断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第1話 吹雪の来訪者
雪の味がした。鉄と、凍えた針葉樹の匂い。十年前の冬の夕刻、リゼリアは北の国境を駆っていた。
黒馬の腹が激しく波打つ。舌の根に処刑台の血の味が残っている。首を振り、両脚で馬腹を締めた。吹雪が視界を白く削る。
左のこめかみが脈打っていた。火傷の跡が焼けるように熱い。
それは、この先で死ぬ者にだけ走る痛みだ。
城壁の黒い影が雪煙の奥で揺れる。ヴァルデック城。氷の辺境伯の城。リゼリアはほとんど突っ伏す姿勢で手綱を握り直した。すぐ横を、黒い影が風の向こうを滑るように走る。
きりもみ状の矢が耳元を裂いた。
一拍遅れて、馬が断末魔を上げる。前脚が折れ、リゼリアの身体は雪面へ放り出された。左肩から落ちる。熱い衝撃が腕に刺さり、視界が白く明滅した。
「——まだ、だ」
氷を噛むような声が出る。彼女は雪に膝をつき、立ち上がった。馬は倒れたまま痙攣している。首に深く矢が突き立っていた。手綱を外す。指がかじかんで言うことを聞かない。
城門の上で、篝火が風に叩かれている。
「止まれ!」
門衛の槍が一斉に雪面を向いた。鉄の穂先が揺れる。物見台の影が城壁から身を乗り出した。
リゼリアは奥歯を噛み締めた。視界の端で、倒れた馬の血が雪を溶かして広がっている。あの血の色を見ても、胸の奥は凪いだままだった。それより、足を止めるな。止まった瞬間、十年前と同じ道がもう一度開く。
「ヴェルンハルト公爵家が長女、リゼリア・フォン・ヴェルンハルトです」
声を張る。喉に雪が入る。肩の痛みが呼吸を浅くさせた。
「辺境伯閣下への面会を、この場で求めます。門を開けてください」
門衛の一人が槍を突きつけた。他の男が後ろで合図を送る。馬の死体の向こうに、弓兵が二人、矢をつがえていた。
「怪しい。この吹雪に女が一人とはな」
「どうやって北の関所を抜けた」
リゼリアは笑わなかった。口元の血の味を飲み込む。左手を上げて、袖から手を離した。武器はない。右手の黒い指輪だけが夕闇に沈んで見える。
「通行証も、関所印もありません。ですから、面会要求だけを聞き入れてください」
「正気か」
門衛の一人が仲間を見た。馬を射抜いた矢、城門前の女、止まない雪。誰かが「大臣かどなたかの使いではないか」と囁く声が風に千切れる。リゼリアは膝を三歩前へ進めた。肩が軋む。こめかみの灼痕がまた熱くなった。
視界の左端で、夜が深くなる。瘴気が昇る匂いというものを、リゼリアは知っていた。腐った百合と、焦げた蜜を混ぜたような甘さ。今この空気に、その気配はまだない。
だからこそ、告げる。
彼女は雪を踏み締めて、もう一歩進んだ。
「ここで私を拘束しても構いません。ただし、その前にお伝えします」
息を吸う。
「三日月後、北西の林道で瘴気孔が開きます」
門衛たちが止まった。槍の穂先が一瞬、揃って下がる。風が唸った。
リゼリアは肩で息をしながら、物見台を見上げた。
「その亀裂は旧炭焼き小屋の西側、枯れた針葉樹が円を描く場所から森の深部へ——」
「黙れ!」
兵士の一人が槍を突き出そうとした、その時だ。
「開けろ」
頭上から声が落ちた。低く、凍った湖の底を叩くような声だった。
兵士の動きが全員、止まる。リゼリアは顔を上げた。物見台の上に、黒いマントを風に張り付かせた男が立っている。雪明かりで銀に見える髪。骨張った片手が欄干を掴んでいた。
アルノート・ヴァルデック。
氷の辺境伯。
