破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第11話 傷痕が結ぶ二つの誓い
遠くで爆発が鳴った。
星霊祭の夜を裂く轟音に続いて、悲鳴が石壁を伝わる。王宮の地下へと延びる隠し通路は、篝火ひとつない闇に沈んでいた。
クロードは足を止めない。
左手に握った羊皮紙——旧排水路の見取り図——を指でなぞりながら、腐食した鉄扉を肩で押し開く。蝶番が軋み、錆の欠片が黒衣の袖に落ちた。
(王太后が動いた)
国王の私室に放たれた刺客。玉座の間へ集まる貴族たちを封じる私兵。すべて計算通りに進んでいるのだろう。
クロードの口元が歪んだ。
宰相の地位も、積み上げた計画も、今夜で終わるかもしれない。それでも彼の歩調に迷いはない。石段を一段飛ばしで降りながら、右手の黒革手袋がかすかに煙を上げ始めた。
通路の終わりに鉄柵があった。三十年前に封鎖された旧排水路の出口だ。見取り図通りなら、この先は嘆きの回廊の最下層に通じている。
鍵はかかっていない。
誰かが最近、使った痕跡だった。ソフィアの情報網が掴んだ抜け道——王太后の私兵が警備を掌握する前に、看守たちが逃げ出したらしい。
クロードは鉄柵をくぐり、地下牢の冷たい空気の中へ踏み込んだ。
篝火だけが揺れる独房の並びに、看守の姿はなかった。
クーデターの報せを聞いて持ち場を離れたのだろう。鍵束が床に落ち、その横に倒れた机が無造作に放置されている。
クロードは迷わず最奥へ向かった。
嘆きの回廊。壁の石が黒ずんでいるのは、幾百年ものあいだ囚人たちの吐息と涙が染み込んだせいだと聞く。細い格子窓から星霊の青白い光が差し込み、一本の独房を照らしていた。
「——来たか」
かすれた声が闇から応える。
鎖に繋がれたリリアンが、壁にもたれて座っていた。プラチナブロンドは埃にまみれ、ドレスの裾は破れている。それでも彼女のアイスブルーの瞳は、揺るぎなくクロードを見上げた。
クロードは鉄格子の扉を開けた。鍵束から探すまでもない——扉はすでに解錠されたまま、看守が逃げた時に放置していったのだ。
「立てるか」
「ええ。けれど、これが」
リリアンが両手を掲げる。魔力封じの枷が手首を締め付け、鎖が床に伸びていた。
クロードは片膝をつき、枷に右手をかざす。
「動くな」
彼の掌から黒い光が迸った。破壊魔法——触れたものを分子単位で粉砕する力が、魔力封じの金属を一瞬で塵に変える。枷は音もなく崩れ落ち、リリアンの手首が解放された。
そのときだった。
右手の薬指。古い傷跡が星霊の光に照らし出され、白く浮かび上がる。
クロードの視線が一瞬、そこに留まった。
ただの古傷ではない。傷口の質感が、彼の左手の火傷の痕と——あまりにも似ている。
(これは——)
「クロード?」
リリアンの声に、彼は我に返った。今は追及している時ではない。クロードは立ち上がり、肩のマントを外して彼女に差し出す。
「羽織れ。玉座の間へ急ぐ」
リリアンは頷き、マントを受け取った。立ち上がる彼女の足がわずかによろめくのを、クロードは無言で支える。肩に触れた手に力がこもり、すぐに離れた。
石廊下は煙の匂いに満ちていた。
地下牢を抜け、玉座の間へ続く急な階段を上る二人の足音だけが、湿った壁に反響する。遠くで悲鳴と怒号が断続的に響き、星霊祭の夜はすでに祝祭の体をなしていなかった。
「王太后が、ついに動いたのね」
リリアンの声は静かだった。クロードは階段を上りながら短く答える。
「国王陛下の私室に刺客を。今頃、玉座の間ではユリウスを戴冠させる準備が進んでいるはずだ」
「陛下は」
「わからん」
それきりクロードは黙り、歩調を速めた。
石廊下の半ばまで差し掛かった時、前方の曲がり角から人影が現れた。
「——そこまでだ、宰相」
ユリウスだった。
白銀の髪が乱れ、瞳は血走っている。儀礼用の剣を手に、肩で荒い息を繰り返しながら二人の前に立ち塞がった。
「母上の計画を邪魔はさせない。そこの女——リリアン・フォン・エーデルシュタイン。お前はここで死ぬべきだ。お前さえいなければ、母上は俺を認めてくださる」
「ユリウス様、それはあまりに——」
リリアンの言葉が終わる前に、ユリウスが剣を振り上げた。
その瞬間。
「——そこまでだ」
背後から伸びた腕がユリウスの剣を持つ手首を掴み、捻り上げる。儀礼用の剣が石床に落ち、甲高い金属音が廊下に響いた。
エリアスだった。
彼はユリウスの腕を背中に回し、体重をかけて押さえ込む。いつから王宮に潜入していたのか、制服は埃と煤で汚れ、額には一筋の汗が光っている。
「エリアス……なぜお前がここに」
ユリウスが振り向こうとするのを、エリアスはさらに強く押さえつけた。
「王宮がおかしいと思って調べていたんです。地下牢から二人が脱出したと聞いて、合流しようと」
リリアンは膝をついたユリウスの前に立ち、静かに見下ろした。
「あなたは利用されているだけだ」
ユリウスの肩がはっきりと強張る。
「黙れ……黙れっ!」
「王太后があなたに語った『真の王』の言葉は、あなたのためのものではない。あなたを駒にしているだけです」
「母上は——母上は俺を!」
