FeverStory

断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える

第4話 氷壁の証人

夜明け前の執務室は、燭台が一本だけ残っていた。机の上に置かれた結界監視盤の針が、東を指したまま微かに震えている。その震えは、まるで部屋の空気そのものが不安に怯えているかのようだった。リゼリアは立ち上がり際に短剣の重さを袖の内で確かめた。冷たい柄が手のひらに吸い付く。一睡もしていない体は鈍く、左肩の打撲が動くたびに熱を帯びた。壁際ではマルタが外套の襟を締め直し、小さく息を吐く。彼女の指先もまた、かすかに白くなっていた。

「馬は三頭、北の厩から出します。脚の速い山駒です」

マルタの声は低く、しかしはっきりとしていた。リゼリアは監視盤の針から目を離し、彼女を見る。頬の色が悪いのは、寒さと緊張のせいだけではない。

「王都の使者はどうする」

とリゼリアが問うと、マルタは一瞬だけ唇を引き結んだ。

「南の客室で起きていました。廊下に私の者が二人、見張っております」

アルノートは返事をしなかった。地図の脇から手甲を取り、左手にはめる。皮革の擦れる音が静かな部屋に響く。指先がかすかに白く霞んだ。それに気づいたリゼリアの視線へ背を向けるように、彼は炉の火を消した。赤い残り火が黒ずみ、細い煙が立ち上る。

「行くぞ」

短い声だった。リゼリアは短剣の位置をもう一度だけ確かめ、彼の背を追う。

廊下の石畳は冷えていた。足の裏から冷たさが這い上がる。壁に掛けた旗の裾が、扉を通るたびに揺れる。夜風がどこからか入り込み、旗の古い布地をささやかに鳴らした。リゼリアは隣を歩くアルノートへ声を潜めた。

「あの波形、教会の封印式なら、打ち込まれた場所は霊脈の狭い所のはず。氷洞窟のどこに心当たりが」

「知らん。だから行く」

彼の返事はぶっきらぼうだった。だが、その声には眠気も迷いもなかった。リゼリアは彼の横顔を盗み見る。青白い頬に、廊下の窓から差す雪明かりが落ちていた。

階段を下りる。外の雪明かりが窓から差し、彼の横顔を青白く浮かべた。石段の角がすり減っている。マルタが背後から追いつき、灯りのついた角燈を差し出す。灯りの中で、細かな雪の粒子が舞っていた。

「監視塔の兵が、洞窟入口から西の斜面で新しい崩落を確認しております。お二人で入るなら、私は観察記録を持って入口に待機を」

「そうしろ。ただし、中で何かあれば独自に動くな」

アルノートの声には有無を言わせぬ響きがあった。マルタはこくりと頷く。リゼリアは彼女の肩を軽く叩き、北門の小径へ足を向けた。

リゼリアは外套を押さえて北門の小径へ出た。夜気が喉を刺す。冷たい空気は刃のように鋭く、吐く息が白く凍った。馬の息が白く、厩番が近づいて手綱を渡す。馬の大きな瞳が暗闇の中で光っていた。リゼリアは手綱を受け取り、馬の首筋を軽く撫でる。体温が毛皮を通して伝わってきた。

「氷洞窟までどれほどかかりますか」

「駆ければ一刻とかかりません」

マルタの声を背に、リゼリアは鞍へ上がった。左肩の打撲が痛み、彼女は知らず顔をしかめる。アルノートもまた馬に乗る。彼の手は手綱を握るだけで、微かな霜が革の上に浮いていた。リゼリアは左肩の打撲が走るのを堪え、腹を締める。夜の闇が四方から迫っていた。

月のない空の下、三頭の馬が北へ駆けた。蹄が雪を蹴る音が、静かな大地に散る。風が耳元で唸り、頬を切る。松明の火は後方に流れ、道を照らす橙が揺れる。

森へ入ると、松明が一本だけになった。木々の間から、雪を被った枝が黒く浮かび上がる。洞窟入口の岩壁が近づくたび、馬の歩みが鈍る。リゼリアは耳を澄ませたが、風の音しかない。それでも彼女の背筋には、小さな警戒が走り続けていた。

「あの林道から西へ外れるわ」

「道の先は崖だ。降りる際は足元の氷を叩け」

アルノートの声は風に流されず、はっきりと彼女の耳に届いた。リゼリアは手綱を操り、林道を西へ外れる。雪が深く、馬の脚が沈む。

洞窟の入口は、積もった雪と凍った蔦で半ば塞がれていた。蔦は黒く縮れ、氷の中に封じ込められている。マルタが馬を降り、角燈で穴の奥を照らす。灯りが氷の壁に吸い込まれ、青白く反射した。リゼリアは岩の表面を撫でる。指先に残るのは、普通の冷たさではない。内側から脈打つような微弱な震えがあった。彼女は息を呑み、手を引っ込める。