彼は無表情でリゼリアを見下ろしていた。目は青いというより無色に近い。細めた瞼の奥で、光が死んでいる。全身から熱という熱が失われたような顔つきだった。それでもリゼリアの胸は、八年ぶりに彼を見つめて、強く刻んだ。
「門を開けろ。女は私が検分する」
門衛たちが弾かれたように動く。鉄の閂が外れていく。重い木扉が雪を裂いて開いた。
アルノートは物見台を降りず、城門の内側から出てきた。近くで見ると、彼の左のこめかみから首筋にかけて、青白い血管が浮いている。氷の呪いだ。リゼリアは無意識に右の指先で自分の火傷跡へ触れた。
ここに来るまでに二射。馬を射抜いた矢は、当てるつもりで放たれたし、二射目がまだ来ないのは狙い手が吹雪に視線を塞がれたか、それとも——。
彼女は息を整え、一歩踏み出して頭を下げた。
「いきなりの来訪、お詫びの言葉もございません」
アルノートは答えない。足を止め、リゼリアから二歩の距離で見下ろす。城門の内側に、兵士たちが居並び、誰一人として息をしていないように見えた。
「魔女か」
声は変化しない。雪の白が肌に貼り付く。
「それとも狂人か、ヴェルンハルトの令嬢」
リゼリアは顔を上げた。
「どちらと仰っていただいても構いません。ただ、三日月後に確認できます」
「未来を知るとは、そうは思えんがな」
「香りでわかります。この先の吹雪が一度止む夜、異様な甘さが城下にも届く。ご存じのはずです。お身体の底が冷える夜は、瘴気に近づいた晩ではありませんか」
アルノートの眼光が、初めて動いた。わずかに細められる。
リゼリアは一歩踏み込んだ。肩の打撲が熱を持つ。彼の前で止まり、声を落とす。
「閣下。あなたの左胸を走る氷の疼きは、月が欠ける夜ほど強まる」
雪を噛む静寂。
「そして、あなたは私が何者かを疑いながらも、私の言葉を門前で捨てることができない。なぜなら北の結界はもう、三か月も保たない場所が三つある。違いますか」
兵士たちの空気が変わった。だが誰も動けない。アルノートは片手を上げた。それだけで、槍の穂先が再び下がる。彼は左胸へ一瞬手をやりかけて、やめる。
「中へ入れ」
「閣下——」
「門前で話す内容ではない。それ以上叫ぶなら舌を置いていけ」
リゼリアは首を振った。
「置いていく理由がありません。私の舌は、あなたにまだ必要な情報を握っています」
彼は背を向けた。裾が雪を払う。
「詰所で検分する。歩けるな」
「馬を射ったのは、そちらの方ですか」
リゼリアはその後ろ姿に言った。アルノートは振り返らずに答える。
「違う。だが北の関所を破った者への矢としては、安い」
「でしょうね」
彼女は倒れた馬を一瞥した。黒馬はもう動かない。雪が流れ落ちて、矢が風に震えている。あの矢をこのままにはできない。
「あの矢を、回収してください」
アルノートの足が止まる。
「自分の馬に刺さった矢を調べたい理由は」
「私を城門の前で殺すには、直線も、頃合いも良すぎた。あなたではなく、私がここへ来ることを知っていた誰かの矢です」
振り返った氷の男と、目が合った。
「証拠として、凍った矢羽根を確認したい」
アルノートが顎をしゃくる。門衛が二人、馬の死体へ走る。リゼリアは、もう動かない相棒の鼻先を一瞬だけ見た。口の中で、雪が溶ける。目を閉じて歩き出すほかなかった。
詰所は、城門の外郭に張り付いた石造りの一室だった。暖炉は灰を被り、窓は木枠が凍り付いている。窓外では雪が横殴りに音を立てた。