ユリウスは叫んだ。けれどその声からは怒りよりも、震えのほうがはっきりと滲んでいた。
リリアンはそれ以上は言わず、クロードに目配せする。
「先を急ぎましょう」
クロードは頷き、エリアスに短く命じた。
「ユリウスをそのまま拘束しろ。玉座の間には来させるな」
「承知しました」
エリアスが深く頷く。彼の手はまだユリウスを離さない。ユリウスは俯き、母の名を呟くばかりだった。
リリアンとクロードは走り出す。
玉座の間へ。
星霊の光がますます強く窓から差し込む中、二人の足音が闇の石廊下を駆け抜けていった。
指輪が、星の光を受けてかすかに輝いている。
「これは、私が王太后から賜ったものよ」
クロードの視線が、その指輪に落ちる。
「星霊の加護が封じられた聖銀製。表向きは『王太后の恩寵』。でも実際は——」
リリアンは指輪を外した。指の付け根に刻まれた、細い傷痕が露わになる。
「私の星霊力を常に吸い上げ、制御するための枷。外せばこうよ」
彼女が指輪を手のひらに載せると、松明の炎が一斉に揺らいだ。石廊下を満たしていた星霊の光が、リリアンの周りにだけ渦を巻くように集まる。
暗がりに足音だけが響く。
玉座の間へ続く石廊下。松明の灯りが壁の紋章を浮かび上がらせ、遠くで鬨の声がかすかに聞こえた。星霊祭の夜を飾るはずだった星の輝きは、高い窓から差し込んで石床に青白い筋を作っている。
クロードが足を止めたのは、前室の手前だった。
「リリアン」
振り返った彼の顔に、いつもの抑揚はない。けれど声の質が違った。
「これを見せておく」
黒革の手袋を外す。左手の甲に広がる古い火傷——皮膚が引き攣れ、まだらに変色した痕。松明の灯りがその凹凸をなぞり、クロードは感情を押し殺した声で言葉を継いだ。
「幼い頃、王太后が俺に行った魔法実験の痕だ。破壊系統の制御を強制的に引き上げる——そう称して、俺を幾度も暴走させた」
リリアンは息を詰める。
「そのたびに、治癒系統の者が呼ばれた。実験は繰り返され、焼け爛れた皮膚も何度か元に戻った。だが最後の暴走だけは」
「癒えなかった」
彼女の声が、思ったより静かに響く。
クロードは短く肯いた。
「俺が十歳のときだ。王太后はこの痕を『不始末の戒め』として、あえて残した」
リリアンは無言で右手を持ち上げた。薬指の根元——銀の指輪で隠していた古い傷痕。星の光を受けて、白く細い線が浮かぶ。
「私も、お見せしなければ」
クロードが目を細める。
「その傷は」
「魔力封じの指輪の痕です」
言葉は驚くほどするりと出た。
「前世で、ここで処刑される直前に嵌められました。断頭台へ向かう道で、力のすべてを封じられて」
廊下を渡る風が、松明を一斉に揺らす。
クロードは何も言わず、剥き出しの左手でリリアンの右手を取った。薬指の傷痕に、彼の火傷の凹凸が触れる。熱かった。痛みを知る者だけが持つ、抑えられた温度だった。
「これで、わかった」
彼の声は掠れていた。
「お前が二度目の生を選んだ理由が、この傷か」
リリアンは一つ息を吐く。指先がかすかに震えたのは、冷たさのせいではない。
「今度こそ終わらせます。あの人の、すべてを——」
そのときだった。
前方の扉が、内側から軋むように開く。ほんの数寸。そこから漏れ出たのは、耳に絡む高い笑声。
「——まったく、どこまで手間をかけさせるのかと思えば」
王太后の声だ。
「この期に及んで宰相が囚人と睦み合うとは。星霊祭の余興にしては、少々品がなさすぎるな」
扉の向こう、玉座の間の最奥。紫紺のドレスを纏った王太后が、玉座の脇に立っている。その足元には、ぐったりと崩れた国王の姿があった。血の気の失せた顔。胸だけがかろうじて上下している。
王太后は右手に王冠を掲げ、左手で国王の肩を踏みつけていた。
「もう少しで、すべてが終わる」
扉はゆっくりと開いていく。
クロードはリリアンを背後にかばった。左手を掲げ、指先から黒い光の粒子が迸る。魔法陣が空中に展開し、輪郭を刻むごとに空気が震えた。
「リリアン」
振り返らない。背中越しに、低く響く声。
「お前を守る。これは契約じゃない」
彼女は顔を上げた。その背の広さが、はじめて視界のすべてを埋める。
「——ええ」
指先が、クロードの外套の裾に触れる。
「私も、貴方を死なせたりはしません」
クロードの魔法陣が唸りを上げる。黒い雷光が腕を這い、拡散し、凝縮する。石板が震え、壁の漆喰が粉を吹いた。
玉座の間から、王太后の嘲笑が響く。
「その程度の魔力で、この扉を破れると思うのか」
クロードは答えなかった。代わりに右腕を振り抜く。
衝撃。
青白い閃光が扉を呑み込む。炸裂音が廊下を駆け抜け、分厚い板を木っ端微塵に砕いた。煙と埃が渦を巻き、星の光が乱反射する。
クロードは砕けた扉の向こうに立つ王太后を、冷たい目で見据えた。
「これ以上、俺の前で彼女に指一本触れさせるな」
低い声は、破壊の余韻を切り裂いて玉座の間へ届く。
リリアンはその背中を見つめていた。耳の奥で、かつての断罪の言葉が目を覚ます。前世で死刑を宣告した王太后の、あの冷ややかな笑み——けれど今はもう、違う。
(今度は、私が断罪する番だ)
クロードの左腕から立ち昇る煙が、星霊の光に溶けて消えた。