破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第6話 朝焼けに焦げた手袋
廃墟区画に足を踏み入れた瞬間、リリアンは違和感に立ち止まった。
静かすぎる。
夜明け前の下町はいつもこうだと言われればそれまでだ。だが——空気が違う。まるで何かがすでに終わった後の、取り残された静寂。ひび割れた石畳の隙間から雑草が生え、風もないのに煤けた布切れが揺れた。
「お嬢様」
ソフィアの声が低く響く。彼女はすでに短剣を抜き、旧倉庫の入り口を示した。見張りはいない。二人いたはずの男たちの姿が消えている。
「嫌な予感がします」
「ええ。でも引き返せない」
リリアンは外套の下で短剣の柄を握り直した。心臓が早鐘を打つ。鼓動がうるさいほどに耳の奥で響いて、前世の断頭台へ向かう足音を思い出させる。似ている。あの時も、こうして自分から死地へ歩いていった。
倉庫の扉は半開きだった。蝶番が錆びつき、軋む音さえ立てない。リリアンはソフィアと視線を交わし、頷く。二人同時に中へ滑り込んだ。
最初に届いたのは臭いだった。
鉄錆と薬品と——血。
「——遅かった」
ソフィアが呻くように言った。
床に倒れた男の姿が、天窓から差す薄明かりに浮かぶ。首から下が黒く染まり、顔は異様に引き攣っていた。喉を一撃で裂かれている。それは抵抗の痕跡すら残さない手際だった。
「これが例の調合師か」
「ええ。間違いありません。右足の傷跡も一致します」
ソフィアはすでに膝をつき、死体の周囲を調べ始めた。その指先はためらいなく服の内側や床の隙間を探り、血溜まりを避ける動作は素人離れしていた。時折、短く息を吐き出す音だけが聞こえる。まるで匂いを嗅いでいるようでもあった。盗賊ギルド式。リリアンの脳裏でその言葉が反芻する。
「傷口が左から右へ。犯人は右利き。そして——」
ソフィアは死体の口元を指でなぞった。こびりついた血の塊の下に、何か白いものが覗く。
「口の中に何か」
「吐き出させないためのものだ。これは、口封じの印だ。ギルドのやり方だ。裏切り者や証人にこれを食わせてから殺す」
リリアンは近づき、息を呑んだ。白いもの——それは小さな封蝋の欠片だった。王家の紋章。王太后の側近だけが使うことを許された、特別な封蝋。
「証拠隠滅の命令が先に届いていたのね」
「はい。昨夜のうちに」
リリアンは唇を噛んだ。
黒衣の人物が「明日までに証拠を消せ」と命じていた。知らなかった。知っていれば——知っていても、結果は同じだったか。どちらにせよ、この男は殺されていた。封鎖された通路が中から出るのを防ぐように塞がれていた意味。それは侵入者を防ぐためではなく、この男を逃がさないためだったのだ。
「まだ何か」
「血の飛沫が床にしかありません。つまり犯人は正面から入り、正面から去った——急ぎの仕事です。おそらく我々が来る直前か」
ソフィアは立ち上がり、窓の桟を指でなぞった。指先に付着した埃を親指でこすり、匂いを嗅ぐ。
「もう一人います。黒衣の人物とは別の、実行犯が。靴跡が二つ。こちらは——」
「ソフィア」
リリアンの声が、自分でも驚くほど冷静だった。
「証拠品を回収して。封蝋の欠片と、あと調合台にあるものすべて」
「了解しました。ですがお嬢様、急いだほうがいい。夜明けまでに戻らなければ」
わかっている。クロードに気づかれる。外出禁止を破ったことが露見すれば、次はない。それでもリリアンの足は床に釘付けになっていた。
自分が来る前に、すべて終わっていた。
この男はリリアンが動いたから殺されたのだろうか。それとも、最初から王太后の計画にこうした段取りが組み込まれていたのか。どちらにせよ——一歩、遅れた。前世と同じだ。いつも、何かに気づくのが遅すぎる。
「……恨むなら、私の迂闊さを恨んで」
リリアンは死体の前でそう呟き、踵を返した。
