断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第2話 氷壁の向こうの毒
詰所の床に残った馬の血は、拭き取られた跡だけが黒く凍っていた。リゼリアが肩をかばって立ち上がると、護衛の一人が扉の外で剣の柄を握り直す。アルノートは彼女に背を向け、灰の積もった炉をまたいだ。
「立てるなら来い」
リゼリアは壁から離れた。左肩の痛みは歩くたびに鎖骨の下へ響いたが、足は止めない。
「最初の確認地点はお決まりですか」
「第一謁見室だ」
「外縁の堀沿いの方が早うございます。瘴気孔の前兆は、雪の下で腐土と澱んだ水が熱を持ち、堀の氷に半円のひびが入ります。そこから炭焼き小屋の西へ抜ける道を押さえれば、夜明けまでに最初の歪みが見つかります」
アルノートが振り返った。無色の目がリゼリアの顔を滑る。
「なぜ堀だと即答できる」
「発生源の特徴は土地の記憶に残ります。北西林道へ入る手前、外縁の堀が一番浅くなる渡り石のそばです」
アルノートは答えず、廊下へ出た。リゼリアは半歩遅れて続く。後ろから鎧の音が二人分、等間隔に追ってくる。
第一謁見室は天井が高く、壁に掛けた北の紋章旗が吹き込む風で痩せた音を立てた。長机には地図の重しが置かれ、銀の燭台が一本だけ火を落としている。アルノートは机の北端へ立ち、外縁の堀を示す一帯を指で叩いた。
「ここに何かが出るまで、俺がお前を城下へ出す理由はない」
「ごもっともです。ですが、その理由は今から作れます」
リゼリアは机から一歩下がり、右手を袖の内へ引いた。護衛が前に出る。アルノートが片手を上げて制した。
「私が外に出れば、矢を放った者が二射目を狙いやすくなる。閣下は犯人を引き出し、私は前兆を確認できる。どちらも待っていては得られません」
「お前を餌にしろと」
「ええ。ただし殺させるおつもりはないのでしょう」
アルノートは燭台の火を背にした。顔の半分が陰へ落ち、残りが青白く浮かぶ。
「その物言いが癇に障る」
「申し訳ございません。本当は死ぬ気はないのです」
彼は剣の柄から指を離し、窓を指した。
「日が出る。出立は今だ」
豪雪が一瞬弱まり、城門の向こうで雪煙が薄れて見えた。リゼリアはすぐに廊下へ向かう。護衛の一人が走り出し、門衛へ出立を告げる声が闇に沈んでいく。
北の城下町は、雪に埋もれた屋根が明け前の青さで浮かんでいた。外縁の堀沿いに出ると、アルノートが先頭を歩き、リゼリアがその右後方、護衛が前後に分散して進む。堀の水は氷の下で黒く眠り、風がやむたびに靴底と雪の音だけが残った。
「渡り石はこの先です」とリゼリアが息を白くした。
頷くより先に、アルノートが足を止める。堀の縁に積もった雪の一角が不自然に窪み、氷の表面を斜めに横切る裂け目があった。リゼリアが近付こうとした、その時だ。
空気を裂く音が、屋根の影の向こうから届く。
リゼリアは反応する間もなく、背中へ向かう殺気に膝を折った。アルノートが半身で振り向き、抜刀。矢は彼女の三歩手前で白刃に砕け、欠片が雪を跳ねて散った。
「動くな」
リゼリアは雪に手をついたまま頭を下げる。第二の矢が、今度は低い位置を狙った。アルノートが左手を雪面へ突くと、氷が一瞬で立ち上がり、矢を内側から噛んで止める。厚い氷壁がリゼリアと狙撃者の間に回り込んだ。
護衛の二人が走る。石造りの物置小屋の陰から、白い外套の男が半身を出して弓を捨てた。短刀を抜くまでに、アルノートの氷は男の足元を這い、靴の底ごと氷柱に縫いつけた。
「外すな、蹴り折ってもいいぞ」
