断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える
第3話 王都の召喚状
リゼリアは、まだ青く残る誓約書の光が消える前に口を開いた。
「婚姻公告は、今すぐ発送なさるべきです。北の諸領主には氷の血印入りの写しを、王都へは私の名と了承のみを」
アルノートは封蝋の溶け具合を指先で確かめながら、顔を上げた。
「朝を待てぬ理由は」
「誓約書が成立した事実は、王都がまだ知らぬ間に広める価値があります。使者が来てからでは、対応ではなく後手です」
彼は手袋をはめ直し、卓上の小鈴を一度鳴らした。脇戸から入ってきた書記官に、短く命じる。
「公告文を作れ。辺境伯夫人として、王都へは二名の返書。北の諸領主には氷の血印を押した写しを送る」
書記官が一礼して下がる。リゼリアは深呼吸を一つした。胸の奥で、十年ぶりの昂りが鋭く澄んでいく。
マルタが革筒を差し出した。
「認証写しです。原本と同じく、血の誓約の紋様が浮き出ております」
リゼリアは両手で受け取った。筒の留め金に指をかけると、青白い光の名残が指先をほんの少し冷やした。
「この先、城を出る際は必ずお持ちください。辺境伯夫人としての身分証になります」
「肝に銘じます」
彼女は革筒を上着の内側へ滑り込ませた。心臓の早さを外套の厚みごと押さえつけるように、左手の平を胸元へ添える。
アルノートは窓際へ歩み、夜明け前の雪雲を背に立った。
「休め。次は朝になる」
婚姻公告を積んだ騎馬が正門を出たのは、夜が白み始めた頃だった。
リゼリアは支度を整え、執務室の長卓で公告文の控えを検めていた。そこへ、城門の鐘が一度、鋭く空気を割る。
続けて二度。三度。
彼女は顔を上げた。書記官が走り込んでくるより早く、アルノートが立ち上がっている。
「誰だ」
「王都紋章の馬車です。使者グレゴール・ヴィンデルと名乗っております。従騎士二名、聖印持ち一名を連れて北門に」
リゼリアは控えを卓へ戻した。指先がわずかに汗ばんでいる。恐れではない。来るべきものが、予定より少し早く来た。
「正門前へ」
アルノートの声に、彼女は頷いた。
正門前の雪は踏み固められ、まだ朝の冷たさを保っていた。王都紋章を掲げた馬車の車輪が、雪混じりの土を深くえぐっている。
グレゴール・ヴィンデルは、黒い毛皮の襟を立てた外套を翻し、二人を見るなり一歩踏み出した。痩せた長身で、左手に革巻きの文筒を握っている。
「アルノート・ヴァルデック辺境伯、およびリゼリア・フォン・ヴェルンハルトに、王太子殿下の名をもって召喚状を届ける」
彼は文筒から巻文を引き抜いた。聖印の赤い封蝋だけが残り、封はすでに切れている。リゼリアは膝を折らなかった。
「リゼリア・フォン・ヴェルンハルトと申します。まず、その召喚状の写しと、判断の根拠を確認させてください」
グレゴールの眉がわずかに動いた。
「跪かぬな」
「王都の法衣裁判で裁かれる覚えはございません。辺境伯夫人として、この城の主の隣に立っております」
彼は手の巻文を半ばまで開き、声を張り上げた。
「ヴェルンハルト公爵家長女リゼリアは、聖女セレスティーヌの証言により、王宮への反逆と聖物破壊の嫌疑を受けた。王都にて法衣裁判に応じよ」
リゼリアは背筋を伸ばしたまま、右の手をアルノートの脇へ軽く上げた。制する合図に近い。
「反逆罪の審理には、公開裁判と、真実の塩に誓った成人証人三名が必要です。三人の名をお示しください」
「聖女の証言が一人で貴族一名より重いことは、お前も知っているはずだ」
