破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第10話 星霊祭前夜の誓い
冷たい石床の感触で、リリアンは目を覚ました。
背中から這い上がる寒気が、現実を容赦なく叩きつける。天井は低く、かびた藁の匂いが鼻を刺した。壁の松明がかすかに揺れ、湿った石の照り返しだけが視界を埋める。
嘆きの回廊。
地下牢の最下層。囚人が断頭台へ向かうまで、無数の慟哭が染みついた通路——その名の由来を思い出し、リリアンは小さく息を吐いた。白く濁ったそれが、目の前でゆっくりと散る。
両手首には魔力封じの枷。金属の冷たさが骨まで沁みた。
(断頭台、か)
前世の最期がよぎる。ざわめく観衆。鈍い刃の光。そして——
リリアンは枷に繋がれた右手を持ち上げた。松明の灯りに、薬指の古い傷跡が浮かび上がる。いつも銀の指輪で隠していた、細く白い線。
あの日、断頭台の下で死を受け入れた瞬間。魂が引き裂かれるような痛みと共に、世界が巻き戻った。そして気づけば、水の月の十五日——すべてが始まる朝に立っていた。
回帰の代償。
この傷痕だけが、二度目の生の証だったのだ。
指先に力を込める。枷がじゃらりと鳴った。
(今度こそ)
リリアンはゆっくりと上体を起こした。冷えた石に手をつき、膝を立てる。枷は重い。けれど立ち上がることはできた。
(運命を変える)
壁に手を這わせ、体重を預ける。松明の火が一瞬、大きく揺らいだ。
「——まだ終わっていない」
声は掠れていた。それでも、暗がりに吸い込まれていく自分の言葉が、妙に心地よい。
リリアンは枷に繋がれた両手を胸の前で組み、目を閉じた。冷たい金属が鎖骨に触れる。前世の断頭台よりは、まだ温かい。
宰相邸の執務室に、朝の光が差し込んでいた。
クロードは机の前に立ち、広げた羊皮紙を見下ろしている。地下牢の見取り図。その上に置かれたセバスチャンの調査報告書には、衛兵の交代時刻と「真実の口」の無効化に関する仮説が走り書きされていた。
ノックの音が二度。
「入れ」
扉を開けたのはソフィアだった。侍女服から濃紺の実用的な旅装束に着替え、髪はひとつに束ねている。その後ろに、エリアスが続いた。彼の顔色は明らかに悪い。
「お呼びでしょうか、閣下」
ソフィアの声は平静だった。エリアスは無言のまま一礼する。
クロードは二人を見渡し、短く告げた。
「リリアンを奪還する。非正規の作戦だ」
エリアスの肩が跳ねた。ソフィアはただ、まっすぐにクロードを見つめている。
「ソフィア・ラングレー」
「はい」
「お前はギルドを通じて地下の情報網を総動員しろ。王太后が「真実の口」をどう無効化したか——その手段と証拠を掴め。期限は明日の夜明けまでだ」
「承知しました」
ソフィアは一歩も動かず、短く答えた。
「すでに下町の協力者に数名、心当たりがございます。王太后の侍従長と接触実績のある者も——」
「使え」
クロードは彼女の言葉を遮り、視線をエリアスに移した。
「ローズバーグ伯爵」
エリアスが顔を上げる。その目にはまだ昨夜の衝撃が色濃く残っていた。
「お前には王宮内の見張りの隙を作ってもらう。星霊祭の準備で衛兵の配置が手薄になる区画を洗い出し、非番の者に休暇を出すよう進言しろ。お前の伯爵としての立場を使え」
「……わかりました」
エリアスはかすれた声で応じ、それから拳を握りしめた。
「ですが宰相閣下、リリアン嬢は本当に——」
「無事だ」
クロードは断言した。蒼い瞳が微動だにしない。
