破滅の未来を変えるため、冷酷宰相に契約結婚を申し込んだら、溺愛が始まりました
第9話 嘆きの回廊
大査問会場の重い扉が左右に開かれた。
天窓から差し込む朝の光が、磨かれた石床を冷たく照らしている。リリアンは一歩を踏み出した。胸の前で握りしめた革の書類筒には、王太后の側近が使う封蝋の欠片と、毒の調合師の供述録が収められている。
傍聴席は満席だった。貴族たちの視線が一斉にリリアンへと注がれる。ささやきが波のように広がった。
「エーデルシュタイン公爵令嬢だ」 「宰相夫人がなぜ、こんな場に」
正面には査問官席——老齢の法務卿を中心に、五人の高官が並ぶ。その右側に、ひときわ高い玉座が据えられていた。王太后がまっすぐにリリアンを見下ろしている。紫紺のドレスに身を包み、口元にはかすかな笑みを浮かべていた。
リリアンは指先に力を込めた。書類筒の革がきしむ。
(これでいい)
中央の証言台へと歩を進める。そのとき、傍聴席の最前列で黒衣が動いた。
クロードだった。
宰相席から半身を起こし、蒼い瞳でリリアンを射抜く。口は開かない。けれどその視線には、昨夜の書斎で交わした言葉が滲んでいた。『死ぬなと言ったのは、契約のためではない』。
リリアンは目を逸らさず、かすかにうなずいた。
証言台の前で膝を折り、書類筒を差し出す。
「エーデルシュタイン公爵家が息女、リリアンにございます」
法務卿が書類を受け取り、眉をひそめる。
「王太后陛下に対する不正の告発であると。証拠はここに?」
「封蝋の欠片と、毒の調合師の供述録でございます。星霊祭の準備会合における毒殺未遂事件——その背後に、王太后陛下の側近が関与しております」
ざわめきが広がった。
王太后は動かなかった。ただ、細い指で玉座の肘掛けをとん、とん、と叩く。余裕に満ちた仕草だった。
「証言を許す」
法務卿の声に、リリアンは立ち上がった。口を開きかけた瞬間——
「待たれよ」
ユリウスが傍聴席から歩み出た。王太子の白い正装が、光の下で浮かび上がる。彼は「真実の口」の前に立った。古代石でできた祭壇の上で、魔法具がかすかに青く輝いている。
「その証拠は捏造です」
ユリウスの声は穏やかだった。だが目はリリアンを見ていない。
「リリアン・フォン・エーデルシュタインこそ、王太后陛下を陥れようとした国家反逆者。証拠書類は彼女が自ら作成した偽物であり、封蝋も盗み出したものに過ぎません」
リリアンは息を呑んだ。
「ユリウス様——」
「真実の口が、それを証明します」
ユリウスが告白するように両手を広げた。
魔法具が脈打つ。青白い光が強まり、やがて静かに安定した。反応はない。嘘を検出するはずの光は、ユリウスの言葉を否定しなかった。
会場が凍りついた。
リリアンは祭壇を見つめた。指先が冷たくなり、背筋を汗が伝う。
(なぜ——嘘のはずなのに)
法務卿が重々しく立ち上がった。
「リリアン・フォン・エーデルシュタイン。国家反逆の容疑で、ただちに拘束する」
衛兵たちが動いた。四人の兵が証言台を取り囲み、リリアンの両腕を掴む。書類筒が床に落ち、封蝋の欠片が転がった。
クロードが立ち上がりかけた。その肩越しに、王太后が目を細める。口元に刻まれた笑みは、あの夜会で見せたものと同じだった。
クロードは拳を握りしめ、椅子に戻る。黒革の手袋がぎりりと鳴った。
そのとき。
傍聴席の後方で、椅子が倒れた。
エリアスが立ち尽くしていた。顔から血の気が引き、瞳孔が開いている。彼の目には、別の光景が映っていた——前世の断頭台。リリアンが連行される後ろ姿。あの悪夢と同じ、冷たい石の色と、衛兵たちの無表情。
(違う。これは)
(もう一度、取り返しがつかなくなる)
エリアスは衝動的に一歩を踏み出した。
クロードの鋭い目配せが、それを遮る。
「動くな」
声は出さない。唇の動きだけだった。だがエリアスはその命令を骨の髄で感じ取り、膝が折れた。床に片膝をつき、荒い息を吐く。
リリアンは連行されながら振り返った。エリアスの姿が目に入り、一瞬だけ唇を噛む。苦しげな表情が浮かび、すぐに前を向いた。