壁に沿って並んだ古い槍先が、蝋引きの布を被せられている。リゼリアは入り口から三歩の椅子を勧められ、腰を下ろす。体が温まる気配はない。外と変わらぬ寒気が石床から足を刺した。
真向かいに、アルノートが座る。長剣を抜き、卓の上へ横たえた。薪を割る音が外で響く。第五詰所が静かに閉ざされていく。
兵士が二人、部屋の中ではなく外に控えた。
「お前の馬を射た矢だ」
布袋を押し出される。油紙に包まれた矢を、アルノートが片手で持ち上げる。凍った矢尻が篝火の揺れを一瞬照り返した。
リゼリアは卓の上で手を組んだ。指先の痺れを押すように、親指の腹を指輪の黒石へ当てる。
「氷が剥がれるまで、火に近づけずに」
「承知している」
アルノートは矢を剥き出しのまま卓上へ置いた。鏃は半月形。毒矢に使うというより、射抜いてから折るための逆棘が見える。矢羽根は凍り付き、一片の白い封蝋のようなものが張り付いていた。
リゼリアは自分の左肩を押さえた。馬の血ではない。彼女自身の肉が、鎧越しに熱を発している。
「その封蠟は教会のものではないでしょうね」
アルノートが片眉を動かした。それで十分な返答だった。
「王都のどこでお前はこの景色を知った」
「どこでも。私は地図を記憶する能力だけが取り柄でして」
「黙った方がいいぞ、この状況では」
リゼリアは小さく唇を開く。
「閣下。黙る自由は、王都で処分される女にはございません。ですが、お気に障るなら質問の形でどうぞ」
アルノートは背もたれに寄りかかった。剣の柄へ片手を置いたまま、リゼリアを見る。
「何をしに北へ来た」
「ヴェルンハルトの名と、今日の私を、取引するために」
「取引? 公爵家の令嬢が、馬一頭と傷一つでか」
「ええ。持ち込める物がこれしかなかったのです」
彼の指が剣の柄をなぞる。その音だけが、部屋の寒気に薄く響いた。
「瘴気孔の先はどこへ抜ける」
「北の結界の東端、氷洞窟の西脇を抜け、ウルム川の上流へ下る形で広がります。最初は三日月後に一か所。次に満月の夜、今度は人が住む沢沿いへ」
「何故、俺がそれを信じる」
「信じなくて結構です。ただ、私は三日月後までここか、国境のどこかに留まらなければ、予言の検証もできません。あなたからすれば不愉快でしょう。ですが、二の矢が来る前に、まずご自分の結界の歪みを調べるべきだ」
アルノートは答えない。
時間が壁に刺さったように過ぎる。窓枠が吹雪で叩かれた。詰所の床に、馬の血を洗い流した水が流れ込み、入口で薄く凍る。
「私を追い返せば、三か月で北の結界ごと、この城が魔物に呑まれます」
リゼリアの声だけが、熱を失わずに部屋へ落ちた。
アルノートはゆっくりと背もたれに体重を預けた。手は剣の柄を軽く握り直す。骨の浮いた指先が、青く透けて見えた。
「今夜は詰所の隣で寝ろ。明日、城下へ同行させろ」
「——検分はお決まりになったのですか」
「お前を信じたわけではない」
彼は天井を見ず、燃え残りの灰へ目を落とした。
「馬を射た矢の持ち主と、瘴気孔の話が別なら、お前はそこで殺せば済む。同じなら、生かす価値がある」
リゼリアは深く息を吐いた。肩が痛むが、口元はほんの少しだけ緩む。
「ご命令に従います。あなたの判断は早い」
「薄い笑みでごまかすな」
「ごまかされてください。今はそれで十分ですから」
リゼリアは左肩をかばいながら立ち上がる。アルノートの指が剣の上で静止した。追い返さない。それは彼女が彼に残せる、最初の爪痕だった。
吹雪が窓を、石を、城門の鉄格子を揺らす。
リゼリアはこめかみに触れた。灼痕はもう熱くなかった。