破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第8話 地下への誘い
書斎の扉が閉まる音が、夜の静寂を切り裂いた。
リリアンはクロードの背中を見つめる。部屋に戻る間も与えられず、手当てもそこそこに連れて来られた。机の上の手袋は焦げたまま。左手の甲に広がる古い火傷の痕が、揺れる燭台の灯りに照らされている。
「もうお前を野放しにはできない」
クロードは振り返らずに言った。
「今夜、お前が掴んだものを全て開示しろ」
リリアンは唇を引き結ぶ。全身の疲労が一気に押し寄せてきたが、ここで座り込むわけにはいかない。
「野放し、とは心外ですわね。私はあなたの飼い犬ではありません」
「飼い犬ならもう少し従順だ」
クロードが振り返る。蒼い瞳は温度を感じさせない。しかしその奥に、かすかな疲労の影があった。
「お前は命令を無視し、単独で廃墟に乗り込み、罠に嵌まった。飼い犬以下だ」
リリアンは一歩前に出た。反論の言葉が喉まで出かかる。
そのときだった。
クロードの左手が目に入った。焦げた手袋の下から覗く、引き攣れた皮膚。まだらに変色した火傷の痕が、手の甲全体に広がっている。
リリアンは息を呑んだ。
(あの時も——廃倉庫で見た時も思った。でも、こんなに酷いものだったのか)
言葉が消えた。反論も、言い訳も、すべて。
クロードはリリアンの視線に気づき、ゆっくりと左手を背に回した。
「聞いているのか」
「……聞いているわ」
リリアンは視線を上げた。心臓が早鐘を打っている。
(これはただの傷じゃない。この人が背負っているものの、ほんの一部だ)
「話すわ。私が掴んだもの、全部」
彼女は観念して、深く息を吸った。
「まず、会計官マティアス・グレイ。彼は前世——いいえ、とある裁判で私に対して偽証をした男です」
クロードは微かに眉を動かした。リリアンは続ける。
「彼が下町の廃墟区画に潜伏しているという情報を、侍女のソフィアが掴みました。ソフィアはかつて下町で——」
「元盗賊ギルドの情報網か」
クロードの声に、かすかな鋭さが混じる。
リリアンは頷いた。
「ソフィアが下町の情報網を使って見つけたの。信頼できる情報だった。でも——」
「罠だった」
「ええ。私が着いた時には、マティアスはすでに殺されていた。喉を裂かれて。王太后の私兵が待ち伏せていて、口封じのために私も——」
クロードの右手が、机の縁を握り締めた。
「マティアスは何か言っていたか。殺される前に」
リリアンは一瞬息を止め、それから口を開いた。
「これが、おそらく一番重要なことよ」
クロードの蒼い瞳が、真っ直ぐに彼女を見つめる。
「マティアスは言ったの。『王太后がユリウス様を真の王と呼んでいた』と」
その瞬間だった。
クロードの表情が強張った。ほんの一瞬——だがリリアンには確かに見えた。彼の指先が、かすかに震えている。
「真の王、か」
クロードはゆっくりと言葉を噛み締めるように呟いた。
「知っているのね。この言葉の意味を」
リリアンが問いかけると、彼は短く息を吐いた。
「それは単なる母親の贔屓目ではない」
「どういうこと?」
「王太后がユリウスを『真の王』と呼ぶなら、そこには公にできない血筋の事情がある。つまり——」
クロードは言葉を切り、窓の外を見やった。夜明け前の闇が、まだ空を覆っている。
「ユリウスの出生に、何か疑惑があるのね」
リリアンの声は震えなかった。
クロードは答えない。その沈黙が、何より雄弁だった。
(やはり、そういうことだ)
リリアンは胸の奥で、バラバラだった破片が繋がるのを感じた。前世で自分が処刑された遠因。王太子の婚約者候補として選ばれた理由。そして王太后の執拗なまでの介入——。
「お前の持つ情報は危険すぎる」
クロードが口を開いた。
「お前はもはや囮ではない」
「囮?」
リリアンは思わず聞き返した。
クロードは一瞬息を呑み、それから静かに言った。
「最初の計画では、お前は王太后の注意を逸らすための存在だった。契約結婚も、宰相邸への居住も、すべてはそのために——」
「知っているわ」
リリアンの言葉に、クロードの瞳が揺れた。
「気づいていたのね」
「ええ。でも、それはお互い様でしょう」
リリアンは小さく笑った。疲労のせいか、自然と口元が緩む。