護衛が組み伏せる。男の外套の襟から封蝋の欠片が落ち、リゼリアの足元まで雪を滑ってきた。彼女は拾わずに一歩下がる。
「毒です」と短く言った。
倒れた矢の一本を、アルノートが鞘の先で起こす。穂先は油を塗った布に包まれ、布の端だけが雪に触れると黄色く溶けた。リゼリアは袖の布を裂き、腰を下ろして刃から零れる液を拭き取った。
「こちらを」
布袋は持たない。彼女は自分の裂いた布で穂先を押さえたまま、護衛へ差し出した。
「次からは毒矢の回収は要りません。教会派の追手なら二本目に聖水と痺れ薬を塗ります。私より王都の使者を狙われた方が、北は揺れますよ」
アルノートは剣を収めた。氷壁が少しずつ崩れ、動けない男の膝まで砕けた。男は息を荒らげたまま顔を上げる。
「白夜の……殉教者に、光あれ」
リゼリアは彼へ歩み寄らず、護衛の後ろから顔を覗き込む。
「その者に聞けるのは一人だけです。矢が届いた場所は、あなたの情報では遅すぎる」
アルノートが顎で示す。護衛は男の腕を後ろで丸め、外套の上から逆手に縛った。
「城へ戻り、詰所で尋問しろ。矢は袋へ入れて東の塔へ運べ」
「心得た」
リゼリアは立ち上がり、今度こそ堀の裂け目へ近付いた。氷の下で底だけが温かい。雪を払うと、腐土の甘い匂いが薄く昇った。
「間違いありません。三日月後が早まるかもしれません」
「城へ戻る」
「ええ、ですがその前に一つ。この裂け目に焼けた石を落とせば、瘴気の出先が変わります。確認にはなりますが、罠を張るには都合がいい」
アルノートは振り返らなかった。氷の破片を蹴散らしながら西門の方角へ歩き出す。リゼリアは従う。石を投げる暇は与えられなかったが、足元の熱が彼女の読み違いではない事実として残った。
しゅっせつ
翌朝、リゼリアは東の塔へ続く螺旋階段を昇っていた。夜のうちに届けられた矢と刺客の身柄は、すでに詰所と薬室でそれぞれ扱いが決まっている。彼女はアルノートの半歩後ろを歩きながら、冷え切った石壁に手のひらを当てた。城の空気はまだ夜の冷気を溜め込み、指先から鼓動のたびに冷たさが沁みてくる。
薬室へ踏み込んだ瞬間、乾いた薬草と酒精の匂いが鼻の奥を刺した。
リゼリアは左肩をかばうように腕を抱え、壁際の衝立の前へ立つ。アルノートは入口の横で、剣の柄に片手をかけたまま無言だった。
卓の向こうで、白髪交じりの女が布袋を開ける。マルタ・ハインツ。城付きの薬師だ。細い銀の匙で矢尻の溝をなぞり、黒く固まった滓を小皿へ剥がしていく。
「矢尻だけを湯へ浸けます。毒を炙るより早い」
彼女は小皿を火皿へ近づけた。熱気で滓がほぐれ、青白い油膜が湯面へ広がる。甘ったるい腐臭が一瞬、薬草の香りを貫いた。
リゼリアは喉の奥が締まるのを感じた。腐った百合と焦げた蜜とよく似た濃度の、もっと湿った臭いだ。
アルノートが一歩、卓へ寄る。
「何だ、この油は」
「燈心草の香油を煎じ詰めたものです。ただし並みの教会では扱えません。高位の聖具係が清めの札へ染ませる級の純粋油からしか取れない濃度です」
「毒として使えば」
「血に入れば半刻で目眩と四肢の麻痺。二日目から熱が下がらず、五日目には心臓が止まる」
マルタは平らな声で言うと、小皿から硝子瓶へ毒液を流し入れた。蝋を溶かして栓を封じ、名札を結びつける。
「解毒は?」
リゼリアの問いに、彼女は白い戸棚から濃緑の粉と澄んだ液を取り出す。
「毒の進行を抑える薬は今、三袋ぶんを練りました。ただし確実な解毒方針を組むには、あと二日、蒸発した油の質を追わねば足りません。それでも半日以内なら、発作の前には間に合うでしょう」
アルノートは硝子瓶へ視線を落とした。
