FeverStory

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました

第7話 焦げた手袋と震える指先

夜が明ける前、リリアンは自室の窓辺に立っていた。

応接間での口論の熱が、まだ指先に残っている。クロードの左手——あの火傷の痕。そして「私はお前を駒だと思ったことはない」という言葉。

(信じていいのか)

窓ガラスに映る自分の顔が、疲れている。リリアンは額に手を当てた。クロードの言う通り、単独行動は危険だ。それはわかっている。だが——

「お嬢様」

控えの間から、ソフィアが静かに入ってきた。手に一枚の紙片を持っている。

「下町の情報網から、新たな連絡が」

リリアンは振り返った。

「何が」

「前世の裁判で偽証した会計官——マティアス・グレイ。彼が下町の廃墟区画に潜伏していると」

心臓が跳ねた。

「確かなの」

「情報提供者は信用できます。ただし——」

ソフィアは言葉を切った。その目に、めずらしく迷いがある。

「罠の可能性もあります。このタイミングで情報が出てくるのは、できすぎです」

リリアンは紙片を受け取り、目を走らせる。廃墟区画の古い織物倉庫。場所は具体的だ。前世で、マティアスは裁判の場で偽証し、リリアンの処刑を決定づけた男だった。その男が生きているのなら、王太后の陰謀を証言させられる。

「準備をして。行くわ」

「お嬢様。クロード様の警告を無視すれば——」

「わかっているわ」

リリアンは短く言った。

「でも、待っていればまた先手を打たれる。昨日の調合師のように」

調合師はリリアンが到着する直前に殺された。あと少し早ければ口を割ったかもしれないのに。その悔しさが、まだ胸に刺さっている。

「私はクロードの庇護下で安全に待つ『駒』にはなれない。前世で誰も信じられずに死んだ私が、また誰かの手のひらの上で動くのは——もうたくさん」

声が震えた。感情が溢れそうになって、リリアンは唇を噛む。

「……承知しました」

ソフィアが深く頷く。その灰色の瞳に、覚悟の光が宿った。

「では変装を。夜明け前の馬車で出ます。見張りは——」

「星霊祭の準備で、夜警の数が減っているのを確認してあるわ」

「さすがです」

ソフィアは口元だけで笑い、衣装棚から動きやすい服を取り出した。藍色ではない、灰色の無地。下町に溶け込むための、商人の娘を装う変装だ。

リリアンは髪飾りを外した。銀細工のそれが、卓上でかすかに光る。

(クロードがつけた監視の魔道具)

外していくべきか。一瞬迷い、そのまま髪に戻す。もしもの時、これが位置を知らせることになる。危険を承知で行くのなら、せめてその危険を誰かが感知できるように。

(私は、信じたいのかもしれない)

誰を——その答えは胸の奥で燻っている。

夜明け前の冷気が、旧倉庫の廃墟を包んでいた。

ひび割れた石畳の隙間から雑草が伸び、窓という窓は板で塞がれている。街灯もまばらで、かすかな月明かりだけが頼りだった。

「この奥です」

ソフィアが囁く。彼女は外套の下に短剣を隠し持ち、常に周囲を警戒している。廃墟区画に足を踏み入れてから、その動きは一層鋭くなっていた。まるで、こういう場所に慣れているかのように。

(ソフィアは何者なのか)