「私もあなたを利用していた。婚約者候補から外れるため、そして王太后に対抗するための盾として」
クロードはしばらくリリアンを見つめ、それから微かに表情を和らげた。
「ならば、契約の修正が必要だな」
「どんな?」
「お前の単独調査を、一時的に全面的に禁じる」
リリアンが口を開くより早く、クロードは続けた。
「代わりに、俺が持つ情報を開示する。王太后の血脈の秘密——ユリウスの出生にまつわる疑惑の一端を」
書斎に沈黙が落ちた。
燭台の灯りが揺れ、二人の影が壁に長く伸びている。
「ユリウス殿下の出生の疑惑」
リリアンはゆっくりと繰り返した。
「現国王陛下の、実の子ではない可能性——」
「それ以上は、まだ言えない」
クロードは遮るように言った。
「証拠が足りない。そして、お前をこれ以上危険に晒すわけにはいかない」
「私はすでに危険のど真ん中にいるわ」
「だからこそだ」
クロードの声に、初めて感情が滲んだ。苛立ちか、焦りか——リリアンには判別がつかない。
「お前が思っている以上に、王太后は追い詰められている。星霊祭の毒、会計官の殺害、廃墟での罠。すべては証拠隠滅のための先手だ」
「つまり、王太后は焦っている」
「ああ。そして焦った獣は、何をするかわからない」
リリアンはクロードの左手に視線を落とした。背に回されたままの、火傷の痕。
(この人もまた、王太后に傷つけられた者の一人なのだろうか)
「わかったわ」
リリアンは顔を上げた。
「単独調査は控える。でも、条件がある」
「言え」
「私が得た情報は必ず共有する。その代わり、あなたが掴んだ情報も私に共有してほしい。隠し事なしで——」
言いかけて、リリアンは口を閉じた。
(隠し事なし。そんなことが、今の私に言えるのだろうか)
前世の記憶。処刑の瞬間。そして——死に戻り。
リリアンは拳を握り締めた。
「——すべては無理ね」
彼女は静かに言い直した。
「私もまだ、全てを話せない。でも、あなたが今話したことが真実なら、私たちの敵は同じだ」
クロードはしばらくリリアンを見つめ、それから頷いた。
「ああ。敵は同じだ」
「なら、共闘しましょう。少なくとも、王太后を追い詰めるまでは」
「契約の修正だな」
クロードは机に向かい、羊皮紙を取り出した。インク壺にペンを浸し、手早く文字を綴る。
「単独調査の禁止。得た情報の相互共有。調査の際は必ず互いに報告する——」
ペンが紙の上を走る音が、静かな書斎に響く。
「そして、これが最も重要な項目だ」
クロードが顔を上げた。
「どちらかが危険を察知した場合、即座に撤退する。証拠よりも、命を優先しろ」
リリアンは驚いてクロードを見つめた。
「それは——」
「これは命令だ。リリアン」
名を呼ばれたことに、彼女の心臓が跳ねた。契約の場で、初めてのことだった。
「……わかったわ、クロード」
リリアンもまた、彼の名を呼び返した。
二人の間に、奇妙な沈黙が流れる。それは以前のような疎外ではなく、互いの秘密を認め合った上での了解だった。
(私が前世の処刑を話せないように、この人もまた、何かを隠している)
(それでも——今はこれでいい)
クロードは完成した契約書に署名し、リリアンに差し出した。
彼女もペンを取り、自分の名を綴る。インクの匂いが、かすかに部屋に漂った。
「今夜は休め」
クロードは契約書を机の引き出しに仕舞いながら言った。
「明日、地下書庫にある王家の系譜を見せる」
「地下書庫?」
「宰相邸の地下にある、一般には公開されていない資料室だ。王家の血筋に関する古文書が保管されている」
リリアンは初めて聞く情報に、思わず身を乗り出した。
「そこに、ユリウス殿下の出生に関する証拠が?」
「おそらくな。王太后が最も隠したがっている真実が、そこにある」
リリアンは頷き、書斎の扉に向かった。疲労で足が重い。それでも、胸の奥には小さな灯が灯っていた。
(ついに、手がかりを掴んだ。前世では辿り着けなかった真実に、今度こそ——)
「リリアン」
背中越しに、クロードの声がした。
振り返ると、彼は窓の外を見つめたまま、背を向けている。
「死ぬなと言ったのは、契約のためではない」
リリアンの足が止まった。
「それは——」
問い返そうとした言葉が、喉に詰まる。クロードはそれ以上何も言わない。その背中が、すべての答えを拒んでいた。
(契約のためではないなら、何のため?)