「弓兵の死体から奪った矢を、教会の油で塗る理由は」
「理由ではなく手口です。閣下の領内で、猟師がこの油を手にするには届出と聖印が要る。届け出ず使える者を考えれば、教会派の高位聖具係か、その油を卸せる商人まで遡るしかない」
マルタは薬研へ袋を戻し、瓶をアルノートの方へ押し出した。彼は受け取らない。代わりに、指先で瓶の首を軽く叩く。硝子の表面に白い霜が薄く走る。
「王都へ送れば、この女は死ぬだけでなく、毒の出所も消えるか」
「送らなくても死にはしません。私を刺すつもりで飛んできたのではなく、閣下の領内で何者かが動いた証拠を始末するための矢でしたから」
「証拠か。お前は初夜から随分と買い被られたものだ」
「ええ。ですが捕まった今、矢を王都の教会へ繋がれるのは不味い者にとって都合が悪い。ですから王都へ返せば、移送の途中で必ず消えます」
リゼリアは彼の目を見た。青というより無色に近い虹彩が、薬室の灯りを弾いて細まる。
「そこで死ぬのは私だけではありません。この矢が過去の物になるだけで、北の結界の穴も、襲撃の主も、あなたが掴むはずの物証も、まとめて灰になる」
マルタが薬室の奥へ下がり、書付へ毒の成分と経過を記す。羽根の音だけが部屋にこそげた。
「お前が死ななけりゃ、物証は生きるのか」
「生きている私が、物証です。検分へ連れて行けば、瘴気孔の予言は確かめられる。私が辺境伯夫人として城内に留まる限り、矢の持ち主は次の下手を打つか、沈黙して教会の油を一本失うか、選ばされることになる」
アルノートは瓶から手を離した。青白い霜が、指先の熱で水滴へ変わる。唇が一度だけ、閉じたまま薄く強張る。
「執務室へ入れ」
「毒の解析は」
マルタが振り向かぬまま答えた。
「私がこの場で徹底します。矢と瓶は二重に封じて、今宵は私の手元で保管いたします」
リゼリアは微かに頷く。肩の痛みを押し込め、彼の背を追った。
執務室は壁一面の棚に古い地図と蝋印が並び、暖炉の火は落ちかけていた。夜明け前の冷気が窓の桟を白くふくらませている。
アルノートは長卓の角へ手を置き、背を向けた。
「婚姻条件を聞こう」
「二つです。血の誓約書を交わすこと。もう一つは、契約から一か月、私の城外への追放と、私の身柄を王都の使者や教会へ引き渡すことを禁じる条項を入れること」
「血の誓約書は婚姻契約の最上位だ。破棄には一月の猶予も、審問廷の取りなしも効かぬ。それを公爵家の落ち延び女と交わす利を、俺がどこで得る」
彼の右の指先が、長卓の縁で一度だけ白くにじんだ。袖へ隠れるように、無意識の仕種で左手へ触れる。
リゼリアは彼の斜め後ろへ歩み寄る。霜の気配が肌へ刺さり、息が浅くなった。
「利は、いまご自分で触れた場所にございます」
アルノートの指が止まる。
「境界の歪みを祝うのではなく、呪いの進行を遅らせる値を、私は持っています」
「根拠を示せ」
「指先を。マルタに目視の確認を頼みます」
リゼリアは振り返り、入口の影へ立っていたマルタへ頷く。彼女は明かり皿を手に卓へ近づいた。
リゼリアは、ためらう指を閉じて、アルノートの左手を取った。氷に触れた痛みが、まず手の腹を刺す。
熱が逃げていく。奪われる感覚が腕の芯を冷やし、胸の中まで白く鳴った。
それでも指を重ねたまま、彼の凍りかけた指先を掌へ包む。彼の温度が消えた場所へ、こちらの温度を流し込む。
アルノートは動かなかった。
マルタが小さく息を呑み、灯り皿を近づける。青白く広がっていた氷斑が、境目から先へ進まない。彼女は数秒、凝視してから声を落とした。