リリアンは以前から抱いている疑問を、また胸の隅に押し込めた。今はそれどころではない。

倉庫の扉は半開きだった。

「マティアス・グレイ。会計官のマティアス。話があるの」

リリアンが呼びかける。返事はない。

一歩踏み込んだ瞬間——異臭が鼻を衝いた。

血の匂い。

「——ッ」

ソフィアが先に動いた。短剣を抜き、倉庫の奥へ駆ける。リリアンも続いた。

そこに、男が倒れていた。

喉を深く裂かれ、血の海に沈んでいる。まだ温かい。殺されてから、そう時間は経っていない。

「また……!」

リリアンの声が掠れた。手遅れだった。今回も——また。

「動かないで」

背後から、冷たい声が降った。

リリアンは息を呑む。振り返ると、倉庫の暗がりから五人の男たちが現れるところだった。全員が黒い外套をまとい、手には剣を携えている。王太后の私兵だ。

「エーデルシュタイン公爵令嬢。そして侍女のソフィア・ラングレー」

男の一人が笑みを浮かべる。奥から姿を現したその男は、王太后の側近の顔だった。星霊殿で見かけたことがある。

「会計官の情報を流せば、必ず釣れると思っていた。何せあんたは、前世でもそうやって動いたからな」

(前世——)

リリアンの背筋を悪寒が走る。

「知っているのか」

「全てを、とは言わないがね。太后様はあんたの動きをずっと予測しておられた。死に戻り——そんな奇跡があることも、ご存じだったのさ」

リリアンは言葉を失った。王太后が回帰の事実を知っている。それならば、これまでの先手も説明がつく。

「お嬢様、私が時間を稼ぎます。どうか——」

ソフィアが一歩前に出る。だが私兵の剣先が、彼女の喉元に突きつけられた。

「無駄だ。二人ともここで死ね」

側近が手を上げる。私兵たちが一斉に剣を構えた。

(終わった——)

リリアンの脳裏に、前世の断頭台が蘇る。あの時と同じだ。誰も助けに来ない。誰も——

その瞬間。

倉庫の壁が、爆ぜた。

轟音と閃光。破片が飛び散り、漆黒のマントが闇を裂いて翻る。

「——クロード」

リリアンの口から、その名前が零れた。

彼は何も言わなかった。ただ右手を掲げただけで、破壊魔法の波動が倉庫全体を震わせる。衝撃波が私兵たちを壁に叩きつけ、剣を弾き飛ばした。五人の男が、一人、また一人と崩れ落ちる。

側近だけが、逃げようと背後を向いた。

クロードは指を鳴らした。空気が歪み、側近の足元の床が陥没する。男は悲鳴を上げて転倒した。

「——王太后の私兵か」

ようやく発せられた声は、氷よりも冷たい。クロードの目は怒りに燃えているのに、その声は静かだった。

「宰相閣下。これは誤解で——」

「黙れ」

一言で男を黙らせ、クロードはリリアンに歩み寄る。

マントの裾が魔力の残滓でかすかに発光し、周囲の瓦礫が小刻みに震えた。破壊系統の魔法を極めた者の圧倒的な力。その気配だけで、空気が重い。

彼は何も言わず、リリアンの腕を取った。その手が、かすかに震えている。

「クロード、私は——」

「後だ」

遮る声は低い。だが怒りだけではない。別の感情が、その声の底に渦を巻いている。

リリアンは、クロードの左手に視線を落とした。

黒革の手袋が、焦げていた。昨日と同じだ。そして今回も——その下から、古い火傷の痕が覗いている。

(なぜ手袋を焦がすほど、魔法を制御できないはずの彼が——)

クロードはリリアンを抱え上げると、無言で壊れた壁の向こうへ歩き出した。外には馬車が待っている。セバスチャンが御者台に座り、緊迫した面持ちで一礼した。

「ソフィアも」

リリアンが振り返ると、クロードは僅かに顎を引いた。ソフィアは自力で立ち上がり、馬車に続く。幸い、目立った傷はない。

馬車の中で、沈黙が続いた。

向かい合って座るクロードは、窓の外を見つめたまま何も言わない。朝日が差し始め、彼の横顔を白く浮かび上がらせる。無表情の仮面の下に、激しい感情が押し込められているのが伝わってきた。

(怒っている)

当然だ。警告を無視して、罠に飛び込んだ。彼にとっては、計画を乱されたことになる。

(でも——なぜ手が震えていたの)