ソフィアは手早く小瓶や紙片を布に包み、立ち上がる。視線だけで「行きましょう」と伝えてきた。彼女の目はいつも通り落ち着いている。だがその沈黙の奥に、かすかな傷みのようなものが揺れた気がした。自分の過去を重ねているのかもしれない。
二人が倉庫を出た瞬間、背後で何かが微かに軋んだ。
振り返ると、倉庫の奥の暗がりから白い煙が立ち上っている。薬品の瓶が割れ、中の液体が床に広がり、反応を起こしているようだ。証拠隠滅の仕掛け。時間差で発動するように組まれていたらしい。
「走って」
リリアンは駆け出した。ソフィアも後に続く。倉庫全体が煙に包まれ、何かがくすぶる音が聞こえる。火が出るかもしれない。
遠くで鐘の音が鳴った。夜明けを告げる鐘だ。
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宰相邸の門前に辿り着いた時、リリアンの息は完全に上がっていた。
変装用の地味な外套は煤で汚れ、髪には埃が絡みついている。ソフィアも同様だ。互いに無言で呼吸を整えていると、門の内側から靴音が響いた。
「遅かったな」
心臓が凍りつく。
門の影から現れたのはクロードだった。漆黒のコートをまとい、両手を背に組んでいる。顔には表情がなく、声も凪いだ湖面のように平坦だった。だが——その目だけが、わずかに細められる。
「朝の散歩にしては随分と埃っぽい場所を選んだようだ」
「……クロード様。どうしてここに」
「質問をしているのは私だ」
クロードは一歩、前に出た。リリアンは無意識に半歩、後退する。ソフィアがさりげなくリリアンの前に立とうとした。
「ソフィア・ラングレー。下がれ」
たった一言。だがその声には、逆らうことを許さない冷たさがあった。ソフィアはリリアンに目配せをし、深く一礼してから門の内側へ消える。
残された二人の間に、重い沈黙が落ちた。
「どこに行っていた」
「下町です。毒の調合師を探しに」
正直に答えた。言い訳は無駄だ。クロードはすでに知っている。この男が気づいていないことなど、あったのだろうか。
「なぜ」
「あなたが何も教えてくれないからです」
リリアンの声は震えなかった。自分のことで精一杯で、震える余裕もなかったのかもしれない。
「毒の出所も、捜査の進捗も、王太后の次の動きも——あなたはすべて一人で進めている。私はただ屋敷で待つだけ。それでは駒と変わりません」
「私はお前に危険を遠ざけているだけだ」
「危険はすでに私の目の前にある!」
リリアンは叫びそうになるのを堪えた。代わりに奥歯を噛み締める。口の中に鉄の味が広がった。
「昨夜、星霊祭の夜会で毒を盛られかけたのは私です。標的はあなたかもしれない。でも杯を口に運んだのは私だった。それでもあなたは、私に何も——」
「だからこそだ」
クロードの声に、初めて感情のひびが入る。苛立ちだろうか。それとも別の何かか。
「お前をこれ以上、危険に晒すわけにはいかない」
「それは——」
リリアンは唇を歪めた。笑っているのか、泣いているのか、自分でもわからない表情だった。
「それは、私を『駒』としてではなく、『守るべきもの』として扱っているということですか」
クロードは答えなかった。ただ黙ってリリアンを見下ろしている。長い睫毛が朝の光に影を作り、その奥の感情を隠した。
「あなたには、私の何がわかる」
言葉が止まらなくなった。
「前世で——」
言いかけて、リリアンは口を噤んだ。言ってはいけない。回帰のことは誰にも話せない。
「……誰も助けてくれなかった。私が断頭台に立った時、すべての人が私を見捨てた。そして今、あなたも同じだ。情報を独占し、私を安全な檻に閉じ込め、都合のいい時にだけ利用する」
「違う」
クロードの声が鋭く響いた。
「私はお前を駒だと思ったことはない」
リリアンの呼吸が止まる。
