム色の壁紙、窓辺に並ぶ手入れの行き届いた鉢植え、無造作に積まれた詩集。リリアンが通された瞬間、彼は立ち上がって微笑んだ。

「リリアン嬢。急に訪ねてくるとは珍しい」

「ご無沙汰しております、殿下。本日はお願いがあって参りました」

リリアンは完璧な礼を捧げた。ソフィアには扉の外で待つよう指示してある。

ユリウスは優雅な仕草で椅子を勧めた。柔らかな茶色の瞳にはまだ何の警戒も浮かんでいない。そう——この人はいつも、誰かを疑うことを知らなかった。そしてその優しさが、誰も守らなかった。

「改まって、どうしたんだい?」

「殿下の婚約者候補から、辞退させていただきたく存じます」

ユリウスの手が、空中で止まった。茶器を取ろうとした姿勢のまま、彼はゆっくりとリリアンを見つめる。

「……本気か?」

「本気です」

困惑の色が、ユリウスの顔に広がっていく。

「理由を聞いても?」

「すでに婚約を結ぶ方がおります」

「誰だ」

一瞬の躊躇。それからリリアンは静かに告げた。

「宰相、クロード・ヴィンセント閣下でございます」

ユリウスの顔から表情が消えた。

「クロード……?」

「はい」

「あの、氷の宰相と呼ばれている、あのクロードか?」

「他におりません」

リリアンはただ事実を述べた。ユリウスはしばらく絶句し、それから深く息を吐く。彼の指が、無意識に詩集の背をなぞった。

「……君が選んだことなら、僕がとやかく言う権利はない」

声には諦めと——奇妙な安堵が混ざっていた。

「婚約者候補の辞退は受理する。正式な手続きは執事に任せてくれ。僕からも、母上には伝えておく」

「ありがとうございます。殿下のご多幸を、心よりお祈りしております」

リリアンは深く礼をし、背を向けた。

扉の前で、ユリウスの声が追いかけてくる。

「リリアン嬢。君は——」

振り返ると、彼は微笑んでいた。前世で何度も見た、優しいだけの微笑み。

「幸せになれるのか?」

リリアンは少しだけ、口元を緩めた。それは笑顔には遠く、けれど冷たくもなかった。

「これが、わたくしの幸せへの道です」

扉を閉める。ソフィアが無言で付き従った。

王宮の廊下は冷たく静まり返っている。歩きながら、リリアンは右手の指輪をそっと撫でた。

(これで二つ目が片付いた)

あとは王太后の陰謀を暴き、前世の罪をすべて清算する。リリアンは顔を上げ、まっすぐに出口へ向かった。

ユリウスはしばらく立ち尽くしていた。

リリアンの背中が扉の向こうに消えた後も、彼女の言葉だけが部屋に残っている。

「これが、わたくしの幸せへの道です」

あんな顔をする令嬢だっただろうか。ユリウスは記憶をたどる。夜会で何度か言葉を交わした程度の関係。それでも彼女はいつも完璧で、隙がなくて——だから、どこか寂しそうだった。

クロードか。

ユリウスは小さく笑った。あの男を選ぶとは、よほどの覚悟があるのだろう。

「……母上に報告しないと」

それが億劫で、彼はもう一度だけ椅子に腰を下ろした。

王太后——ユリウスの母は、息子の婚約者候補に誰よりも口を出したがった。リリアンを推したのも母だ。エーデルシュタイン公爵家は古い家柄だが政治力は弱い。操縦しやすいと思ったのだろう。