「存じております。ですが、反逆罪に聖断だけを冠せるなら、辺境伯の婚姻契約者として封蝋が届く前にこの場で審理が始まる理屈になります」
グレゴールは一瞬、押し黙った。手にした巻文を握り直し、声を低くする。
「その婚姻は、王都の許しを得ていない」
「北の法では、氷の血印が先にございます。王都へは今朝、公告を発送しました」
彼女の声は落ち着いていたが、外套の下で左の拳を握りしめていた。アルノートが半歩前へ出た。
「辺境伯はこの結婚を認めている。王都が召喚できるのは、法の条件を満たした公判への出頭だけだ。条件を示せ」
グレゴールは従騎士の一人から別の巻文を受け取った。聖断書だ。金糸の飾り紐が風に揺れる。
「これは殿下の聖断書だ。ただし、お前たちの言い分を調書へ残す権利は認めよう。書記官を出せ」
リゼリアは従騎士でも聖印持ちでもなく、城の門衛に目を向けた。
「城付きの調書官と、床几を」
ややあって、古参の調書官が板挟みと羽根筆を抱えて走ってくる。彼女は床几へ置かれた調書に、自ら指先で罫線の位置を確かめた。
「異議を申し立てます。第一に、公開裁判の指定なしに私を王都へ連行することは辺境伯家への司法干渉にあたると考えます。第二に、真実の塩に誓った成人証人三名を明示せぬ告発は、法の手続きに欠けております」
調書官が書き留める。グレゴールは鼻から息を吐き、聖断書の写しと召喚状を彼女へ突き出した。
「写しを渡す。ルイス・フォン・ヴェルンハルトは、姉の出頭を促すため王都の館で軟禁中だ。出頭が遅れれば、弟君の待遇が変わるかもしれぬ」
リゼリアの指が巻文を受け取る寸前で止まった。雪の粒が、まつ毛のあいだへ落ちて溶ける。
「弟が何をしたとおっしゃるのです」
「王太子殿下への請願を無断で繰り返した。それだけだ」
彼女は召喚状と聖断書の写しを受け取った。紙は冷え切っていた。ルイスが王都で動いた。無断で繰り返した、ということは、閉じ込められながらも姉を庇うために手を尽くしたのだ。リゼリアは唇を引き結ぶ。感情で声を濁らせる代わりに、受け取った巻文を畳み直す。指先が、写しの折り目をきつく押さえた。
「この調書の写しもいただきます。署名した上で、私と辺境伯が内容を確認した証を残したい」
グレゴールはやや遅れて頷いた。
「異議は受理されるかは王都が決める。俺は、お前が来るか来ぬかの返事を待つ」
アルノートは門衛の一人へ短く指示した。
「使者一行を城の客室へ案内しろ。武装は解かずとも、城門の外には出させるな。客室の火は焚け」
グレゴールは一礼もせず、従騎士を連れて城門をくぐる。リゼリアはその後ろ姿を、巻文を抱いたまま見送った。
調書官が丁寧に写しを作り、彼女の署名欄へ羽根筆を差し出す。彼女は雪除けの台の隅で、自分の真名を記した。隣にはアルノートが、氷の血印を一つ押す。
「弟は、私の出頭を促すために軟禁されている。王都は、私を一人で獲りに来たのではなく、北の客を人質に変えたのです」
アルノートは門扉の向こう、客室へ続く廊下の影へ目を投げた。彼の左手袋が、結界の薄明かりを受けて青白く浮かぶ。
「使者がここに留まる限り、北の結界も私の婚姻も王都の手に渡したことになるか」
「いいえ。ここに泊める以上、殿下の名は北の客として記録されます。婚姻公告の発送が間に合った以上、王都はこの城の女主人を勝手に連行できません」
彼は低く、しかし明瞭に言った。
「その間に氷洞窟を調べる。この結婚の重みを、北の結界まで届かせろ」
リゼリアは抱えていた巻文を上着の内側へ、あの革筒の隣へ収めた。心臓はまだ速い。けれど、手の震えはなかった。
