FeverStory

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました

第4話 外套と矛盾の夜

毒見役が倒れた衝撃で、広間は凍りついた。

リリアンは目前の杯を見下ろす。銀の縁に、かすかな粉の痕跡が光っていた。

口を開くより早く、クロードの手が伸びる。

杯を奪い取った指先から、黒い光が迸った。

破壊系統の魔法——無機物を分子まで分解し、構造を解析する力。杯の中の液体が一瞬で沸騰し、紫煙となって消える。

「毒見役と同じ。遅効性の神経毒だ」

クロードの声に抑揚はない。

「杯の縁に塗布されていた。飲む前に倒れたのは幸運だったな」

リリアンの膝から力が抜ける。テーブルに手をつこうとした指を、彼の腕が支えた。

「座っていろ」

強制ではない。指示だった。

王太后は玉座もどきの椅子から立ち上がらず、扇子を口元に当てている。その瞳だけが、値踏みするように二人を追った。

クロードは杯を高く掲げ、会場を見渡す。

「これは宰相の権限において、王都の秩序を乱す未遂事件として捜査する」

静寂がさらに深くなる。何人かの侯爵夫人が息を呑んだ。

「本日この場にいた全員の名を記録し、後日事情聴取を行う。異議のある者は、今ここで申し出よ」

誰も動かない。

「いないな」

クロードは杯を護衛に手渡し、リリアンの腰に腕を回して立ち上がらせた。

足が震えてうまく歩けない。それを察し、彼はためらいなく彼女を抱き上げる。

「……おろしなさい」

「歩けるのか」

答えられなかった。

王太后がゆっくりと扇子を閉じる。静かな音が、やけに響いた。

「宰相。その者はまだ婚約者候補の身。あまり公衆の面前で触れるのはいかがか」

「毒を盛られた令嬢を支えて何が悪い」

クロードの目が王太后を射抜く。

「それとも太后陛下は、被害者を立たせたまま尋問するのが作法とお考えか」

王太后は答えない。扇子を広げ、顔の半分を隠した。

クロードは広間の出口へ向かう。護衛たちが道を開けた。

足を止め、振り返らずに言う。

「黒幕には然るべき報いを」

声は低く、しかし広間に満ちた。

「宰相府が必ず突き止める。ご心配なく、太后陛下」

王太后の指が、ほんの一瞬だけ扇子の骨を握りしめる。それ以外に動揺は見えなかった。

扉が閉まる。

広間の喧騒が、一気に背後で弾けた。

馬車は静かに夜の街を進む。

向かいの座席で、クロードは窓の外を見ていた。街灯が彼の横顔を断続的に照らしては消える。

リリアンは膝の上で両手を組み、その指先を見つめた。

まだ震えている。

「計算通りか」

問いを発したのは、自分でも意外だった。声はかすれ、嘲るような響きを帯びていた。

クロードが視線を戻す。

「当然だ」

「そう」

リリアンは小さく息を吐く。

「ならば、この震えも計算のうちということか」

クロードは答えなかった。

代わりに、自分の外套を脱いで彼女の膝にかける。

「血行が落ちている。毒の残滓が完全に抜けるまで、冷やすな」

布地は温かい。彼の体温が染みついている。

「……囮にしては、随分と手厚い保護だな」

「囮を失えば計画は破綻する。合理的な判断に過ぎない」

「その合理的な判断には、いつも外套を貸すところまで含まれているのか」

クロードの指が、わずかに膝の上で動いた。

それ以上は何も言わない。

リリアンは外套の端を引き寄せ、肩まで包む。彼の香り——インクと、かすかな薪の煙。計算では説明できない温もりが、震えを少しずつ溶かしていく。

(冷徹な策士ではない)

彼女は窓の外へ目を向ける。夜霧が街を包み始めていた。

(それなら、何だというのか)

クロードが口を開く。

「王太后は星霊祭本番で次の手を打つ。公然の場での毒殺が失敗した以上、より間接的な手段を選ぶはずだ」

「たとえば」

「式典の魔法装置に細工する。あるいは——」

彼は一瞬、言葉を切った。

「お前を王太后一派に引き込む」

「ありえない」

リリアンの声は思いのほか強かった。

「わたくしは、あの方に殺されかけた。その事実は変わらない」

「そうか」

クロードは短く応じ、再び窓の外を見る。

だがその横顔に、かすかな安堵のようなものが浮かんだのを、リリアンは見逃さなかった。

馬車が速度を落とす。宰相邸の門が近い。

リリアンは外套の下で、静かに拳を握った。

(この人は、わたくしを駒と呼ぶ)

(それでいて、駒を失うまいとしている)