「なんて言われるか……」

ユリウスは窓の外を見た。中庭では庭師が薔薇の手入れをしている。何も知らない者たちの、平和な日常。

彼は決心して立ち上がった。王太后の私室へ向かう足取りは重い。リリアンの選択が、どんな波紋を呼ぶのか——ユリウスにはまだ、想像もできなかった。

宰相執務室に戻ったクロードは、机の端に置かれた契約書原本を手に取った。

リリアンの署名。几帳面でありながら、最後の一画だけがわずかに震えている。恐怖か、緊張か、それとも——

「セバスチャン」

「は」

「先ほどの令嬢について、調査を進めろ。徹底的にな」

クロードは契約書を金庫にしまいながら続けた。

「特に、彼女が何を隠しているかを突き止めろ。自由時間を要求したのは情報収集のためだろうが、それだけじゃない」

「何か、気になる点が?」

「あの令嬢は常に一枚、鎧を着ている。王太后を相手に怯えもしない胆力、婚約者候補を捨てる決断、そして——」

クロードは窓辺に歩み寄り、中庭を見下ろした。

「俺を選んだ理由だ。感情でも打算でも片付かない何かがある。それを探れ」

先ほど真実の口に手をかざした時の、リリアンの横顔を思い出す。水晶は嘘を検出しなかった。彼女の言葉に偽りはない。

だが、だからこそ不自然だった。十八の令嬢が、あれほどの覚悟を持てる理由がわからない。

「それと、彼女の自由時間には必ず監視をつけろ。魔道具だけでなく、人もだ。監視対象を気取られるな。彼女が王太后を刺激するよう、適度に噂も流せ」

「王太后を刺激、でございますか」

「ああ」

クロードは冷たく笑った。窓に映る自分の顔が、氷のように無機質に見える。

「リリアンは格好の囮だ。王太后が動けば動くほど、尻尾を掴める。婚約者候補をクロードに奪われた——そんな噂が広がれば、あの女は黙っていまい」

「……令嬢が危険に晒されますが」

「だから契約した。俺が守る。ただしそれは、駒を盤上から失わないためだ」

セバスチャンは深く頭を下げた。老執事の顔には何の感情も浮かんでいないが、少しだけ唇を引き結んでいる。

「明朝までに、令嬢の身辺調査と監視計画を。王太后派の動きも追え」

「かしこまりました」

セバスチャンが退室した後も、クロードは窓辺に立っていた。

「面白い駒だ」

呟きは誰に届くでもなく、静かな部屋に溶ける。

だが彼は気づいていなかった——リリアンという駒が、予想を超えて動き始めることに。そして自分自身が、彼女をただの駒と呼べなくなる日が来ることに。

夕暮れが近づき、エーデルシュタイン邸の自室に戻ったリリアンは、旅支度を始めていた。

ソフィアが手早く衣装をまとめながら、ちらりと主を盗み見る。

「お嬢様、本当に宰相邸へ?」

「契約は契約よ。それに——」

リリアンは藍色のドレスから、銀糸の刺繍が入った白い日常着に着替えながら続けた。

「敵陣のど真ん中にいるほうが、情報は集めやすいわ」

「敵陣……」

ソフィアは呆れたように首を振り、それから小さく笑った。

「お嬢様らしいです」

「褒めてるの?」

「もちろん」

二人が笑い合った瞬間、扉がノックされた。

ソフィアが応対に出ると、銀の盆に乗せられた封書を差し出される。

「宰相閣下より」

リリアンは封を切った。中には短い、しかし重みのある文字が並んでいる。

『明朝、私が迎えに行く。逃げ出すことは許されない』

たった二行。それで十分だった。

リリアンは手紙を折り畳み、机の上に置く。右手の薬指で、銀の指輪をそっと撫でた。

(逃げる? 違う)

彼女は窓の外に広がる茜色の空を見つめる。

(これは前進だ。わたくしが選んだ、唯一の道)

明日から始まる監視下の生活。宰相邸という檻の中での密かな戦い。そして遠くない未来に待つ、王太后との対決。

リリアンの胸は、不思議と静かだった。

恐怖はある。だがそれ以上に、前世で味わった無力感から解き放たれたことの確信が、彼女の背筋をまっすぐに支えている。

「ソフィア、最後に紅茶を淹れてくれる?」

「かしこまりました」

ソフィアが湯を沸かす音を聞きながら、リリアンは目を閉じた。

断頭台の悪夢はまだ消えない。けれどそれはもう、彼女を縛る鎖ではない。未来を変えるための道標になっている。

茶器がそっと机に置かれる音。温かな湯気が立ちのぼり、紅茶の香りが部屋を満たした。

リリアンは目を開け、カップを手に取る。

明日、新しい戦いが始まる。

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました第2話 契約の毒と蜜