アルノートが手をかざすと、入口の氷が音を立ててひび割れる。その音は砕けたガラスのようで、山鳴りにも似ていた。奥へ続く道が開いた。彼を先頭に、三人は洞窟の中へ。天井から下がる氷柱が松明の灯りを散らす。リゼリアは一度だけ振り返り、外の暗さを目に焼きつけた。

「この先の空気が甘い」

マルタが囁いた。リゼリアも知っている匂いだ。腐った百合と焦げた蜜。瘴気孔が開く場所に近い。しかし今はまだ、それは薄い。鼻の奥に絡みつくような不快さがかすかにあった。

「封印杭を探します。古代霊脈式は岩の裂け目に楔を打つ。おそらく西の支洞の奥」

リゼリアが言い終えると同時に、彼女の足が、滑る氷を踏んだ。体が一瞬傾ぐ。アルノートが片手を伸ばす。掴まえはしなかったが、その腕が行く手を遮った。リゼリアは彼の腕に掴まりそうになり、自分の足で踏みとどまる。

「急ぐな。お前の勘に付き合わせたんじゃない。確認できた事実だけで歩け」

「足りなければ、閣下の血で道を開くはずでは」

「血を安売りするな」

低い声が洞窟に反響した。マルタが二人の間で身を小さくする。リゼリアは一瞬口を閉じ、それから半歩だけ前へ出た。彼女の瞳は暗闇の中で光っていた。

「では、あの揺れをもう一度」

「何」とアルノートが振り返る。

「私の言葉ではなく、結界の乱れを道標にします。人が通った跡は、霊脈の弱い所ほど残る。氷に刻まれた設置痕を探しましょう」

彼女は角燈を岩の壁へ寄せた。灯りに浮かび上がる氷の表面に、細い線が縦に走っている。自然にできた裂け目ではない。楔で打ち込んだときに生じた放射状の傷が、うっすらと白く曇っていた。

アルノートが傷の前に立つ。その途端、洞窟の空気が鳴った。耳の奥を圧するような、低い唸り。

重い低音。天井の氷柱が一斉に震え、足元の氷が内側から盛り上がる。マルタが角燈を取り落とし、火が転がって消えた。闇が一気に濃くなり、リゼリアの心臓が跳ねる。

「下がれ」

アルノートの声が、鋭く響いた。しかし彼の体は動かない。左手を左胸に当て、口元から白い息を漏らした。その手が、みるみる氷に覆われていく。リゼリアは短剣を抜かずに駆け寄った。足元の氷が彼女の靴を捉えようと伸びてくる。

「閣下、左です。壁から離れてください」

彼を掴む。指先に針ほどの冷たさが突き刺さったが、構わなかった。アルノートの肩を引き、岩壁から体を剥がす。彼の手甲の下で氷が砕ける音がした。

「お前だけでも出ろ」

「出て、あなたを置いていけと」

「足を止めるな、氷が来る」

彼の周囲から、氷が波のように生えた。透明な刃が床を走り、足首を狙う。リゼリアはアルノートの腕を抱え、支洞の手前まで走る。マルタが「来ないで!」と叫ぶ。だが氷は止まらない。音を立てながら三人の足元を追い、やがて支洞と入口の間を塞いだ。圧迫された空気が、耳鳴りのように残る。

暗闇の中で、アルノートの吐く息だけが聞こえる。リゼリアは彼の胸元に手のひらを押し当てた。心臓の代わりに、氷の塊が脈打っている。その鼓動は遅く、重い。

「あなたの体温が下がっている。私の手を離さないで」

「離したら、お前が凍る」

「凍りません。まだ凍らせない」

彼の左手の氷が、リゼリアの手首へ白く絡みつく。しかしその先へ進まない。リゼリアは自らの額を彼の肩へ押しつけた。こめかみの灼痕が熱を持ち、化膿した過去の痛みが頭の奥で明滅する。それは焼けつくような痛みだったが、彼女は唇を噛んで耐えた。

「……効いている。氷が止まる」

アルノートが息を整えながら言った。声が僅かに掠れている。リゼリアは指先を彼の手のひらへ滑らせ、握り直した。彼の指が、かすかに動く。

「見つけた。これよ、閣下」

氷が止まった床の先、岩の裂け目から、黒い木の杭が突き出ていた。長さは大人の腕ほど。表面には銀の細工が巻かれ、頭部に刻まれた古い教会の封式紋が松明の残り火に鈍く光る。その光は、見る者を誘うような不気味さを帯びていた。

「王都の聖堂で使う、霊脈封じの楔」

「触るな。返り血を吸う代物だ」

アルノートは片膝をつき、拳で床の氷を砕いた。拳が氷にめり込むたび、白い破片が飛ぶ。杭の周囲から、黒い染みが根のように広がっている。リゼリアは袖の短剣で洞窟の壁を削り、その染みを一滴だけ刃に受けた。毒ではない。血にも似た、ひどく甘い匂い。刃の上でその滴は、まるで生きているかのように濡れた光を放った。