「まだ無事だ。だから動く」
エリアスはしばらくクロードを見つめ、やがて深く頷いた。
「……承知しました。すぐに王宮へ」
「待て」
クロードは机の端から封書を二通取り上げ、片方をエリアスに、もう片方をソフィアに差し出した。
「作戦の詳細だ。すべて頭に叩き込み、読み終えたら燃やせ」
二人は同時に封書を受け取った。ソフィアは迷わず胸元にしまい、エリアスは一瞬ためらってから上着の内側に押し込む。
クロードは羊皮紙を巻き取り、机の引き出しに戻した。黒革の手袋に包まれた左手——その下で、古い火傷の痕が静かに熱を帯びている。
「作戦決行は星霊祭の夜だ。必ず間に合わせろ」
ソフィアが一礼し、踵を返す。エリアスもそれに続いた。
執務室の扉が閉まる直前、ソフィアが半歩だけ振り返った。
「閣下」
「なんだ」
「お嬢様は、泣いておられましたか」
クロードは答えなかった。ただ、窓の外に目をやる。明け方の空が白み始めている。
ソフィアはそれきり何も言わず、静かに扉を閉めた。
その日のうちに、ソフィアは宰相邸を後にした。
表向きはリリアン救出とは無関係に、単独での情報収集行動として動く。エリアスが王宮の正規ルートを当たるのとは別に、彼女には彼女のやり方がある。
クロードは「使えるものは何でも使え」と言った。ならば自分の過去も利用するまでだ。ソフィアは外套の襟を立て、王都の目抜き通りを離れ、路地から路地へと下町の奥へ分け入っていく。
王都下町の外れ。日が傾き始めた路地に、ソフィアは迷いなく足を踏み入れた。
石畳の隙間から雑草が伸び、壁には古い煤の跡が染みついている。表通りから三度曲がり、傾いた酒樽の看板を右手に折れた先——かつて彼女が育った場所だ。
扉を押すと、澱んだ空気と共に数人の視線が刺さる。
「……生きてたのか」
カウンターの奥から、隻眼の男が顔を上げた。痩せた頬に刃傷が走り、右手の薬指が欠けている。
「ギルドマスター」
ソフィアは一歩も退かず、カウンターへ近づいた。
「情報が欲しい。王宮地下牢の衛兵配置と、旧排水路の現在の状態」
隻眼の男——盗賊ギルド現マスターのドレイクは、濁った酒を一口あおった。
「お前、今は貴族の飼い犬だろ」 「そうだ」 「なら、なぜ俺が話す」
ソフィアは懐から一枚の硬貨を取り出した。金貨ではない。古い真鍮のメダル——ギルドの誓約印だ。
「じいさまの遺言だ。『困った時は、ギルドに借りを返させろ』」
ドレイクの隻眼が細められる。
しばらくの沈黙。店の隅でサイコロを振っていた二人連れが、音を止めた。
「爺さんには世話になった」
ぽつりと男は言い、カウンターの下から羊皮紙を引き出した。
「星霊祭当日、王太后直轄の私兵が地下牢の警備を掌握する。通常の衛兵はすべて地上の警護に回され、地下には三交代で十二名」
ソフィアは図面に視線を走らせる。
「旧排水路は」 「三十年まえの封鎖以来、誰も通ってねえ。だが、西の格子は腐食している」 「鍵は」 「錠前は外されてる。ギルドが二十年前に細工したままだ」
彼女は羊皮紙を素早く折り畳み、胸元に仕舞った。
「借りはこれで帳消しだ」 「ああ」
ドレイクは酒を飲み干し、背を向ける。
「生きて戻れよ、ソフィー」
ソフィアは返事をしなかった。ただ一瞬だけ立ち止まり、それから扉を押して酒場を後にした。
路地を抜け、大通りへ出る頃には、彼女の足取りは宰相邸へと向かっていた。胸元の羊皮紙が、かすかに体温で温もっている。
夕暮れの光が届かぬ地下へ、エリアスは降りていった。