「ええ。証人を一人でも増やし、王都の召喚に満ちる穴を探しましょう」
その夜のうちにアルノートは書簡室の使用を許可し、翌朝、マルタが鍵を開けてくれた。リゼリアは眠れぬまま夜を明かしたが、朝の冷たい空気が廊下に満ちるころには、考えるべきことが紙の上でいくつも輪郭を持ち始めていた。
書簡室は昼下がりの光を窓の高い位置から斜めに受け、壁面の棚が細長い影を床へ落としていた。リゼリアは長机の手前に立ち、広げた二枚の紙と小さな銀の徽章を順に見る。マルタが机の反対側から銅製の拡大鏡を差し出した。
「こちらを使え。文字が小さい」
「助かります」
リゼリアは召喚状の写しを先に引き寄せる。王太子の印が捺された紙面は、彼女の名を「逃亡中の公爵家長女」と記し、出頭なければ反逆罪として扱うと簡潔に脅していた。署名は王宮の筆頭書記官。ユリウスの直筆はない。
「直筆を避けています」
「出頭強制の痕跡を残したくないのでしょう。王太子殿下ご自身が令嬢を罪人扱いした記録になれば、後々取り返しがつきませんから」
ルイスの学園徽章を拡大鏡の下へ置く。楕円の銀板は馬蹄と書物をあしらった王都学園の紋章で、縁に細かい傷がいくつも走っていた。彼女は裏側へ指を滑らせ、走り書きを光に透かす。
「姉上、くれぐれも北へ。僕は大丈夫。待っていてください」
字は右端へ詰まり、最後の「ください」が左へ折り返していた。筆圧は均一で、急ぎながらも文字の形が崩れない。リゼリアは紙の位置をそらさず、徽章の縁をなぞる。金属のへこみが指へ食い込むようだった。
「間違いなく弟の字です。それも、事情を隠すよう命じられて書いた字だ。奴らが読みやすいよう、子供向けの簡素な書体に揃えている」
マルタが徽章を覗き込む。
「命令されて書いた字、か。言われてみれば角が丸すぎる。これを人質の自筆証拠として使うには、逆に不自然に映るかもしれぬな」
「そう。だからこそ私はこの走り書きが脅迫ではなく、弟の善意で書かれた証拠として残す。王都へ戻ったあと、この角の丸みを学園の筆跡係に証言させます」
リゼリアは写しを一枚ずつ重ね、油紙の折り目へはさむ。マルタが手早く蜜蝋を含ませた布を徽章に触れさせ、指紋を残さぬ形で麻布の小袋へ戻した。
「この徽章はお前が持て。常に持ち歩けよ」
「はい。アルノート様には、認証写しだけお預けします。血の誓約書の写しは後で執務室へ」
マルタが棚の方を見る。書簡室の奥扉が開き、下級の文官が一人、青い封蝋の通信筒を両手で掲げて入ってくる。
「辺境伯より、偵察兵を南の街道へ二名出したとの報告です。王都の続報は騎士団宿営地経由で北へ届ける手はずだそうです」
リゼリアは文官の顔をちらりと見て、視線を戻す。
「私は何を待ちますか」
「しばし猶予をいただく。街道は昨日の毒矢の件で検問が厚くなっている。偵察兵にはカルツと、馬を捨てて単騎で戻れる者を選んだ」
このカルツという名は初めて聞いた。リゼリアはそれ以上追わず、机上の油紙包みを手元へ寄せた。彼女自身が持って動く実感が、焦りをひとまず先へ押しやる。
日が沈み、城内の見張りが二度替わったあと、リゼリアは執務室への廊下を歩いていた。窓硝子の向こうで雪が小粒になり、幾筋も下から吹き上げられている。叩きつける風音を背に、彼女は直前にマルタから渡された結界監視盤の写しを脇へ抱えていた。
執務室ではグレゴール・ヴィンデルが炉の近くに立ち、手袋を外したりはめ直したりしている。アルノートは机の前で腕を組み、入り口を背にしていた。リゼリアの足音が止まると、彼が肩越しに見る。
「来たか」
「遅くなりました。書簡室で弟の筆跡を確認してまいりました。王太子の召喚状も検分済みです」