「ここに打ってから、逆流が始まった。間違いありません。北の結界を人為的に壊そうとしている」

「王都教会か」

「少なくとも、教会の古い霊脈式を知る人間です」

マルタが、崩れた氷の向こうから恐る恐る顔を出した。彼女はその場に膝をつき、手帳と羽ペンを素早く取り出す。指先は震えていたが、視線は真っ直ぐに杭へ向けられている。

「私が記録します。設置痕の形状、封式紋の写し、周囲の氷の割れ方。これは……ヴァルデック領への霊脈干渉の決定的な証拠になる」

リゼリアは彼女へ、では、と促してからアルノートを見た。彼は左手を開いたり握ったりしている。感覚が戻りつつある証拠だ。だが、手の甲にはまだ霜斑が残っていた。

「閣下、お持ちしますか」

「不要だ。自分の足で立つ」

立ち上がる彼の肩が、一瞬大きく揺れた。リゼリアは手を差し伸べなかった。見守るだけ。アルノートは洞窟の壁へ手をつき、支えた。もたれた壁がひび割れる。それでも彼は、一本ずつ足を進めた。リゼリアは彼の背を見つめ、唇を引き結ぶ。

マルタが松明を拾い直した。入口の崩落は、崩れかけた氷の塊を蹴ると崩せた。砕けた氷が音を立てて落ち、外の空気が流れ込む。三人はゆっくりと外へ出る。夜明け前の空が、東の稜線を薄く染めていく。

「封印杭を、証拠容器に」

リゼリアの声に、マルタが鞍袋から銀の箱を取り出す。内側に岩塩を敷いた簡素な保存箱だ。箱の蓋を開けると、岩塩の匂いがほんのりと漂う。

「王都の高等法院で通じるよう、中には触れずに封蝋処理を。原本は閣下が保管して」

「お前は持たないのか」

アルノートの問いに、リゼリアは首を振った。

「私では『持ち込んだ』と言われたら終わりです。北の証人が、北の記録と一緒に保管する。それが一番強い」

彼女の声には、諦めにも似た現実認識があった。アルノートは短く頷き、箱に刻まれた留め金へ氷の血印を落とした。銀の表面に白い霜が走り、蓋がぴたりと閉じる。その霜は、まるで封印のように箱全体を覆った。

マルタが、観察記録の最後の頁へ署名する。日付はぼかし、彼女の正式な役名と血判が添えられた。羽ペンの動きが、静かな雪原に擦れる音を立てる。

「はい。私が王都まで証言します。必要な時は、真実の塩の前でだって構いません」

リゼリアは彼女から、調薬記録の写しを受け取った。羊皮紙の束は二つに分かれ、片方はマルタが、もう片方はリゼリアの外套の内側へ。これで、毒矢の成分とこの封印杭は、北の出来事として裁判に繋げられる。胸の奥で、ほんの少しだけ道が開けた気がした。

空が白み始め、雪面が青く光る。リゼリアは東を見た。王都は遠い。弟のルイスは今、あの空の下の客室で、自分を案じている。彼の顔を思い浮かべると、胸が締めつけられた。

「王都で、必ずルイスを奪還します。そして北に呪いを仕掛けた者を、法廷の証言台へ立たせます」

マルタが深く頷いた。アルノートだけは黙って、洞窟の入口へ視線を残している。その横顔は、何かを測るように洞窟の奥を見つめていた。

リゼリアは彼の左腕、霜の消え残る手の甲を一瞥した。さっきまでは、あんな冷たさではなかった。私はあなたを、あの氷の中から引き戻せた。だが、次は。もし月が満ちる夜、また封印杭が反応したら。不安が胸を過るが、彼女はそれを飲み込んだ。

「勝手に凍えるな」

アルノートが言った。リゼリアは目を上げた。彼の横顔は夜明けの薄明かりの中、相変わらず威圧と無関心で閉ざされている。けれど声には、氷の底から戻ったばかりのわずかな温度があった。

「閣下、それは命令ですか」

「北の後見人の助言だ」

リゼリアは小さく笑った。笑ったのは、久しぶりな気がした。洞窟の入口から吹き出す風が、彼女の左の三つ編みを揺らす。夜明けの光が、彼女の笑みを淡く照らした。

「では、私も助言を。北の結界に触れたのは、教会の古い式を使う者。目的はわからなくても、次の干渉は近いです。王都へ立つ前にもう一度だけ、監視塔の波形を確認させてください」

アルノートは彼女を振り返り、ゆっくりと頷いた。その瞳の奥で、朝の光が一瞬だけ揺れる。

東の空が、血のように赤く割れる。

断罪死した公爵令嬢が十年前に戻り、氷の辺境伯と契約結婚をして冤罪を塗り替える第4話 氷壁の証人