その矛盾が、胸の奥に小さな火を灯す。

計算でも打算でもない。ただ、理由のわからない行動だけが、これほど人を戸惑わせる。

門が開く音がした。

クロードは立ち上がり、馬車の扉に手をかける。

「今夜は休め。明日から、星霊祭本番までの対策を詰める」

リリアンはうなずく。立ち上がろうとした足がもつれ、彼の胸にぶつかった。

「……すまない」

「気にするな」

クロードは彼女の肩を支え、馬車を降りる。

夜風が二人を包んだが、外套の温もりはまだ消えていなかった。

(ややあって、門前の通りをゆるく曲がり、石畳の轍をいくつか越えると、馬車はようやく止まった。クロードに支えられて降りた玄関ホールには、すでにセバスチャンが控えている。外の藍色は窓辺の帷をくぐり、彼の脚絆のあたりを薄く染めていた。)

門をくぐると、セバスチャンが玄関ホールに控えていた。蝋燭の灯りが揺れる中、彼はクロードの腕の中のリリアンを一瞥し、すぐに目を伏せる。

「医師を手配いたしますか」

「主治医を呼べ。毒見役が倒れた。彼女も同席していた」

クロードは階段へ足を向けながら続けた。

門をくぐると、セバスチャンが玄関ホールに控えていた。蝋燭の灯りが揺れる中、彼はクロードの腕の中のリリアンを一瞥し、すぐに目を伏せる。

「医師を手配いたしますか」

「主治医を呼べ。毒見役が倒れた。彼女も同席していた」

クロードは階段へ足を向けながら続けた。

「それと、王太后の周辺を洗え。今日の出席者全員の動線と、給仕を取り仕切った侍従長の名を」

「かしこまりました」

セバスチャンは一礼し、外套も脱がずに玄関を出ていく。外はもう藍色の宵闇だった。

リリアンはその背中を見送りながら、クロードに支えられて東翼の階段を上る。足に力が入らなかった。毒は口にしていない。それでも身体が覚えている——前世の断頭台へ向かう足取りを。

「ここは」

私室とは違う扉の前で、彼女は足を止めた。

「俺の部屋だ」

クロードは片手で扉を押し開ける。

「客室は使用人たちの出入りが多い。毒の経路が特定できるまでは、ここで寝ていろ」

広い寝室だった。黒檀の机に無造作に積まれた書類、壁際の本棚。生活感のない空間に、ほのかにコーヒーの香りが残っている。クロードは彼女を寝台に座らせ、手近な燭台に火を灯した。