あまりに強い否定の言葉だった。計算でも、策略でもない、感情がそのまま漏れたような響き。クロード自身も、その言葉に驚いたような表情を一瞬だけ浮かべた。
「なら——」
リリアンがさらに言い募ろうとした時。
クロードの左手が動いた。リリアンの手首を掴む。力は強くなかった。むしろ、縋るような、確かめるような握り方だった。
「——っ」
微かな焦げ臭さが鼻をつく。
見れば、クロードの黒革の手袋の表面がわずかに煙を上げている。魔法の残滓か、感情の乱れが引き起こした現象か。手袋の繊維がほつれ、焼け落ちた隙間から素肌が覗いた。
手の甲。そこには——古い火傷の痕が広がっていた。
皮膚が引き攣れ、まだらに変色している。単なる事故の痕ではない。それは何かを——誰かを——直接握ったような、そんな形の火傷だった。
クロードの手が離れた。ほとんど反射のような素早さで、手を背中に隠す。
「……行くぞ」
声はもう、いつもの冷たい宰相のものに戻っていた。だが、背を向ける瞬間の横顔が、わずかに歪んでいたのをリリアンは見逃さなかった。右の眉が、ほんの少しだけ動く。それは痛みを堪える時の表情に似ていた。
「待って」
リリアンは思わず呼び止めた。
クロードは立ち止まったが、振り返らない。
「その傷——」
「聞くな」
一言だけ残し、クロードは屋敷の中へ消えた。
リリアンは門の前に立ち尽くした。朝の冷たい風が、火照った頬を冷やしていく。
掴まれた手首がまだ熱い。
火傷の痕。あれは古い傷だ。それなのに、まるで今も疼いているかのように、クロードは手袋で隠していた。誰にも見せずに——リリアンにも。
「お嬢様」
いつの間にか戻ってきていたソフィアが、外套を差し出した。
「中へ。冷えます」
「……ええ」
リリアンは歩き出した。だが頭の中では、さっきの光景が繰り返されている。
「私はお前を駒だと思ったことはない」
あの声。あの表情。そして——あの火傷。
打算だけでは説明できない何かが、クロードの中にもある。リリアンはそれを初めて、この目で見た気がした。
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応接間の扉を閉めたクロードは、そこでようやく大きく息を吐いた。
左手を見下ろす。黒革の手袋は焦げ、無残な穴が空いている。露わになった火傷の痕。二十年近く隠し続けてきたものを、一瞬で暴かれた。
よりにもよって、リリアンに。
「セバスチャン」
執務室へ向かう廊下で、セバスチャンが待ち構えていた。
「こちらへ」
老執事は何も聞かなかった。ただクロードの左手を見て、一礼する。
「手袋の替えをお持ちします」
「いや。それより——」
クロードは立ち止まった。窓から差す朝日が、彼の横顔を白く照らす。
「至急、エリアス・ヴァン・ローズバーグを呼べ」
セバスチャンの眉が微かに動く。
「ローズバーグ伯爵を。しかし彼は現在——」
「王太后派の監視対象になっていることは承知している。だが今は、リリアンを守るための駒が必要だ」
クロードの声はすでに冷徹な宰相のものに戻っていた。さっきまで応接間で見せていた動揺は、どこにも残っていない。
「エリアスはリリアンに個人的な執着がある。その感情を利用する。彼には『リリアンを守るための協力者』という役割を与え、王太后の目を彼女から逸らさせる」
「……よろしいのですか」
「他に手段がない」
クロードは窓の外を見た。朝の光が、庭園の白薔薇を金色に染めている。
「私はあの火傷を彼女に見られた。過去を掘り返される前に、次の手を打つ」
セバスチャンは深く頷き、去っていった。
一人残されたクロードは、右手でそっと左手の甲を覆った。目を閉じれば、二十年前の炎がまだ瞼の裏に蘇る。王太后が仕掛けた最初の罠。彼がまだ十代だった頃——。
だが、今は過去に浸っている時ではない。
リリアンを守るためなら、誰を利用しても構わない。たとえそれが、かつての自分を蘇らせることであっても。