心臓がうるさい。胸の奥がざわつく。
リリアンは返事をせず、静かに書斎の扉を閉めた。
廊下は冷え切っていた。
壁に並ぶ燭台の灯りが、リリアンの影を長く伸ばす。足音だけが、静寂の中に響いている。
(死ぬな)
(契約のためではない)
頭の中で、クロードの言葉が何度も繰り返された。
「あの人は、いったい何を考えているの」
リリアンは呟いた。
(囮として使っていたと、自分で認めたのに)
(なのに、なぜ今になって——)
廊下の角を曲がると、自室の扉が見えた。ソフィアはすでに休んでいるはずだ。今夜はもう、誰にも会いたくなかった。
リリアンは歩きながら、自分の胸に手を当てた。
鼓動が速い。廃倉庫での恐怖がまだ消えていないのだろうか。それとも——。
(違う。これは)
(あの人の言葉に、動揺している)
クロードの左手を思い出す。火傷の痕。焦げた手袋。決して語られることのない傷。
(私だけじゃない。あの人もまた、何かと戦っている)
(王太后と。そして、自分自身の過去と)
自室の扉の前で、リリアンは立ち止まった。
深く息を吸う。冷たい空気が肺を満たし、少しだけ頭が冷えた。
(今日、私は確かに一歩を踏み出した)
(クロードとの共闘。王太后の血脈の秘密。そして——地下書庫)
(まだ全てを信じることはできない。でも、少なくとも)
リリアンは扉の取っ手に手をかけた。
(一人ではない)
その事実が、冷え切った廊下で、小さな灯のように胸の奥に灯っていた。
彼女は静かに扉を開け、自室へと消えた。
翌朝。
リリアンは夜明けとともに目を覚ました。疲労はまだ残っているが、身体は少しだけ軽い。
ソフィアを呼ばず、一人で着替えを済ませる。藍色のシンプルな日常着に袖を通し、髪を低めにまとめた。
(地下書庫——クロードは確かにそう言った)
(でも、宰相邸に地下があるなんて、聞いたことがない)
リリアンは東翼の廊下を歩き始めた。使用人たちはまだ活動を始めていない。静まり返った館内に、自分の足音だけが響く。
一階へ降り、居住区から執務室方面へと足を進める。壁には古い絵画が掛かり、床には深紅の絨毯が敷かれていた。
(どこかに、地下へ続く階段があるはず)
(でも、見つけたことは一度も——)
そのときだった。
廊下の突き当たりで、壁の一部が不自然にずれていることに気づいた。
リリアンは足を止めた。周囲を見回す。誰もいない。
(これ——ただの壁じゃない)
隙間からはかすかに冷たい空気が流れ出し、古い石の匂いが漂っている。まるで、何かが密かに出入りした痕跡のように。
心臓が速まった。
リリアンはゆっくりと手を伸ばした。指先が冷たい石の表面に触れる。
次の瞬間。
壁は音もなく開き、暗い階段が現れた。下へと続く石段。壁の燭台には、まだ新しい蝋が残っている。
(誰かが——最近、ここを使った)
リリアンは息を呑み、闇を見つめた。
地下への階段が、静かに彼女を待っている。