「半指ほど、戻りました。いえ、…待ってください。拡大が止まっています。この数瞬だけで、新たな結晶は生じていません」
「測りとれ」
「目視であれば、二十分の一節ほど血の色が戻っています。呪いの遅延として観察材料に足る変化です」
リゼリアは手を開いた。離した途端、指先から力が抜けて、小さく痺れが走る。
「これが私の価値です。体温です」
掌に残る氷の感触を握り直す。痛みが逆流するようで、背中に汗が滲んだ。
アルノートは自分の左手を見下ろした。氷斑は、触れられる前と同じ場所に留まっている。彼は卓の書類棚から、黒い革表紙の誓約書を引き出した。
「血の誓約書を、お前と交わせば、王都はどう出る」
「閣下は王都へ既成事実だけを送れば良い。辺境伯夫人が決まった、と。その後の使者には、私が応じてはなりません。血の誓約書が破棄不能なうちは、婚姻を不徳と断じさせないことが要ります」
「一か月で何をする気だ」
「証人と証拠を揃えます。まず三日月後の瘴気孔を塞がせ、北の結界の穴を二か所、最低でも塞ぐ材料を集める。それだけできれば、私を火刑へ引き渡して失う物の方が多いと、王都も計算を改めます」
アルノートは誓約書を開いた。月の光に似た青い罫線が、宵闇の中でぼんやり浮かぶ。
「婚姻の形だけか」
「ええ。寝室は要りません。互いの利害が一致するなら、それで契約は回ります。触れ合うのは呪いを止める必要のある時だけ。どうぞ、夜伽の心配はなさらないでください」
「そんな言い方をする女は、王都にも北にもいない」
「王都は私を女として数えませんから」
アルノートは長卓の向こうから真新しい羽根筆を差し出した。
「破棄の条件を聞く」
「先ほども申し上げました。一月の破棄は不可能です。一月を過ぎても、真名を書いた限り、破棄には二人の合意と聖印が必要になる。私から一度でも『城を捨てて逃げた』と取れる行為があれば、この誓約書ではなく呪いと瘴気が私を処理します」
「一度目で嫁が逃げた場合が抜けているぞ」
「逃げる先がございません。これが私の持つ全てですから」
アルノートは黙って、窓の外へ目をやる。結界の薄明かりが雪雲の裏で鈍く明滅していた。
「互いの真名を書け」
彼は卓上に左の手袋を外した。リゼリアも右手の黒い指輪を一度だけ確かめ、自分の指で羽根筆を持ち直す。
誓約書の該当欄へ、彼女は真名を書いた。文字が青白い炎のように立ち上がり、紙へ焼き刻まれていく。アルノートも続いた。
彼の字は、氷を走る亀裂のように鋭く直線的だった。
両の名前が交わる位置で光が跳ね、紙面全体へ銀の血管状の紋様が広がる。リゼリアは血の一滴を押し当て、彼も傷つけた指を契約の中央へ押し当てた。
冷たい光が一瞬、部屋の隅々を洗う。
マルタが封印確認欄へ署名し、青い封蝋を垂らした。彼女の手が震えていないのは、長年の薬師としての修練のためか。
「誓約書の原本は、私が保管させていただきます」
アルノートは短く頷いた。
「王都へは、辺境伯夫人として名と了承のみを送る。余計な文面は作らせるな」
リゼリアは彼の顔を見つめた。膝を折らない。床へ貼りつくような冷気を、足の裏から跳ね返すように背筋を伸ばす。
誓約書の青い光が、まだ彼の左掌と彼女の右手を細い糸のように結んでいる。
「王都には渡さない」
アルノートの声は、氷に刻むようでいて、ひどく静かだった。
リゼリアは視線を返す。
「ありがとうございます、とは申しません。私の一か月は、まだ何の盾にもなっていませんから」
「望むところだ」
誓約書の光が、再び夜明け前の闇へ吸われるように落ちていく。リゼリアの心臓は、初めて、十年の裡で誰にも聞かれぬ刻みを早めた。