怒りだけなら、あんな震え方はしない。リリアンは、前世で処刑される直前の自分の手が、同じ震え方をしていたのを思い出す。あれは、恐怖だ。

彼は、リリアンが死ぬかもしれないと——

「クロード」

「話すな。今は」

短く遮られ、リリアンは口を閉じた。

馬車が宰相邸に到着するまで、二人の間に言葉はなかった。

宰相邸の玄関ホールに足を踏み入れた時、ようやくクロードが口を開いた。

「ソフィア、医務室へ。手当てを受けろ」

「しかし、お嬢様は——」

「リリアンは俺が連れて行く」

有無を言わせぬ口調だった。ソフィアはリリアンに視線を送り、小さく頷いて去っていく。その足取りには、自責の念が滲んでいた。

クロードはリリアンの手首を掴み、そのまま廊下を歩く。足音だけが冷たい石床に響いた。向かう先は自室だ。

部屋の前に着くと、彼はようやく手を離した。

「入って、休め」

「待って。話を——」

「俺が何を言うと思っている」

クロードは振り返らなかった。背を向けたまま、声を絞り出す。

「無茶をした。危険だった。二度とするな——そんな言葉はもう意味がない。お前は俺の警告を聞かない。俺の計画の中に収まらない。ならば」

彼は初めてリリアンを見た。その青い瞳には、怒りと困惑と——ほんの僅かな、痛み。

「俺の計画の方が間違っているのかもしれない」

「クロード」

リリアンは息を呑んだ。彼が自分の非を認めるような言葉を発つなんて。

クロードは左手を持ち上げた。焦げた手袋の下の火傷の痕に、自らの右手を重ねる。

「これを、お前に見られたな」

「ええ」

「理由は聞くな」

「聞かないわ」

リリアンは静かに答えた。聞きたいことは山ほどある。でも、今は違う。彼が自分から話す日まで——待つと決めたから。

クロードは少しだけ、表情を和らげた。それは笑みとは呼べない、ほんの微かな変化だったが、リリアンには確かに見えた。

「死ぬな」

彼はそれだけ言って、背を向けた。

書斎へ向かう足音が、廊下に消えていく。

リリアンは自室の扉を閉め、ゆっくりと息を吐き出した。全身から力が抜け、その場に座り込む。

(生きている)

冷たい床の感触が、現実を教える。王太后の罠。殺された会計官。破壊魔法の閃光。そしてクロードの震える手と——「死ぬな」。

(私はまた、誰かに助けられた)

前世では、誰も助けてくれなかった。だから一人で戦うしかないと思っていた。でも今は——

リリアンは、胸の奥で燻っていた疑問の答えを見つける。

(王太后が回帰を知っているのなら、なおさら一人では戦えない。でも、クロードと共に戦うためには、彼が抱える秘密を知らなければならない)

火傷の痕。なぜ手袋を外せないのか。そして、なぜ王太后はこれほど執拗にクロードを狙うのか。

その答えが「王太后の血脈に関する秘密」にあることを、リリアンは直感していた。

「次は——こちらから仕掛ける番よ」

床に座り込んだまま、リリアンは呟いた。まだ証拠は足りない。でも、方向は見えた。

一方その頃、書斎では。

クロードは窓辺に立ち、夜明けの空を見上げていた。左手の手袋は机の上に置かれ、火傷の痕が朝日に晒されている。

(囮として使うはずだった)

当初の計画では、リリアンは王太后の注意を逸らすための存在だった。だが——彼女は囮の枠を超えて、自ら動き、自ら罠に飛び込んだ。そして、クロードが想像していたよりもはるかに深く、この陰謀の核心に迫っている。

(もはや駒ではない)

クロードは目を閉じた。彼女を守るためには、計画を変えなければならない。エリアスを使うだけでは足りない。リリアン自身を、戦力として——いや、それ以上に。

(保護対象として、か)

自分の中に芽生えた認識に、クロードは自嘲気味な笑みを浮かべた。宰相としての冷徹さが、音を立てて崩れていく。

左手の火傷の痕が、ずきりと疼いた。

破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました第7話 焦げた手袋と震える指先