松明の炎が石壁に踊り、足音だけが湿った廊下に響く。衛兵が二名、彼の前後を固めていた。
面会室は狭かった。中央の鉄格子が部屋を二分し、向こう側に粗末な木椅が一脚。壁の高い場所に、手のひら大の格子窓が一つ。
鉄扉が開き、リリアンが連れてこられた。
両手に魔力封じの枷。ドレスは取り替えられておらず、査問会の時のままだ。けれど背筋は伸び、アイスブルーの瞳はエリアスをまっすぐに見つめている。
「エリアス様。ご足労をおかけします」
彼女の声は静かで、かすかに嗄れていた。
衛兵に退室を命じ、エリアスは鉄格子の前に立つ。二人きりになった面会室で、彼は声を潜めた。
「宰相閣下が動いている」
リリアンの瞳が、わずかに揺れる。
「どのような」
「詳しくは言えない。だが、星霊祭の夜には必ず」
エリアスは言葉を切り、拳を握った。
「俺は、何もできなかった。査問会で、ただ見ていることしか」
「いいえ」
リリアンは首を振る。
「あなたがここに来てくださった。それだけで、十分です」
彼女は一歩、鉄格子に近づいた。枷が鎖を引き、金属音が冷たく響く。
「王太后は星霊祭で、次の手を打つでしょう。ユリウス殿下を玉座に——そのために、クロード様を排除なさるおつもりです」 「なぜそこまで」 「ご自身の血脈が、断たれる恐れがあるから」
エリアスは息を呑んだ。
「それは」 「証拠は、もう十分に」
リリアンの口元に、かすかな笑みが浮かぶ。
「わたくしは屈しません。どんなに暗い場所でも、諦めることは二度とありませんから」
格子窓から差し込む夕日が、彼女のプラチナブロンドを一瞬だけ金色に染めた。
エリアスは深く頷く。
「必ず、宰相閣下に伝える」 「お願いします」
衛兵が扉を開けた。面会時間の終了だ。
リリアンは振り返らず、連れられて通路の奥へ消えていった。エリアスはその背を見送り、誓約を胸に刻む。
彼は足早に王宮を退出し、宵闇の迫る街路を自邸へと向かった。
星霊祭前夜。宰相邸の私室に、クロードは一人座っていた。
机の上には二枚の図面。王宮の略図と、旧排水路の迂回路を示す羊皮紙。ソフィアが持ち帰った情報は正確だった。西の格子は腐食し、衛兵の配置は星霊祭の夜に手薄になる。
クロードは指で地図をなぞる。
旧排水路から侵入し、最下層へ。衛兵は三交代十二名——全員を制圧するには、破壊魔法の使用が不可避だ。
宰相としての立場を捨て、非合法の手段で囚人を奪還する。それが何を意味するかは、理解している。
国法に背き、地位を失い、すべての計画が瓦解するかもしれない。
それでも——。
「明日、必ずお前を連れ戻す」
クロードの声は低く、誰に聞かせるでもなく部屋に落ちた。
黒革の手袋の下で、古い火傷の痕が疼く。けれど彼は、拳を握り締めるだけでそれ以上を気に留めなかった。
机の蝋燭が、風もないのに揺らめく。魔法の残滓が、かすかに空気を震わせていた。
地下牢の最下層。嘆きの回廊の独房で、リリアンは格子窓を見上げていた。
星霊祭を明日に控え、夜空にはすでに星霊の光が満ちている。青白い輝きが、細い窓を通して石床に落ちた。
彼女はその光を、じっと見つめる。
(一度目は、ここで終わった)
断頭台へ続く道。嘆きの染みついた壁。すべてを失った前世の終焉。
(二度目は、違う)
リリアンは枷の嵌められた手を、そっと胸の前で組んだ。右手薬指の古傷が、かすかに脈打っている。
星霊の光は、夜が更けるほどに強くなっていく。明日の祭の本番——すべてを変える運命の一夜が、静かに近づいていた。