「査問会を閉会する」
法務卿の宣言が響いた。
貴族たちが立ち上がり、出口へと向かう。クロードはまだ席を立たない。王太后も動かない。二人の視線が空中で交差し、音もなく火花を散らしていた。
エリアスはふらふらと立ち上がった。クロードが無言で顎をしゃくる——行け、という合図だ。エリアスは人波に押されるようにして会場を後にした。
廊下に出て、走った。
ローズバーグ伯爵邸までの道のりを、息を切らせて駆け抜ける。門をくぐり、階段を上がり、自室の扉を背で閉める。
カーテンの隙間から差し込む光が、床の一部だけを白く染めていた。
エリアスは壁に背を預け、ずるずると座り込む。震える手で顔を覆った。
「まただ」
かすれた声が漏れた。
「俺は——また、何もできなかった」
悪夢は悪夢ではなかった。あれは警告だったのか。それとも、すでに起こったことの記憶なのか。
答えは闇の中に沈んでいる。
エリアスは両手を握りしめた。爪が掌に食い込み、かすかな痛みが走る。その痛みだけが、今の彼を現実に繋ぎ止めていた。
王宮の廊下を早足で去ったエリアスとは対照的に、リリアンの足取りは一歩ごとに重くなる。査問会場の高い天井も、貴族たちの好奇の視線も、今はもう遠い。
連行される彼女の背後で、分厚い扉が一つ、また一つと閉ざされていった。まるで地上との繋がりを丁寧に断ち切るように。陽光は届かず、篝火の朱い揺らめきだけが石壁を這っている。衛兵たちは無言だった。彼らの表情からは、公爵令嬢を地下牢へ送ることへの呵責も、あるいは任務を果たす冷酷さも読み取れない。ただ淡々と、決められた手順をこなしている。
石段は冷えきっていた。
リリアンは背中を壁に押しつけられ、両腕を衛兵に掴まれたまま地下へと降ろされる。足首に鎖はない。けれど一歩ごとに、世界が狭くなった。
「嘆きの回廊」と呼ばれる最下層。王宮の地下牢は、そこに通じる長い通路が名の由来だと聞いたことがある。囚人が断頭台へ向かうまでのあいだ、壁に染みついた無数の嘆きが共鳴する——そんな曰く付きの場所だ。
鉄格子の音が骨に響いた。
衛兵が枷を外し、リリアンの背を押す。よろめきながら石床に膝をついた。冷たい。ドレスの裾が汚れるのも構わず、彼女はゆっくりと顔を上げた。
独房は三歩四方。壁の高い位置に、手のひらほどの鉄格子窓が一つ。差し込むのは月明かりだけ。寝台は石の台座に藁が敷かれただけで、毛布すらない。
衛兵が無言で鉄格子を閉める。鍵の回る音が二度。足音が遠ざかり、やがて階段の軋みも消えた。
リリアンは深く息を吐いた。白く濁った。
(これが、あの日の延長線上だというの)
前世の記憶が甦る。もっと暗く、もっと狭い場所だった。あのときは罪状すら告げられず、断頭台へ引っ立てられる朝を、生きたまま死を待つだけの時間を過ごした。
胸の奥が冷える。指先がわずかに震えた。
リリアンは目を閉じた。
(違う。今回は、まだ終わっていない)
監禁は想定内だった。証拠書類は押収されたが、あれだけが全てじゃない。クロードが動く。ソフィアもいる。そして自分には——前世の断頭台で終わった記憶がある。
右手薬指が疼いた。
古い傷跡。銀の指輪で隠してきたその場所が、夜の冷気の中で熱を持っている。リリアンは指をさすりながら、目を細めた。
(「真実の口」が機能しなかった)
査問会で王太后が発言した瞬間、魔道具は沈黙した。嘘を検出するはずの光が、まったく反応を示さなかったのだ。
(ありえない。破壊でも故障でもない——あれは、無効化だ)
王太后は周到な女だ。魔道具の原理を知り尽くした上で、あの場を仕組んだ。
(だとすれば、方法は二つ)
ひとつは「真実の口」そのものに細工を施した場合。王太后の側近に、星霊祭の準備と称して近づく機会はあったはずだ。
もうひとつは——
リリアンは顔を上げた。
(王太后自身が、自分の発言を「真実ではない」と認識していなかった場合)
もしも彼女が「真実の口」の判定対象にならない特権を持つ血筋ならば? あるいは、発言の瞬間に魔道具が作動しない何らかの魔法を身に帯びているならば?