「医師が来るまで横になれ」

「……なぜここに」

「言ったはずだ。使用人の動線が——」

「それだけではないでしょう」

リリアンは顔を上げた。アイスブルーの瞳が、かすかに揺れている。

「わたくしの私室には監視魔道具が三つある。それで十分なはずです。なぜ、わざわざあなたの寝室に」

クロードは窓辺に立ち、外の闇を見つめた。

「杯を押収しただけでは、太后は止まらん」

声はいつも通り、平坦だった。

「次は屋敷の内側から手を回してくる可能性がある。監視魔道具の死角は三つ確認済みだ。どれも——お前が指摘した場所だ」

リリアンは息を呑んだ。

あの朝、暖炉の燭台を示した時のことを彼は覚えていたのか。

「だから、安全側に倒す。それだけの理屈だ」

「理屈……」

彼女は小さく笑った。肩の力が抜け、寝台の縁に手をつく。

「あなたという人は、どこまでも合理的ですね」

「不満か」

「いいえ」

リリアンは深く息を吐き、枕に頭を預けた。天蓋の布地が視界を覆う。

「合理的で結構です。わたくしは少し……疲れました」

クロードは答えなかった。代わりに、机の上の書類を片付け始める。紙の擦れる音だけが静かに響く。

やがて医師が到着した。中年の男はリリアンの瞳孔を確認し、脈を測り、手際よく診察を進める。

「毒物の摂取は認められません。ですが、かなり強い緊張状態が続いています。今夜は絶対安静で」

「承知した」

クロードは医師を送り出すと、隣室の扉を開け放った。

「俺はここで作業をする。何かあれば叫べ」

「……寝ずにいるおつもりですか」

「毒見役はまだ意識が戻っていない。分析が終わるまで、安全とは言えん」

リリアンは横たわったまま、天井を見つめた。燭台の灯りが壁に影を映している。クロードの影は動かなかった。時折、書類をめくる音だけが聞こえる。

夕刻、セバスチャンの乗る馬車は王都の石畳を抜け、商人地区へと差し掛かっていた。

空は鈍色に曇り、かすかに雷鳴が遠くで転がっている。

彼は座席の下から小さな革鞄を取り出し、中から数枚の封蝋された手紙を選んだ。馬車の揺れに合わせて手早く宛名を確認し、一枚を開く。

「王太后の侍従長に接触実績のある協力者は三名か」

呟きながら、短く指示を書き足す。筆記具は馬車備え付けの簡易なものだが、文字は一文字もぶれない。

彼は書き終えた手紙を窓の外へ差し出した。暗がりから少年が一人、無言で受け取り走り去る。情報網の末端——街角の使い走りだ。

これを三度繰り返し、すべての指示を出し終える頃には、馬車は古い時計塔の麓に差し掛かっていた。セバスチャンは窓を閉め、雲の垂れ込める空を見上げる。

「星霊祭まで、あと幾日もない」

雨が、一つ、窓硝子を叩いた。

深夜。リリアンは自分の心臓の音で目を覚ました。

枕元の燭台は消えている。代わりに、隣室から漏れる灯りがわずかに扉の隙間を白く縁取っていた。書類をめくる音は、まだ続いている。

彼女は上半身を起こし、隣室を覗いた。

クロードは机に向かい、ペンを走らせている。背中は少しも傾いていない。だがその横顔は、昼間よりもわずかにくすんで見えた。

(一睡もしていない)

リリアンは寝台を抜け出し、素足で床に立った。冷たい石の感触が足裏に刺さる。

「眠らないのですか」

クロードの手が止まった。振り返らないまま答える。

「必要なら寝る。今は必要ではない」

「それでは明日、執務に差し支えます」

「お前に関係のある話か」

リリアンは一歩、踏み出した。

「あります」

クロードがゆっくりと振り向く。蒼い瞳は疲れの色を隠しているが、その奥に浮かぶ警戒を彼女は見逃さなかった。

「わたくしは、あなたの駒でしょう。駒が壊れないよう守るのは合理的ですが——壊れそうな駒のために、あなたが壊れては意味がない」

「俺が壊れると?」

「今すぐではありません。ただ、あなたは昨日からずっと動き詰めです。毒見役が倒れたあの場で、誰よりも早く広間を封鎖したのもあなた。王太后に牽制の言葉を投げたのもあなたです」

リリアンは息を継いだ。

「……誰が、宰相を守るのですか」

クロードは答えない。机の上の書類が、開け放した窓からの風でかすかに揺れた。

長い沈黙。

「明日、星霊殿から分析結果が届く」

彼はようやく口を開いた。

「毒の出所が判明すれば、太后の動きはさらに制限できる。それまでだ」

「それまで、起きていると?」

「お前は寝ていろ。医師の指示だ」

リリアンは拳を握った。指先に力を込め、寝台へ戻りかけて——立ち止まる。

「……では、せめて教えてください」

「何を」

「毒がどこから来たのか、わたくしにも関わることです。分析結果は、わたくしにも共有していただけますか」

クロードは少しだけ眉を動かした。

「知って、どうする」

「備えます」

彼女の声はもう揺れていなかった。

「次は、私があなたの役に立つ」

一人称が変わっていることに、自分でも気づかなかった。

「これはもう、ただの契約じゃない」

クロードはしばらく彼女を見つめ、それから短く息を吐いた。手にしていたペンを置く。

「お前が役に立つと?」

「はい」

「根拠は」

リリアンは真っ直ぐに彼を見つめ返した。心臓は早鐘を打っている。だが目は逸らさない。

「あなたが今、この部屋で起きていること。それだけで十分な根拠です。あなたはわたくしを守るために動いている。ならばわたくしは——その理屈に応える」

クロードは立ち上がった。静かな動作だったが、空気がわずかに変わる。

「俺の理屈に乗るのか」

「乗るのではなく、乗り換えさせてもらう」

彼女は微かに口元を緩めた。

「わたくしはもう、ただ守られるだけの駒ではないということです」

沈黙が満ちる。

クロードは窓辺に歩き、外の闇を見下ろした。

「……いいだろう」

その声は低く、しかし先ほどよりも少しだけ輪郭が柔らかい。

「毒の分析結果は明朝、共有する。その代わり——」

彼は振り向いた。

「お前の知っていることを全て出せ。王太后の癖、側近の名、前世の記憶にある些細な違和感もだ」

リリアンの息が止まった。

(やはり、気づいている)

回帰のことは明言しない。できない。だがクロードは既に、彼女の知識の出所を看破している。

「……承知しました」

彼女はただ、それだけを答えた。

クロードは頷くと、机の上の燭台を手に取り、隣室との境界に立った。

「寝ろ。明朝、話を聞く」

「あなたは」

「少し横になる」

嘘か本当か、リリアンには判断がつかなかった。だが先ほどより彼の肩から力が抜けているのは確かだ。

彼女は寝台に戻り、布団を引き上げた。隣室の灯りが消える。暗がりの中、クロードの気配がすぐ近くにあった。

それがなぜか、ひどく安心だった。

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました第4話 外套と矛盾の夜