FeverStory

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました

第3話 毒の杯と守護の外套

夜明けの光が、まだ薄闇の残る宰相邸の窓辺をかすめるように差し込んだ。

リリアンは身支度を終え、ドアの前に立つ。昨夜はほとんど眠れなかった。

胸の奥で警戒心が小さくざわめいている。

(ここからが、本当の始まりだ)

扉を開けると、黒服の執事が無言で一礼した。

「クロード様が東翼でお待ちです」

「案内を」

廊下は石造りで、足音がよく響く。壁の燭台には魔法灯が静かに揺らめいていた。リリアンは歩きながら、曲がり角ごとに立つ警備の影を数える。

三か所。すべて武装している。

東翼の入り口で、執事が立ち止まった。

「こちらから先は制限区域でございます。リリアン様には、この魔道具をお持ちいただきます」

差し出されたのは銀細工の髪飾り。中央に小さな青い石が埋まっている。

「これは」

「位置と生体反応を記録するものです。お召し物のどこかにお留めください」

リリアンは手に取った。冷たい。指先にほんのわずか、魔力の痕跡が感じられる。

彼女は黙って襟元にそれを留めた。

重い扉の向こうに、クロードが立っている。

「時間通りだ」

彼の声には抑揚がない。

「東翼には三つの区画がある。居住区、資料室、そして私の執務室だ。お前が立ち入れるのは居住区だけだ」

「資料室にはどのようなものが」

「王太后に関係する物も混ざっているが、すべて閲覧には私の許可が要る」

クロードは淡々と先を歩きながら続ける。

「居住区には専属の使用人が二人。食事は自室で取れ。私室には監視魔道具が三つ。寝室に一つ、控えの間に一つ。最後の一つは——自分で探すといい」

「探させるために、わざと教えないと?」

「退屈しないだろう」

リリアンは短く笑った。皮肉の混じった笑いだ。

「ずいぶんとご親切な監視ですね」

「信用していないからな」

クロードが立ち止まった。彼の指が示す先には、重厚なオーク材の扉。

「ここがお前の部屋だ」

リリアンは扉を押し開けた。

部屋は思ったより広い。窓から朝の光が差し込み、白い壁に銀の燭台が映えている。調度品はどれも上等だが、個人の趣味を感じさせない整然とした配置だ。

ソフィアが窓辺で待っていた。

「お嬢様!」

クロードが背を向ける。

「決まりは昨夜伝えた通りだ。破れば契約違反となる」

「存じております」

扉が閉まる。リリアンは息を吐き、三つ目の監視魔道具を視線で探った。

ソフィアが素早く近づき、声を潜める。

「暖炉の上、あの燭台です」

「よく気づいたわね」

「使用人の噂話は情報の宝庫ですから」

リリアンは備え付けの椅子に腰を下ろした。ソフィアが茶器を用意しながら続ける。

「王太后が星霊祭の準備を急がせているそうです。通常より一週間も早く、星霊殿の装飾が始まったとか」

「星霊祭……」

前世の記憶が、するどく胸を刺す。

あの祭りの夜会で、王太后はクロードを罠にかけた。そしてリリアン自身もまた、無実の罪を着せられた。

「夜会の準備会合は二日後のはずね」

「ご出席なさいますか」

「もちろん」

リリアンは茶碗を手に取る。湯気が顔の前で揺れた。

「敵が動く場所にこそ、情報は集まる」

「では使用人たちにもう少し細かく探りを」

「手分けしましょう。わたくしは貴族たちの動きを見る。あなたは使用人の噂話を拾って。何かあれば、星霊祭本番までに必ず」

ソフィアは深くうなずき、そっと一礼して部屋を出ていった。

リリアンは一人、クロードに見せられた居住区の境界を思い返す。制限だらけの檻。だが前世のように、ただ閉じ込められているわけではない。

自分で選んだ檻だ。

冷めた紅茶を一口含み、彼女は窓の外を見た。宰相邸の庭はよく手入れされ、その向こうには王都の街並みが朝日を浴びている。

(必ず、変えてみせる)

二日後——

星霊殿の小広間は、すでに貴族たちのささやきで満ちていた。

天井から吊るされた無数の魔法灯が星のように瞬き、壁には星霊祭に向けた飾り布が掛けられている。円卓には主要な侯爵家以上の当主と、その夫人たちが席を占めていた。

リリアンが入室すると、話し声がわずかに止んだ。

「宰相夫人だ」 「あの契約結婚の……」

クロードはすでに広間の最前列に座っている。リリアンと目が合ったが、彼は何も言わない。ただ冷たい瞳で彼女の歩みを追うだけだ。

指定された席に座ると、すぐに高齢の伯爵夫人が話しかけてきた。

「まあ、お美しいこと。宰相閣下もお幸せでしょうね」

リリアンは口元に穏やかな微笑みを浮かべる。

「お言葉、ありがたく存じます」

相手の目が好奇心で輝いている。探りを入れられているのだ。

だがそれ以上に——リリアンの背筋がわずかに冷えた。

正面の玉座に近い席に、王太后が座っている。

深紅のドレスを纏い、金のティアラを髪に飾った老婦人。年齢を感じさせない鋭い目が、リリアンをまっすぐに見ていた。

「始めましょう」

王太后の合図で、会合が動き出す。議題は星霊祭の式次第、配置、警備の割り振り。すべて形式的な確認に過ぎない。

リリアンは黙って聞きながら、周囲の貴族たちの反応を観察した。王太后派の者は太后の言葉に即座にうなずき、宰相派はクロードの顔色をうかがっている。

(はっきりと割れている)