グレゴールが半歩踏み込む。
「では出立の用意を。我々は明朝にも王都へ発つべきだ。王太子殿下はリゼリア嬢が素直に出頭すれば、弟君の待遇を和らげるおつもりだ」
アルノートは動かない。炉の火が彼の銀髪を一瞬だけ橙にしたが、傍らのグレゴールへは視線をやらない。
リゼリアはグレゴールの顔を正面から見据えた。
「その待遇の定義を、文書でいただいていません。聖女様の癒やしを、弟への温情という形で条件に差し込まれた。人質交換の文言が消えるまでは、私の足は北の地面を離せません」
その瞬間、廊下が荒い靴音で揺れた。伝令兵が入り口の脇に片膝をつき、息を整える。
「結界監視塔より、異常波形の報せです。北部の針が一柱、東側へ大きく振れました」
執務室の誰もが伝令兵を見た。アルノートが顎を引く。
「続けろ」
「監視塔の当直長が、これは自然の脈動ではないと。方位は氷洞窟方面、深部から浅部へ逆流を繰り返しているようです」
マルタが机の角に結界監視盤の原版を置き、盤面へ白墨で細い弧を引いた。針の軌跡は北東へ大きく歪み、氷洞窟の方向で幾度も小さく折れている。彼女は写しを羊皮紙の日誌へ押さえ、日付と観測時刻を規則どおりに記す。
「これは単なる嵐の影響では出ません。脈動の間隔が規則的すぎる。人の手で刻まれた霊脈干渉の可能性が高い」
「氷洞窟方面に、か」
アルノートの声が低く、部屋の隅に沈む。彼は数秒だけ盤面を睨み、それから壁に掛けた北の地図へ歩み寄った。
グレゴールがようやく口を開く。
「その程度の揺れで王都出立を止めるおつもりか。結界の不調は北方の常だ。私の任務には何ら変わりがない」
リゼリアは彼へ半身を向けた。声に皮肉を帯びさせないまま、静かに通す。
「変わりはなくても、順序は変わります。王都は私を反逆者として断じたいのでしょう。けれど今、北の結界が人為干渉を受けた兆候がある。これを放置して出立したと明日の裁判で私が口にすれば、北の諸領主は王都教会をどう見るでしょうか」
グレゴールは答えない。彼の唇が薄く開き、また閉じた。
アルノートが地図から振り返る。
「明朝、氷洞窟を検める。マルタ、観察記録と装備をまとめろ。リゼリアは同行する。グレゴール卿はその間、執務室で待て」
「私は王太子の使者だぞ。待機を命じられる理屈はない」
「北の異変は王都の安全にも関わる。卿が本当に任務を優先するなら、猶予に不服はないはずだ」
アルノートは机へ戻らず、入り口の閂の近くへ立った。リゼリアは一瞬、この距離では割って入れないと思い、しかし足を引かない。
グレゴールは膝の向きを変える。長く息を吐いて、炉の前の椅子へ深く座った。
「結構だ。ただし短時間だぞ。異変の報告は私が王都へ持ち帰る」
「好きに報告しろ。王宮の駒がそうするように」
夜の執務室へ、再び静寂が落ちる。暖炉の中で薪が崩れ、火の粉が鉄格子の裏に散った。リゼリアは結界監視盤の原版を指さないまま、その波の頂点を見つめ続けた。マルタが傍らで細い針を盤の中心に戻す。ちりん、と皿のふちに当たる音がして、彼女が深く息を整えた。
「氷洞窟へ向かうなら、夜明けの馬よりも先に足ごしらえが要る。岩塩の靴底と、外側を蝋で固めた外套を用意します」
「道中に障壁杭はありますか」
リゼリアの問いに、マルタは首を振った。
「表に出せる数は少ない。洞窟入り口までは馬で進み、そこからは松明を一本ずつ持つ形になる」
アルノートは盤面を一瞥して、呟く。声が吹雪の音で喰われないよう、彼の傍らに立つリゼリアにだけ聞こえる温度で。
「この揺れ、教会の封印式だ」