鼓動が速まった。
(ユリウスの出生の秘密。クロードが示唆した「血脈の秘密」——)
王太后がユリウスを「真の王」と呼ぶ理由。それが単なる母親の贔屓目でなければ、王太后自身の血筋に、何かがある。
傷跡が再び疼いた。
リリアンは指を握り込む。痛みで思考を繋ぐ。
(諦めるものか)
月明かりが独房の床に白く落ちていた。彼女はその光の縁を見つめながら、静かに息を吸い込む。
時間はまだある。星霊祭まで、三日。
夜の宰相邸は異様な静けさに包まれていた。
クロードは執務室の机に向かい、ペンを走らせている。書面は三通。一通目は王室公文書館への調査依頼。二通目は衛兵隊の配置転換に関する正式な抗議。そして三通目——
彼は三通目の羊皮紙を封蝋で閉じ、セバスチャンを呼んだ。
初老の執事が音もなく入室する。
「これを届けろ」
セバスチャンは封書を受け取り、あて名を見て目を細めた。
「ローズバーグ伯爵令息に」
「エリアスは査問会で動揺していた。あれは単なる狼狽じゃない——何か知っている」
クロードは窓辺に立ち、夜の闇を見つめる。
「それと、地下牢の見取り図と衛兵の交代時刻表を至急入手しろ。非合法ルートで構わない。王太后が「真実の口」をどう無効化したかも並行して調べさせろ」
「閣下」
セバスチャンは一歩も動かなかった。
「それほどお急ぎで?」
「彼女を囮にした責任は俺にある」
クロードは振り返らなかった。背中越しの声は平坦で、けれどいつもより低い。
「計画を間違えた。ならば、俺が取り戻す」
室内に沈黙が落ちる。
セバスチャンは深く一礼し、封書を抱えて退出した。扉が閉まる間際、彼の口元がかすかに緩んだように見えたのは、灯りの加減かもしれない。
クロードは机に戻り、引き出しから一枚の羊皮紙を広げた。王宮の略図。地下牢「嘆きの回廊」は最下層——通常の出入り口は三箇所、すべてに衛兵が常駐する。
そのとき、執務室の扉が乱暴に開かれた。
「宰相閣下」
ソフィアだった。侍女服のまま、髪は乱れ、頬に涙の跡がある。けれど瞳は異様なほど静かだった。
「ソフィア、下がれと言ったはずだ」
「申し訳ありません」
彼女は一歩も退かず、クロードの机の前に立つ。
「お嬢様をお救いください。わたくしにも、お手伝いできることがあります」
クロードは彼女を見上げた。
「どんな技能だ」
「盗賊ギルドの流儀を、一通り」
ソフィアは淡々と告げた。声は震えていない。
「地下牢のような場所への潜入、見張りの無力化、鍵の解除——すべて可能です」
クロードはしばらく彼女を見つめ、それから静かに頷いた。
「話せ」
ソフィアは机に近づき、王宮の略図を見下ろした。その指が、地下牢の東側にある小さな空白を指す。
「ここ——旧排水路です。三十年まえに封鎖されましたが、ギルドは迂回路を残しています」
「誰に教わった」
「ギルドマスターです。わたくしの、実の祖父でした」
クロードは彼女の横顔を見た。宵闇のなか、ソフィアの瞳は一点の曇りもなく図面を睨んでいる。
「お前は危険を承知か」
「お嬢様が危険なのです」
即答だった。
クロードは羊皮紙を広げ直し、彼女に一瞥をくれた。
「計画を変える。王太后が次の手を打つ前に、俺が直接リリアンを連れ出す」
その左手。黒革の手袋の下で、古い火傷の痕が疼くように熱を帯びていた。