一時間ほど経過した頃、休憩が告げられた。給仕たちが軽食と飲み物を運び込む。

リリアンが立ち上がろうとした瞬間——

「エーデルシュタイン公爵令嬢」

王太后の声だった。

広間の空気が変わった。ささやきが止み、視線がリリアンに集中する。

「おそばに」

断ることは許されない。リリアンはゆっくりと歩み寄り、太后の前で優雅に膝を折った。

「お召しにより」

「契約結婚などという異例の選択で、宰相を誑かしたのか」

声は柔らかかった。だが目は笑っていない。

リリアンは顔を上げずに答える。

「互いの利が一致したまでのこと。誑かすという言葉は、閣下に対しても、わたくしに対しても不適切かと存じます」

「ほう」

王太后が笑みを深める。その口元に、リリアンは見覚えがあった。前世で、断頭台の令状に署名した時と同じ笑みだ。

「ずいぶんと強かだな。だが、そのような知恵がいつまで持つか」

「ご心配には及びません」

沈黙が落ちる。何かが試されている。リリアンは背筋を伸ばしたまま、目を伏せた。

「下がってよい」

リリアンは礼をして、席に戻った。

指先が震えている。だが、周囲には何も悟られない。クロードは相変わらず無表情で、しかしリリアンが太后と言葉を交わす間、一度も視線を外さなかったことに——リリアンは気づいていた。

(見ているだけだ。それでいい)

彼女が杯に手を伸ばした、その時だ。

毒見役の男が、突然喉を押さえて倒れた。

ガタン、と杯が床に落ちる。

悲鳴が上がった。男は泡を吹き、手足を痙攣させている。

「毒だ!」

誰かが叫ぶ。貴族たちが椅子を倒して立ち上がった。

リリアンの手が凍りつく。彼女の杯は、まだ唇に触れる前だった。

(今、手を伸ばしていた——)

「動くな」

クロードの声が、広間を貫いた。

破壊系統の魔法が彼の右手に宿る。黒い光が渦を巻き、次の瞬間、広間の四隅に張られた結界が可視化する。出口がすべて封鎖された。

「宰相権限により、この場を封鎖する。誰一人として動くことを許さない」

彼はまず毒見役のそばに膝をつき、意識の有無を確認した。それから立ち上がり、リリアンの前まで歩み寄る。

無言で、彼女の杯を手に取った。

「——毒だ」

魔法が杯を包み込む。液体が黒く変色し、蒸発するように消えた。

クロードの目が、王太后に向けられる。ただの一瞥だった。だが空気が張り詰める。

王太后は動じなかった。ただ微かに眉を上げただけだ。

「毒見役が倒れた。この杯にも同様のものが盛られていた可能性が高い」

クロードの声は氷点下の静けさを帯びている。

「宰相の権限において、この場の安全を保障できなかった責任を取る。杯は証拠として押収する」

彼はリリアンの腕を掴み、立ち上がらせた。

その手は、驚くほど温かかった。

「星霊祭本番では、より厳重な警備を敷かせていただく」

王太后に向けたその言葉は、明らかな牽制だった。

「太后陛下、ご不安でしたら本番のご出席を控えていただいても——」

「必要ない」

王太后はゆっくりと扇子を広げた。顔の半分が隠れる。

「宰相が守ってくれるのであろう。違うか」

クロードは答えない。代わりに、リリアンを抱き寄せて広間の出口へと向かう。

「調査が終わるまで、この広間を開けるな。毒見役は医務室へ。全員の名前と席順を記録しろ」

護衛たちが動き出す。混乱の中で、リリアンはクロードの腕に支えられたまま歩いた。

心臓が、うるさいほど脈打っている。

(死ぬところだった)

それ以上に——

(クロードは、わたくしを守った)

それが計算なのか、それとも何か別のものなのか。彼女にはまだ、わからなかった。

夕暮れの風が外套を揺らす。

クロードは星霊殿の前で、護衛の馬に跨った。リリアンを自分の前に乗せ、外套で彼女の肩を包む。

「しっかり捕まっていろ」

馬が走り出す。

街並みが流れ、夕日が王都の屋根を茜色に染めていた。風が耳元を鳴らし、外套の端がはためく。

リリアンは無言だった。毒が入っていたかもしれない杯の感触が、まだ指先に残っている。

(わたくしの命は、もう前世のようには簡単に奪えない)

(それでも——)

彼女はゆっくりと手を伸ばし、クロードの外套の裾を握りしめた。

布地は硬く、冷たい風に冷え切っている。だがその下には確かな体温があった。

クロードは何も言わない。ただ、ほんのわずかに手綱を握る手を緩めた。

宰相邸の門が見えてくる。

「星霊祭の夜会は、お前を囮として使う最後の舞台になるかもしれない」

クロードの声は、風に紛れるほど静かだった。

「覚悟はあるな」

リリアンは答えない。代わりに、握りしめた外套の裾に、さらに力を込める。

門が開く。

蹄の音が、石畳に吸い込まれていった。

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました第3話 毒の杯と守護の外套